ウンベルト・エーコの『プラハの墓地』を読んだ

プラハの墓地 / ウンベルト・エーコ (著)、橋本 勝雄 (訳)

プラハの墓地 (海外文学セレクション)

知の巨人、ウンベルト・エーコ待望の最新刊。ナチスホロコーストを招いたと言われている、現在では「偽書」とされる『シオン賢者の議定書』。この文書をめぐる、文書偽造家にして稀代の美食家シモーネ・シモニーニの回想録の形をとった本作は、彼以外の登場人物のはほとんどが実在の人物という、19世紀ヨーロッパを舞台に繰り広げられる見事な悪漢小説(ピカレスクロマン)。祖父ゆずりのシモニーニの“ユダヤ人嫌い"が、彼自身の偽書作りの技によって具現化され、世界の歴史をつくりあげてゆく、そのおぞましいほど緊迫感溢れる物語は、現代の差別、レイシズムの発現の構造を映し出す鏡とも言えよう。

ウンベルト・エーコといえば『フーコーの振り子』、映画化もされた『薔薇の名前』などの作品で有名なイタリアの作家・文芸評論家・記号学者である。ヨーロッパ史と宗教学にまつわる膨大な知識に裏打ちされた幾つかの物語は、あたかも迷宮のように幾重にも折り重ねられた重厚なプロットを持つ歴史ミステリーとして絶賛されている。

とはいえ、かくいうオレは著作としては『フーコーの振り子』を読んだだけなのだが、その圧倒的な情報量を咀嚼して読むことがまかりならず、相当苦労し疲労しながら、ようやく読み終えた記憶がある。楽しめたといえば十分楽しめたのだが、作者の提示したものの3分の1、4分の1も理解していないような、なんとも情けない読後感ではあった。

そのオレが再びフーコーに挑戦しようと思ったのは、古本で安かったのと、以前の苦労をほとんど忘れてしまったという学習能力のなさがその所以である。そしてようやく読み終えたのだが、いやあ……やはり歯応えがありすぎて「オレの知力の限界を超えているよ!」と泣きが入ってしまったことを正直に告白しよう。しかし、『フーコーの振り子』の時と同様に半分も理解できたかどうかではあるが、それでも十分に楽しめる作品だったのだ。いや、理解は足りてないけどね!

プラハの墓地』は19世紀中期~末期ヨーロッパを舞台に、実際に存在する『シオン賢者の議定書』という書物のその来歴をフィクショナブルに描いた作品となる。『シオン賢者の議定書』とは何か。それはユダヤ人による世界征服の目論見が書き記された書物だ。ユダヤ人長老らがその恐るべき陰謀を企んだ場所が「プラハの墓地」であるということなのだ。実際の所、これは陰謀論から生まれた偽書なのだが、しかしこの書物に書かれた陰謀を当時のヨーロッパ社会はまともに受け取り、ヒトラーによるユダヤ人虐殺の切っ掛けになったともいわれる恐ろしい書物なのである。

物語内でこの『シオン賢者の議定書』の大元となった文章を書いたとされるのが本作の主人公シモーネ・シモニーニだ。このシモニーニ、文章偽造を生業とする小悪党であり、偏見と不信に凝り固まり、あらゆるものを見下し憎しみの対象にする、歪んだ性格を持った冷血漢なのだ。当然ユダヤ人を心の底から忌み嫌っており、その性癖が後に『シオン賢者の議定書』となる文章を書かせることになるわけである。すなわちこの物語はまずピカレスクロマンとしての側面を持つ。

卑しい小悪党の書く文章がなぜ流布することになったのか。それは文章偽造家の彼が政府の諜報機関に重宝されたからであり、国家間や対立組織に不信や疑惑を生み出すために書かれた偽文章の一つが、ユダヤ人差別を煽動するものであったのだ。物語ではイタリアやフランスでシモニーニが関わる諜報にまつわる薄汚い裏稼業、さらには殺人までが描かれ、まさに「外套と短剣」そのものの間諜物語が展開するというわけである。そう、実はこの作品、スパイ小説としても楽しめるのだ。

