道 (監督:フェデリコ・フェリーニ 1954年イタリア映画)
フェデリコ・フェリーニ監督作『道』を観た
最近オレの中でイタリア映画界の巨匠、フェデリコ・フェリーニがプチブームである。とはいえフェリーニの代表作のひとつと呼ばれる初期作品『道』をまだ観ておらず、こりゃマズいだろというわけで今頃、やっと観た。するとこれが、作品的には十分優れているが、一般的な評価や認識に錯誤があるような作品だと思えてしまった。物語は旅回りの芸人の悲哀を描いたものだが、主人公女性ジェルソミーナの薄幸の物語と捉えられがちなこの作品、実は本質となるのはジェルソミーナを横暴に扱うザンパノの救いようのない魂にあるのではないかと思えたのだ。
【STORY】時代はおそらく1940年代、第2次大戦敗戦後の貧困に塗れたイタリアの田舎町が舞台の中心となる。寒村に生まれ育った女性ジェルソミーナは、大道芸人ザンパノに金で買われ、彼の助手として旅回りに出る。ジェルソミーナは粗暴で女好きなザンパノと全く相容れず、何度も逃げ出そうとして連れ戻される。そんなある日、ジェルソミーナはサーカス団の綱渡りの男イル・マットと出会い、彼の励ましもあってザンパノのもとで生きていくことを決意するが、その後大きな事件が巻き起こることになる。
主人公女性ジェルソミーナ
作品への一般的な紹介や感想に対して違和感を覚えるのは、主人公女性ジェルソミーナを「白痴」「知恵遅れ」と表現していることだ。別に差別的だ!とか意識の高いことを言いたいのではなく、映画を観る限りジェルソミーナは決して「白痴」「知恵遅れ」には見えないのだ。確かに一見トロ臭く、時折素っ頓狂な行動をする部分はあるが、これは単に”きちんとした情操教育を受けていない田舎町の女”であるだけのように思えるのだ。実際彼女は感情豊かで物事の判断もでき、芸に対する習熟度も高かったではないか。時折コミカルな動作を見せるにしても、それは往時のサイレントコメディへの演技的オマージュだろう。これが「白痴」「知恵遅れ」であるはずがないし、そもそも監督やシナリオ執筆者から「白痴」「知恵遅れ」という言及が果たしてあったのだろうか?
ではジェルソミーナとはなんなのか?というなら、彼女はいわゆる「無垢」の存在、それによる宗教的な意味での「無原罪」の状態にある存在だったのではないか。つまり象徴的であると同時に抽象的な側面を多大に擁しており、映画『道』が実は寓話的物語であることを示唆しているのだ。だからこれを「さんざん不幸な目に遭う可哀そうな女性の物語」ととってしまうと木を見て森を見ずということになってしまう。ではジェルソミーナはなぜ「無垢」であり「無原罪」の象徴として描かれたのか。それは本作に登場する因業極まりないクズ男、ザンパノとの対比であり、ザンパノの昏く歪んだ魂の形を浮き上がらせるための性格付けだと思うのだ。
因業極まりないクズ男ザンパノ
ジェルソミーナを金で買い、彼女を犯して奴隷のように扱い、行く町々で飲んだくれては暴力沙汰を起こし、かっぱらいを平気で行い、性格は野卑で陰険、思いやりなど欠片もなく、見るからに不潔で汚らしいけだもののような男、それがザンパノである。すなわち彼は「罪業」を煮詰めて練って人の形にしたような男であり、映画の中では同情の余地のないクズ男として描かれる。大多数の方は彼を見て嫌悪感しか起きないだろう。愚か者の彼はジェルソミーナの真心にも気づかず、物語の最後の最後になってようやくそれが分かるが既に遅きに逸し、夜の海岸で号泣しながらくずおれるのだ。
この徹底した救いようのなさはなんなのだろうか。それは、人間存在がそもそも抱える「罪業」の深さ、それによる救いようのなさを描いたものなのではないのか。つまり、同情の余地のないクズ男、誰もが嫌悪感しか抱かないその男は、実は、我々自身が抱える救いようのなさを体現した存在ではないのか。そしてそれは、カトリックが大きな力を持つイタリアにおいては、人間の原罪性そのものを暗喩しているのではないか。
ジェルソミーナとザンパノ
その罪業塗れの存在ザンパノの前に現れるのが「無垢」であり「無原罪」の存在ジェルソミーナなのである。つまりジェルソミーナは天使あるいは神性を持つ者の象徴として登場し、ザンパノの罪業を詳らかにしてこれを赦し、そしてザンパノが悔い改めることを願うのである。しかしザンパノは悔い改めるどころか罪に罪を重ねてゆき、あまつさえ赦しと救いをもたらすはずのジェルソミーナを捨てるのだ。
こうして救済者すらも拒んだ彼は、映画のそのラストにおいて、その漆黒の夜の海岸において、遂に己の罪に気付き、絶対の孤独の中に捨て置かれ、あらん限りの声を振り絞って泣き叫ぶのである。この惨めさ、この救いようのなさ、これはなんと恐ろしい物語なのだろう。タイトルとなる「道」のその意味は、たった一人孤独の中に投げ出されたザンパノが、それでも生き続けなければならない、その辛くて暗くて惨めな道、そこに人間存在があるのだ、というとても怖く寂しい意味なのではないのか。ニーノ・ロータの楽曲が情感たっぷりだから騙されそうだが、これはとてもやり切れない悲惨な映画だと思うし、この時期のフェリーニは結構ギンギンに性格暗い奴だったんじゃないか。
複雑で多層的な物語構造
ただ見方を変えるのなら、あの悲痛極まりないラストは実は、ザンパノが「遂に己の罪に気付く」という部分においてひとつの宗教的成就に辿り着いたのだとも言える。これに限らず、ジェルソミーナの象徴とするもの、旅の途中で出会うイル・マットという男の象徴するものなどにおいて、実はさまざまな解釈が可能であり、オレの今回の文章もそのひとつの”解釈”に過ぎない。そしてフェリーニの『道』が真に優れた映画だと感じるのは、この「解釈の孕む多様性」にあり、すなわち複雑で多層的な物語構造を成している部分にあると思うのだ。
配役はジェルソミーナにフェリーニ監督の公私にわたるパートナーであるジュリエッタ・マシーナ、ザンパノに『アラビアのロレンス』のアンソニー・クイン。1954年製作で日本では57年に劇場初公開され、第29回アカデミー賞では外国語映画賞を受賞した。
参考:道(1954) : 作品情報・キャスト・あらすじ・動画 - 映画.com
