『ワンダーマン』『ロストランズ 闇を狩る者』など最近配信で観たドラマと映画

ワンダーマン(Disney+) (監督:デスティン・ダニエル・クレットン他 2026年アメリカ製作)

Disney+配信のマーベル・ドラマ『ワンダーマン』は、主人公がスーパーパワーを隠しつつ映画のヒーロー役を目指す姿を描く、ハリウッド業界風刺コメディ×人間ドラマだ。主演はヤーヤ・アブドゥル=マティーン二世とベン・キングズレー。デスティン・ダニエル・クレットン(『シャン・チー』)がクリエイター・一部監督を務める。

【STORY】売れない俳優サイモン・ウィリアムズは、伝説の監督フォン・コヴァクが『ワンダーマン』リメイクを発表したことから、チャンスを掴もうと奔走する。そこで偽マンダリン役で知られるトレヴァー・スラッタリーと出会い、奇妙な友情が生まれる。しかしその背後には、ある秘密が隠されていた。

本作はこれまでのマーベル・ヒーロー作品と一線を画す、ユニークなコメディに仕上がっている。主人公は強力なサイコパワーを持っているが、決して「悪と戦う正義のスーパーヒーロー」として活躍するわけではなく、むしろその能力を隠し、周囲に知られないようにおっかなびっくり生きている。なぜなら、とある事件をきっかけに「スーパーパワーを持つ者は決して役者になれない」という法律ができたからだ。それにより物語は、ハリウッドで危ない橋を渡る主人公の気苦労をコミカルに描くことになる。決してアクション作品ではないのだ。

そして本作最大の見どころとなるのは、トレヴァーを演じるベン・キングズレーの圧倒的な存在感といぶし銀の演技力だ。マーベル映画世界では「コミカルで胡散臭い三流俳優」キャラではあるが、実際のキングズレーはシェイクスピア俳優としてキャリアをスタートさせ、映画『ガンジー』でアカデミー賞を受賞し、ナイトの称号も持つ、筋金入りのベテラン俳優である。そのキングズレーが出ずっぱりとなり、あらん限りの喜怒哀楽を見せる本作は、多くのマーベル作品の中でも最高に芳醇な演技を堪能できる、実に贅沢な一作となっているのだ。


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ロストランズ 闇を狩る者 (監督:ポール・W・S・アンダーソン 2025年アメリカ映画)

文明崩壊後の荒廃した世界を舞台にしたダークファンタジーアクション。不死身の魔女グレイ・アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が、愛と権力に飢えた王妃の願いをかなえるため、ハンターのボイス(デイヴ・バウティスタ)を案内人に雇い、魔物が支配する絶望の地「ロストランズ」へ旅立つ。監督は『モンスターハンター』『バイオハザード』シリーズのポール・W・S・アンダーソン、原作はジョージ・R・R・マーティン(『ゲーム・オブ・スローンズ』原作者)の短編小説『In the Lost Lands』。

ポール・W・S・アンダーソン、「駄目な方のポール・アンダーソン」と揶揄されることが多い監督だが、私はそれほど嫌いじゃない。しかし本作はその駄目さを全開にしたような残念な作品だった。脚本もキャラクターも書き割りの様な薄っぺらさで、とりあえず映像は派手だが世界観を全く考えてないから空っぽ、ジョージ・R・R・マーティンの原作を大きく改変したばかりにストーリーがハチャメチャ、これならウーヴェ・ボルの映画を観ていた方がまだ暇潰しになるのではないかとすら思った。

とはいえ「駄目な方」を駄目だ駄目だと叩いても建設的じゃないので良かった点を挙げるなら、物語展開から透けて見える原作の良さだろうか。物語を彩る暗く皮肉な運命の行く末は紛れもなく原作者マーティンのものだろう。つまり骨子となる部分はよく出来ているので、シナリオをもっと文学寄りにし、余計な設定やガチャガチャした演出を封印していれば、そこそこに観られるダークファンタジーに仕上がっていたのではないだろうか。