もう一つの側面は歴史小説としての部分だ。なんとこの作品、主人公シモニーニ以外の登場人物は全て実在の人物であり、描かれる事件も史実に基づいているのだ。それら歴史上の事実、実際の歴史の流れの中に巧妙にシモニーニの行動を配し、それらの点がひとつの線として結び合わさったときに、未だ謎とされる『シオン賢者の議定書』の創作者の姿をフィクショナブルに浮かび上がらせるというのが本書なのである。シモニーニの存在が架空であるとはいえ、まさにこのように書かれたのではないかと思わせてしまうのだ。

さらにはフリーメーソンの秘儀や反キリストの怪しげなサバトを描くオカルト小説であり、当然陰謀論についての小説でもある。そしてそれらを通し「ヨーロッパの中のユダヤ差別」を浮かび上がらせるゆく。こういった様々な側面を綿密に構成しながら蘊蓄をもって描き切るのが本作であり、物語の醍醐味となるだろう。

苦労させられたのは物語の背景となる19世紀ヨーロッパの歴史、政情、重要人物名がオレの頭にまるで入っておらず、これらが知っていて当然のこととして物語が進行するために、読んでいてしょっちゅう「今何が起こっているの?」と面食らわせられた部分だ。もちろんオレの知識の浅さの問題である。例えば19世紀中期イタリアはまだ一個の国家として統一しておらず戦争状態であったこと、同様にフランスもまた政治的混乱にあったことなど、オレはまるで知らなかった。さらにカトリックフリーメーソンユダヤ人社会、ヨーロッパ各国の思惑などがどのように絡み合いお互いを牽制しあっているのかを理解していなかったので、これも読んでいて苦労させられた。

とはいえ、「ヨーロッパにおけるユダヤ人差別」がどのように存在しどのように熟成されていったかを目の当たりにするのはなかなかに心胆寒からしめるものがあった。ユダヤ人差別は宗教的な面における対立、経済的な面における妬みなど様々な要因があるが、そもそもが十字軍遠征まで遡るものであるという。単に「ユダヤ人」という分かり易い外部を敵視することで己のさもしい自意識を優位に保つという部分もあるのだろう。

それら歴史の中で連綿と続いた差別と侮蔑の集積が、ホロコーストという名の大殺戮へと導かれた、と考えるなら、実はホロコーストを巻き起こしたのはナチスドイツというファシズム国家のみの所業なのではなく、ヨーロッパ史の中で醜い肉腫のように成長していったユダヤ人差別というものの集約点が、あのホロコーストだとも考えられるのだ。ヨーロッパにおけるホロコースト・トラウマというのは、鬼畜の如き大虐殺の悲惨さのみによるものではなく、それが「自らも遠回しに手を下した」という自責がどこかに存在するからなのではないか、とそんなことも考えた作品だった。

プラハの墓地 (海外文学セレクション)

プラハの墓地 (海外文学セレクション)

 

最近聴いたエレクトロニック・ミュージックなどなど

f:id:globalhead:20210404205847p:plain

Muslimgauze

Emak Bakia / Muslimgauze

f:id:globalhead:20210404201452j:plain
Muslimgauzeはイギリス人アーチストBryn Jonesのソロユニットであるが、彼自身は1999年に亡くなっている。Muslimgauzeとしての活動は1982年のレバノン侵攻を切っ掛けとしており、そのテーマは「パレスチナの自由」「反シオニズム」といった極めて政治的なものだった。生涯においてオリジナルスコアを約2,000曲、オリジナルアルバムを90枚以上発表した精力的なアーチストでもある(以上Wikipediaから拝借)。このアルバム『Emak Bakia』は1994年に発表され長らく絶版になっていたもののリイシューとなる。まず驚かされるのは実に今日的なサウンドデザインの在り方だ。パワフルでダンサンブルなパーカッション、ダークアンビエントなメロディ、ダブの影響を受けたベースラインなど、つい最近発売されたサイケデリックハウスミュージックと言われても通用するだろう。1994年の時点で既にこのような革新的な音を出していたことに驚嘆した。MUSLIMGAUZE Emak Bakia CD at Juno Records.

