牛丼のルーツはモツ煮込みをかけた丼飯だった?/近代日本食文化史『牛丼の戦前史〈東京ワンニラ史 前編〉』を読んだ

牛丼の戦前史 / 近代食文化研究会 (著)

牛丼の戦前史

牛丼は牛鍋から生まれたものではない!豊富な資料で初めて明らかになる牛丼の歴史

本書『牛丼の戦前史』は、牛丼のルーツを探るのと同時に、丼物(どんぶりもの)それ自体のルーツと、それが大衆になぜどのように受け入れられていったのか、その変遷を探る研究書である。

日本の食文化に丼物が現れたのは明治以降、比較的新しい料理ということになる。江戸時代には丼物どころか器としての”丼”それ自体が存在していなかった。”丼”という表記があってもそれは茶碗程度の大きさの丼鉢、あるいは大鉢のことを指していた。それが明治になって現在知られている”どんぶり”となったのは、近代化による食生活・食文化の変化が関わってくる。

実は明治まではご飯は必ずおかわりをして2杯以上食べなければならない「一膳飯のタブー」が存在していたのだという。これはご飯を一杯だけで済ますのは葬式を連想させる不吉なことだったからだ。それが明治以降、都市部に低賃金労働者が集中し屋台で食事をとるようになり、屋台側はオペレーションを簡便化するため”飯2杯分”のある丼物が生み出されそれが波及したのらしい。また、当時一般的な成人男性は1日1.5合の米飯を食べており、常に大盛り飯を出す必要があった。

牛丼のルーツは明治時代に遡るが、今のような牛の正肉を使ったものではなく牛モツを煮込んだものを飯にかけた食べ物だった。当時畜肉の臓物はゲテモノ扱いされており、主に低所得者階級の食べる食材とされていた。それにより都市部に集まった下層労働者が安価で屋台で食べるものとして定着してゆく。すなわちWikipediaにある”牛鍋を丼飯にかけたものが原型”は誤りである、と著者は主張する。

これが一般大衆に広まったのは、大正7年米騒動からだった。食料を安定供給させるため政府は「公衆食堂(一品の料理しか出さない定食施設)」を開設し、オペレーション簡便化のために丼物が採用されたのである。それに関東大震災が拍車をかける。瓦礫に建つバラックで供される食べ物は、誰でも安価で簡単に作れて腹に溜まる牛丼やカレーライスだったのだ。これにより、これまで低所得者の食べ物だった牛丼が上中流階級の人々の口に入り、大衆化していったのではないかと著者は推測している。

そして牛肉の正肉が牛丼に使われるようになったのは戦後からなのだという。これは牛丼の一般化による臓物肉から正肉へのグレードアップということなのだろう。ちなみに当時の牛丼には長ねぎが使われていたが、これが玉ねぎに変わったのは牛丼店舗が増えることにより、品質管理の容易な玉ねぎに変えられたということなのらしい。

ところで副題として付けられいる〈東京ワンニラ史〉の”ワンニラ”とはなにか?というと、これは屋台で飯を食っているとおこぼれを狙った野犬が集まってきて、何か食わせろと睨んでくるのだという。つまりこのようなワンコが睨んでくるような場末感を”ワンニラ”と呼んだのらしい。