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ロストランズ 闇を狩る者

ロストランズ 闇を狩る者

  • ミラ・ジョヴォヴィッチ
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前作より現実味が増した、静かでしぶとい反骨/サラ・ピンスカー『いつかどこかにあった場所』

いつかどこかにあった場所 / サラ・ピンスカー (著), 市田泉 (訳)

いつかどこかにあった場所

彼女が噓のつもりで適当に言った不気味なローカル番組は実在し、しかも彼女自身も出演していた(「二つの真実と一つの嘘」)。飛び込んだ人間がたまに消える池で行方不明になった兄の思い出(「センチュリーはそのままにしておいた」)。バラッドの謎を解き明かそうとするネットユーザーたちは、その歌に秘められた恐ろしい意味に気づきはじめる(「オークの心臓集まるところ」)。6人のガールスカウトたちのわたしたちがキャンプで体験したこと(「科学的事実!」)。 迷っても、しっかりと着実に、奇想と現実の狭間を歩む。もっとも新しく、もっとも懐かしい、記憶を揺さぶる奇想短篇集。

以前、サラ・ピンスカーの第一短編集『いずれすべては海の中に』を読んで、強く心を掴まれました。あの幻想的で優しい奇想の世界観が忘れられず、待望の第二短編集『いつかどこかにあった場所』を手に取りました。

読み終えての率直な感想は、「ピンスカーがまた一歩、進化したな」ということ。前作が「海に落ちる運命」や記憶の変容といった、夢のような奇想に満ちていたのに対し、今作は全体的に普通小説寄りの作品が増え、現実の息苦しさを真正面から見つめるトーンが強くなっています。それでも、彼女独特の優しさとしぶとさが随所に光っていて、読み終わった後に胸の奥が熱くなる読後感は変わりませんでした。

ピンスカーはシンガーソングライターで、ロックバンド「Stalking Horses」のボーカル&ギターとしても活動する本物のミュージシャンです。その影響は作品に色濃く表れています。彼女の反骨精神は「がちがちの政治小説」ではなく、日常のささやかな抵抗として描かれるのが特徴。体制に染まりたくないロック魂が、静かに、でも確実に燃えている感じです。特に第一次トランプ政権期(2017-2021年)とコロナ禍の影響を受けた作品が多く、「自由を少しずつ取り戻す」姿勢が顕著でした。

中でも強く印象に残ったのは、ディストピア寄りの三作品です。 『われらの旗はまだそこに』(2019年発表)は、強制的な愛国心を極端に風刺した一編。当時のアメリカ社会の息苦しさを鋭く切り取っています。『今日はすべてが休業してる』は、長期ロックダウン下で閉ざされた街を舞台に、非正規雇用の司書と少女の小さな交流を描きます。閉塞感の中で生まれるささやかなつながりが胸に沁みます。 『ケアリング・シーズンズからの脱走』は、理想の高齢者施設が監視社会に変わった世界で、老女が車椅子ユーザーと共闘する話。脱走という行為そのものが、静かな反逆として輝きます。

『二つの真実と一つの嘘』『宮廷魔術師』『センチュリーはそのままにしておいた』などは、奇想の味わいが強く残っていて懐かしく感じました。特に『宮廷魔術師』は、権力に仕える代償として大切なものを失っていく寓話で、アーティストとしての「創造の代償」を考えさせられます。

『ぼくにはよく、騒音の只中に音楽が聞こえる』は、20世紀初頭のニューヨークを舞台にした美しい賛歌。実在の芸術家たちが交錯するドキュメンタリー風の語り口に、ただただ「美しい」と心奪われました。騒音の只中に音楽が聞こえる——この感覚は、ミュージシャンであるピンスカーならではのものです。

『わたしのためにこれを覚えていて』は、認知症風の老画家を描いた静かな作品。作者が当時40歳前後という若さでここまで深い想像力を発揮したことに驚きました。『もっといい言い方』は少し控えめな印象でしたが、無声映画の弁士が言葉で物語を変えるメタファーが光ります。 『オークの心臓集まるところ』は最初ピンと来ませんでしたが、古いバラッドをネット掲示板形式で解釈する実験的な形式に、物語の力とオンラインコミュニティの危うさを重ねた作品です。