Isles / Bicep 

Isles [解説・ボーナストラック3曲収録 / 国内盤] (BRC660)

Isles [解説・ボーナストラック3曲収録 / 国内盤] (BRC660)

 

北アイルランド/ベルファスト出身のマット・マクブライアーとアンディ・ファーガソンによるテクノ・ユニットBicepの2ndアルバム。ダンサンブルであると同時にリスニングとしても優れ、どの曲も美しく情感豊かな旋律と躍動感のあるリズムに溢れる非常に充実したアルバムとして完成している。今回のイチオシの1枚。 

Lost Souls of Saturn / Lost Souls of Saturn

Lost Souls of Saturn

Lost Souls of Saturn

  • 発売日: 2019/06/14
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

デトロイト/ベルリンで活躍するDJ・Seth TroxlerとNY地下アーティストPhil MoffaによるプロジェクトLost Souls Of Saturnの1stアルバム。ドローン/アンビエント/トライバル/ダブ/テクノと様々な音の境界を行き来するサウンドにはとらえどころがなく、さらに不穏なサウンドコラージュが織り込まれ、アルバムそれ自体が映像作品のサウンドトラックのように感じさせる。奇妙な映像喚起力を持つ部分がユニークなアルバムなのだ。マニアックだが今回のお勧め。 

Brabuhr Q-Ih / Various Artists 

Brabuhr Q-Ih

Brabuhr Q-Ih

  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

UKの新進気鋭レーベルLith Dolinaからリリースされたコンピレーション・アルバム。4アーチストによって構成され、ダークかつドラマチックなドラムンベースサウンドが展開している。ソリッドな音の感触は数あるドラムンベースの中でも突出したものを感じさせる。良作。

Lux / Venus Ex Machina

Lux

Lux

  • 発売日: 2021/01/29
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

ブリティッシュ・アフリカ系女性コンポーザーVENUS EX MACHINAによる1stアルバム。暗く重々しいドローン/ノイズ系エクスペリメンタル・テクノを聴かせるが、単なるドローン/ノイズに止まらない音のしなやかさとリズムの躍動感を感じさせ、曲ごとに優れたアイディアを垣間見せている。

American Flesh For Violence / Vatican Shadow 

American Flesh For Violence

American Flesh For Violence

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

ノイズ/インダストリアル系アーチストVatican ShadowはレーベルHospital Productionsの総裁でありマルチメディア・アーティストでもあるDominick Fernowによるテクノプロジェクトだ。2019年にリリースされたこのアルバムは Vatican Shadowのレア・トラックとリミックス曲を編集したものだ。ダークでメタリックなインダストリアル・ビートに冷え冷えとしたメロディが被さり、陰鬱な美しさを輝かせたアルバムとなっている。

DJ Kicks - Peggy Gou / Peggy Gou

DJ-Kicks

DJ-Kicks

  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

ベルリンで活躍するコリアンDJ、Peggy Gouが2019年にリリースしたDJ-KicksのMixアルバム。マニアックなトラックとキャッチーなトラックを織り交ぜた心憎い1枚。

Year Of The Living Dead /John Tejada 

Year Of The Living Dead

Year Of The Living Dead

  • アーティスト:John Tejada
  • 発売日: 2021/03/26
  • メディア: CD
 

KompktからリリースされたUS西海岸で活躍するテック・ハウス・プロデューサーJohn Tejadaのニュー・アルバム。ダブ・テイストを盛り込んだ非常にシンプルなダンス・サウンドを展開している。

Hope Is A Candle / His Name Is Alive 

Hope Is A Candle

Hope Is A Candle

  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

かつてニューウェーブシーンをリードした4ADレーベルのバンド、His Name Is Aliveの1985~1990に録音された初期未発表音源集。4ADレーベルらしいフィードバックノイズに彩られたギターやゴシックなアンビエント、逆再生ループサウンドが躍る耽美的な1作。 