『科学的事実!』は書き下ろしで、ガールスカウトのキャンプを題材にした楽しい一編。作者本人の子供時代の体験が基になっているそうで、短編集の締めとして希望とざわめきを残してくれます。

前作が大好きだった私にとって、今作の「普通小説寄りになった変化」は最初少し戸惑いましたが、読み進めるうちに「これもピンスカーらしさだ」と納得しました。幻想のベールが少し薄れた分、現実の締め付けに対する人間のしぶとさが、より生々しく胸に刺さるようになった気がします。ロックバンドのライブのように、狭い空間で仲間と小さな自由を分かち合う——そんな彼女の精神が、どの作品にも流れているのです。

奇想の華やかさは控えめになったものの、ピンスカーの内実である「反骨」と「優しさ」がより深く感じられる一冊になりました。 前作を読んだ人も、これから読む人も、ぜひ手に取ってみてほしいです。きっと、あなたの中にも「私はここでこう生きる」という小さな歌が、静かに響き始めるはずです。

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『諸星大二郎短編集成 (3) 地下鉄を降りて』を読んだ

諸星大二郎短編集成 (3) 地下鉄を降りて / 諸星大二郎

諸星大二郎短編集成 3 地下鉄を降りて (ビッグコミックススペシャル)

諸星大二郎の画業55周年を記念して、短篇作品を執筆年代順に収録する「諸星大二郎短編集成」全12巻が刊行されている。配本は隔月で、この『諸星大二郎短編集成 (3) 地下鉄を降りて』はその第2回配本にあたる(「生物都市」収録の第1集は第12回、つまり最終配本となるらしい)。

本巻には主に1978年から1979年にかけて描かれた14作品が収録されている(ただし表題作「地下鉄を降りて…」のみ1976年執筆)。あとがきによれば、週刊連載をあきらめ、月刊誌などで描いていた時期とのこと。日常の違和感から不条理・異界・神話モチーフまで、諸星大二郎らしい悪夢的でじわじわ効いてくる短編が揃っている。以下、収録作を順に見ていく。

「地下鉄を降りて…」は、一人の男が際限なく増改築され迷宮と化した東京の地下鉄駅を彷徨う不条理ホラー。確かに都心部の地下街は迷宮めいており、今も地下に降りるたびこの物語を思い出してしまう。それだけ強烈な印象を残す作品だ。「遠い国から」は諸星得意の異星訪問譚。茫漠とした荒野とどんよりとした絶望感が堪らない。「商社の赤い花」も荒野の惑星に転属させられたサラリーマンの悲劇を描く。諸星の描く異星も異世界も、どれもが荒野だ。

「コンプレックス・シティ」「広告の町」は架空の荒野の町を訪れる少女ゼビッタものの作品で、諸星の馬鹿馬鹿しいギャグが炸裂するユーモアSF。一方「鯖イバル」は砂漠で遭難した旅行客が巨大な「鯖缶」を発見するというシュールなダジャレ作品。「アリゲーター」は幻のワニに追い回される男のブラックユーモア作。「ブラック・マジック・ウーマン」は、赤羽の4畳半アパートに住んでいたという諸星が妄想を膨らませて描いたと思しきホラーコメディ。

「ヨシコちゃんと首たち」は少女の妄想を絵物語風に語るダークファンタジーで、「不思議の国のアリス」を思わせる不条理さに満ちている。「海の中」は海中を漂う水死体の幻想を描く幻想譚。「子供の遊び」は泥人形めいたグロテスクな生き物と遊ぶ子供たちが次第にその生き物と入れ替わっていくホラー作。日常にじわじわと不安が滲み出しながら、やがてその異様さを当たり前として受け入れてしまう——諸星独特の暗い諦観が凝縮した傑作だ。