Long Trax 3 / Will Long 

Long Trax 3

Long Trax 3

  • 発売日: 2020/12/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

東京在住のアメリカ人アーチスト、Will Longによる極限まで音数を減らしたアンビエント・ハウス・アルバム。ストイックな音の連なりに思わず幻惑させられる。

All Hours / Ivy

All Hours

All Hours

  • 発売日: 2017/03/28
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

1994年から活動していたNYのインディーポップバンドIvyは、非凡なソングライティングと儚げな女性Vo.の心地よい実に優れたバンドで、オレも大層なお気に入りだった。そういえば最近どうしてるんだ?と思って探してみたら、2011年にリリースされていたこのアルバムを最後に活動を休止していたのらしい。音的にはこれまでのギター中心の音から一転、打ち込みを多用したサウンドを展開しているが、それも後半はいつものIvyサウンドを聴かせてくれている。

Global Underground: Select #4 / V.A.

Global Underground: Select #4

Global Underground: Select #4

  • 発売日: 2019/01/25
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

作業用に聴いているテックハウス・コンピレーション。こういうコンピって様々なアーティスト名が明記されるが、実際は数名のアーチストが名前を変えて回しているような気がするな。

バットマン・ストーリーの魅力を余すところなく伝える手堅い傑作『バットマン:ハッシュ』

バットマン:ハッシュ / ジェフ・ローブ (著)、ジム・リー (イラスト)、中沢俊介 (訳)

バットマン:ハッシュ 完全版

キラークロック、ポイズン・アイビー、ハーレイ・クイン、ジョーカー、スケアクロウラーズ・アル・グール……次々と現れた宿敵たちが闇の騎士バットマンを付け狙う。事件の陰に潜む謎の男“ハッシュ"の正体とは? そして謎が謎を呼ぶ悪夢の饗宴の結末は……!? ナイトウィング、ロビン、オラクルらのいつもの仲間たちに加え、スーパーマンバットマンとのロマンスの行方も気になるキャットウーマンも登場。シリーズを代表する宿敵たちとバットファミリーが総登場する豪華作品が完全版として甦る!

ここ最近『バットマン:ホワイトナイト』『バットマン:カース・オブ・ホワイトナイト』と非常にクオリティの高いバットマン・コミックを立て続けに読み、大いに興奮させられた。これらは2018年に設立された「DCブラックレーベル」というブランドによるもので、より独創的かつ革新的なコミックの創造を目指して立ち上げられたものだ。

とはいえ、ここで一旦「DCブラックレーベル」以前のオーソドックスなバットマン・ストーリーに触れたくなり、そうして選んだのが本国では2002年にリリースされたこの『バットマン:ハッシュ』だ。

物語はゴッサムの街をスーパーヴィランたちが矢継ぎ早に襲い始めることから始まる。バットマンは例によって彼らを次々と撃退してゆくが、この一連の襲撃の背後に何者かの力が関与していることを疑い始める。その人物とは誰か?そしてどんな目的があるのか?その謎を探偵よろしくバットマンが捜査してゆくというのがこの『バットマン:ハッシュ』だ。

ヴィランたちが大挙して襲い掛かるプロットはバットマン・コミックではよくみられることだが、この『バットマン:ハッシュ』では1話ごとに個別にヴィランが登場して見せ場が作られる。そのヴィランたちとはキラークロック、ポイズン・アイビー、ハーレイ・クイン、ジョーカー、スケアクロウラーズ・アル・グール。これらヴィランたちがそれぞれにバットマンとのガチンコ勝負を見せつけてくれるのだ。バットマン側にはハントレス、ナイトウィング、ロビン、オラクルらも加勢し、オールスターの物語を大いに盛り上げる。あの「鋼鉄の男」の登場まであるではないか。この独特の構成こそが本書の醍醐味であろう。

バットマンヴィランとの対決、ヴィランたちを操る謎の存在、そういったメイン・ストーリーと並行して描かれるのがバットマンブルース・ウェインキャットウーマン/セリーナ・カイルとの恋の行方だ。敵か味方かはっきりせず移り気でなかなか心の読めないキャットウーマンだが、この物語ではバットマンと大いに接近し、しっとりしたラブシーンまで見せつけてくれる。そしてバットマンは己の正体を明かすかどうかに葛藤するのだ。