「ダオナン」はアフリカの原住民が遭難した異星人と奇妙な交流を結ぶ作品。宇宙人との接触というSFの定番テーマも、受け手がアフリカ原住民であることで受容のあり方がまるで変わる。その視点の転換に優れたSF的知性を感じる。「地獄の戦士」は諸星がサム・ペキンパーばりのガンアクションを目指して描いたというディストピアSF。

「徐福伝説」は約2200年前の秦の時代、始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を求めて3000人の童男童女・技術者を率い日本へ渡ったとされる徐福の伝説をもとにした古代幻想譚。『孔子暗黒伝』とも微妙にリンクしており、諸星が得意とする中国伝奇作品として本書随一の読みごたえがある。

全体として、現実と異界の境目が曖昧になる違和感、派手ではないが奇妙に頭にこびりつく不気味さ、神話・伝承・都市風景をモチーフにした夢のような物語が揃っている。一編ごとに雰囲気がガラッと変わるのも魅力だ。本書における代表作を挙げるなら、まず「地下鉄を降りて」の、日常のちょっとした選択が異界へとつながる恐怖。「徐福伝説」の神話的想像力の豊かさ。「遠い国から」の価値観のズレが生む哀愁。そして「子供の遊び」の徐々に崩壊してゆく現実感覚、といったところだろうか。いずれも読後に静かに尾を引く、諸星大二郎ならではの短編集だった。

 

 

『諸星大二郎短編集成 (2) 猫パニック』を読んだ

諸星大二郎短編集成 (2) 猫パニック / 諸星大二郎

諸星大二郎短編集成 2 猫パニック (ビッグコミックススペシャル)

諸星大二郎画業55周年記念として、『諸星大二郎短編集成』全12巻が刊行されることとなった。諸星の短編を編年体で集成し、隔月に1冊ずつ発売されるシリーズで、この『諸星大二郎短編集成(2) 猫パニック』は第1回配本にあたる(巻番号は編年順のため(2)だが、刊行順では第1冊目)。1975〜1978年頃の作品を中心に全11作品を収録し、表題作「猫パニック」をはじめ、中編の傑作「失楽園」「マンハッタンの黒船」などが目玉となっている。

私は諸星の長年の大ファンで、長編・短編ともほぼ余さず読んできた。だからこそ「短編集成」という形で改めて購入すべきかどうかは悩ましいところだった。とはいえ、単行本未収録作品もちらほら収録されているらしく、これはもう買うしかないではないか。印刷の質の向上や、編年体での集成という点にも惹かれるものがある。配本完了まで2年かかるが、ここは腰を据えて、諸星の短編をもう一度じっくり読み直してみたいと思えた。以下、収録作を簡単に紹介する。

「猫パニック」は猫の仕草をきっかけに東京中がピタゴラスイッチのように崩壊の連鎖を起こしていくブラックユーモア作。強引すぎるほどの馬鹿馬鹿しさがスピード感たっぷりに展開する様が楽しい。「食事の時間」も筒井作品を思わせるブラックユーモアSFだが、モチーフがディケンズの『オリヴァー・ツイスト』だったことに今回初めて気づいた。

ホラー作「真夜中のプシケー」「袋の中」は諸星らしい暗くどんよりとした恐怖譚で、どこか異界へと通じるような不気味さがある。同じくホラー作「召命」は、「これほど地震が噂される東京になぜ大地震が起きないのか」を伝奇的に説明した傑作で、その異様なリアリティには今でも慄然とする。

SF作品「貞操号の遭難」「アダムの肋骨」「男たちの風景」は、まとめて読んでみると根底に性愛へのオブセッションが濃厚で、当時これほど淫靡な物語を描いていたのかと改めて気づかされた。一方「ど次元世界物語」は、最近でも諸星がよく描く脱力系のナンセンス作品。

「マンハッタンの黒船」は鎖国したアメリカに日本が黒船を送り込んで開国を要求するという歴史改変SF。鎖国期の日本をアメリカに移し替えたタイトルのダジャレが最高で、「ええじゃないか」を「ドンマイ・ダンス」と言い換えるセンスは秀逸。クライマックスの奇想天外な飛躍も素晴らしく、この作品のスケールをあらためて思い知らされた。

そして白眉はやはり「失楽園」だろう。遠い未来、文明が滅び衰退した人類の行く末を、地獄篇・天堂篇の2パートで描く。泥濘の中で絶望に塗れて生きる人々を描く地獄篇、まやかしの楽園の中で白痴めいて生きる人々を描く天堂篇——この二つを通じて、滅亡の運命にある人類を描き尽くす。その透徹したペシミズムは諸星の全作品中でも最高位に置かれるべきものだ。古今東西の絵画を象徴的にモチーフとしたグラフィックの凄みも含め、短編集成の幕開けにふさわしい一冊だった。

 

 

映画『落下音』/ 世代を超えて響く名状しがたい不安の映像詩

落下音 (監督:マーシャ・シリンスキ 2025年ドイツ映画)

映画『落下音』は、北ドイツの同じ農場を舞台に、1910年代のアルマ、1940年代のエリカ、1980年代のアンゲリカ、そして現代のレンカという4つの時代・4人の少女の視点を交錯させながら、百年にわたる「名状しがたい不安」を描く作品だ。その不安とは何か。

【STORY】1910年代。アルマは死んだ姉の気配を感じ、死と生の境界に怯えながら家父長制の農場で存在の影に覆われていく。1940年代。エリカは戦争末期の恐怖の中で女性たちの集団入水を目撃し、死への引力に蝕まれる。1980年代。アンゲリカは東ドイツの農場で目覚める性欲と男たちの視線にさらされ、逃れたい衝動を身体に刻む。現代。レンカは廃れた農場で自分の存在が薄れていく孤独に苛まれ、過去の気配が現在を静かに侵食するのを感じる。

『落下音』で描かれた不安、それは端的に言えば、「生きること」それ自体の苦痛であり、存在の重さに耐えかねて逃げ出したくなるような感覚だ。しかしこの映画はその答えを言葉では語らない。観客の身体にじわりと染みこませるようにして、それを体感させる。

20世紀初頭から現代まで、ドイツは強大な暴力と苦悩にさらされてきた。だがこの映画において、戦争も体制も歴史的事件も、あくまで背景として匂わされるにすぎない。代わりに描かれるのは、そこで生きた少女たちの身体に染みついた、得体の知れない不安・暴力・痛みだ。死と生の境界は曖昧になり、過去の「落下」の音が現在へと落ちてくるような、静かで深い実存的不安が物語全体を覆う。怪談のごとき空気感を醸し出しながら、それは超自然的な恐怖ではなく、トラウマがもたらす心理的・身体的な響き合いとして体現されている。

映像もまたその感覚を強化する。荒い粒子感と、鍵穴やドアの隙間から覗き見るような亡霊めいたカメラワークが、記憶の質感と「見られることの暴力」を同時に体現する。監督が語る「太陽を直視する痛み」というモチーフはここに通底している。直接見ることの難しさ、語られない痛みの重さ。観客はただ少女たちを見つめるのではなく、その視線そのものの中に引き込まれ、名状しがたい不安を自らも感じ取ることになる。

物語には常になにがしかの「死」が宿り、映画全体に死の臭いが充満する。自らの死、他者の死、死の記憶、死の予感、死の恐怖、死への憧れ。その果てに辿り着くのは、あまりにも希薄になってしまった生の在り方であり、曖昧になった生と死の境界だ。カタルシスはない。代わりに残るのは、胸の底に沈殿するような違和感。現代を生きる私たちが抱える「存在の希薄さ」と、歴史の周縁に置かれた女性たちの声なき声を、初めて「音」として聴いたような体験だ。

監督はベルリン出身の新鋭マーシャ・シリンスキ。長編2作目となる本作は第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で審査員賞を受賞、第98回アカデミー賞のドイツ代表作品にも選出された。共同脚本のルイーズ・ピーターとともに確立した、世代間トラウマを感覚的に描く作風に、世界は「映画言語を更新する才能」という言葉で応答している。


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