最近の諸作では善悪の価値観が曖昧になり己のアイデンティティの在り方に苦悩するバットマンが多く描かれるが、この『バットマン:ハッシュ』でのバットマンは正義のためにひたすら鉄拳を振るう、どこまでもタフでマッチョな存在として描かれる。それはヴィランたちを震え上がらせる黒々とした暗黒の騎士としてのバットマンだ。すなわちこの作品では一点の迷いもないシンプルなアメコミヒーローとしてのバットマンを楽しむことができるのだ。女性キャラたちは誰もが妖艶で肉感的であり、女豹のように危険な存在として登場する部分にもオーソドックスさを感じる。

筋肉隆々な肉体を見せつけるバットマンの姿や、大見得を切るかのように華麗なポージングをキメて戦うヴィランたちの姿など、グラフィック的な演出さえもオーソドックスであり、誰もが知るアメコミのイメージを遺憾なく堪能することができるだろう。こういった部分も含めて、定番すぎるほどのバットマン/アメコミ・ストーリーではあるが、だからこそ気兼ねなく楽しめ、満足することのできる良作であろう。「バットマン・コミックは沢山出ているけどどれから読めばいい?」と迷われている方には是非お勧めしたい作品だ。

バットマン:ハッシュ 完全版

バットマン:ハッシュ 完全版

 

『ドクトル・ジバコ』出版の陰に隠された二つの女の物語/『あの本は読まれているか』

あの本は読まれているか / ラーラ・プレスコット(著)、吉澤 康子 (翻訳)

あの本は読まれているか

冷戦下のアメリカ。ロシア移民の娘であるイリーナは、CIAにタイピストとして雇われるが、実はスパイの才能を見こまれており、訓練を受けてある特殊作戦に抜擢される。その作戦の目的は、反体制的だと見なされ、共産圏で禁書となっているボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』をソ連国民の手に渡し、言論統制や検閲で迫害をおこなっているソ連の現状を知らしめることだった。──そう、文学の力で人々の意識を、そして世界を変えるのだ。一冊の小説を武器とし、危険な極秘任務に挑む女性たちを描く話題沸騰の傑作エンターテインメント

 映画『ドクトル・ジバゴ』はデヴィッド・リーン監督作品の中で最も好きな映画だ。『アラビアのロレンス』でも『戦場にかける橋』でもなく『ドクトル・ジバゴ』なのだ。あの雄大でどこまでも果てしない雪の大地がいい。決して成就しない切ないロマンスがいい。ロシア革命という巨大な時代の変節点を描いた歴史性がいい。

その『ドクトル・ジバゴ』の、原作小説出版にかかわる諜報劇を描いたミステリ小説があるというのでとても興味が湧き読んでみることにした。タイトルは『あの本は読まれているか』、アメリカ人作家ラーラ・プレスコットのデビュー作となる。

ドクトル・ジバゴ』はソ連の作家ボリス・パステルナークによって書かれ1957年に出版された文芸小説だ。1957年、フルシチョフ政権下のソ連はいまだ鉄のカーテンの向こう側にあり、その中で『ドクトル・ジバゴ』は反社会主義的な内容だとして本国での出版を許されなかった。しかし原稿は秘密裏にイタリアに持ち込まれてようやく上梓、その後世界18カ国で翻訳され大絶賛を受ける。『ドクトル・ジバゴ』はその文学的功績によりノーベル文学賞を受賞することになるものの、ソ連政府からの圧力によりパステルナークは受賞を辞退する形となってしまった、というのが史実となる。

小説『あの本は読まれているか』は『ドクトル・ジバゴ』出版前後のソ連アメリカを舞台としている。まずソ連に住む原作者パステルナークとその愛人オリガが小説出版を巡る葛藤に苛まれる日々を描く章が一つの軸だ。そしてワシントンに住む新米CIAタイピスト、イリーナがスパイとして訓練され、社会主義ソ連を牽制するため本国では発禁本である『ドクトル・ジバゴ』を西側に流通させる作戦にかかわってゆく章がもう一つの軸となる。作品ではこの「東側」「西側」の様子が交互に描き出されてゆくのだ。

「東側」での基本的な主人公は愛人オリガだ。彼女はパステルナークのミューズとして『ドクトル・ジバコ』を書き上げる大きな力となるが、しかしパステルナークとかかわったことでソ連政府により投獄され、出所後も政府の監視に常に怯えながら暮らしている。一方パステルナークは自らの小説が世に出ることを願って止まないのと同時に、それが出版されることにより自身とオリガの身に危険が及ぶことの葛藤に悩まされ続けている。「西側」ではイリーナがスパイ訓練の中で女性教官サリーとの間に禁じられた愛が芽生え、やはり葛藤してゆくさまが描かれてゆくのだ。

とはいえ、最初ル・カレ的な東西二つの国家での熾烈な諜報戦を期待して読み進んでいたのだが、中盤からどうやら主題はそこではないと知り、若干肩透かしを食ったことは否めない。この小説で真に描かれるのは冷戦体制に翻弄されるそれぞれの国の女の生なのだ。

「東側」でオリガは秘密警察の影に常に怯え心身を苛まれ、パステルナークとの愛に振り回され続ける。「西側」でイリーナはスパイとしてめきめきと功績を上げながら、サリーとの愛の行方に引き裂かれゆく。それらは瑞々しくもまた悲哀にあふれた筆致で描きあげられており、東西二つの国家で女が女として生きることの寄る辺なさを炙り出してゆくのだが、個人的にはちょっと「コレジャナイ」感を感じてしまった。

まず「西側」で描かれるドラマに『ドクトル・ジバコ』と関わらねばならない必然性を感じなかった。男権主義的な諜報世界の中で地味な裏方仕事をこなさねばならない女たちの悲哀、というプロットは確かに理解できるし、それを「東側」オリガと対比の形で描くことにより「冷静時代の女」を立体的に描こうとする構造も理解できるが、こと「諜報」そのものの描写が薄く、また『ドクトル・ジバコ』を東側で流通させることの重要な画期性が伝わり難い。

「東側」描写においても資料を非常に活用し、さらに登場人物らに寄り添った感情描写が為されているが、フィクションとしての飛躍が今一つ足りないように思えた。また、最後まで東西登場人物は関わり合わないという部分が物語的カタルシスを希薄にしているように思う。そういった部分で、非常によく描かれていのだが、食い足りない印象を残してしまった作品だった。

あの本は読まれているか

あの本は読まれているか

 

 

ジョーカーの狂気に取り込まれてしまった男 /『ジョーカー:キラースマイル』

ジョーカー:キラースマイル / ジェフ・レミア (著)、平井悠太郎・飯田ねり(訳)

ジョーカー:キラースマイル

アーカムアサイラムに勤務する精神科医ベン・アーネルは、収容されたジョーカーを被験者に新たな学説の確立に意欲を燃やす。注意を促す周囲の声をよそに研究に没頭するアーネルは、やがて奇妙な感覚に囚われ始め、息子が持っていた一冊の絵本から、その懸念は現実のものへ……。 ジョーカーは塀の中にいたはずなのに、一体なぜ、いつから……。 ジョーカーに深入りしたばかりに己を失っていく精神科医の姿を通し、自我とは何かという根源的な命題に鋭く切り込むジェフ・レミアの意欲作。 

ジョーカーに関わってしまったばかりに狂気に取り込まれてしまった精神科医、というとジョーカーの恋人ハーレイ・クインを思い出してしまうが、コミック『ジョーカー:キラースマイル』はその精神科医を男性として描き、 ハーレイ・クインの物語とはまた違った展開を持つ狂気の物語として描いているのだ。

アーカムアサイラムに勤務する精神科医ベンはジョーカーと面談を繰り返すうちに奇妙な幻覚を見るようになる。それは殺戮をほのめかす息子の絵本、トイレの中の死体、血を流して笑う彼の家族、スーパー・ヴィランがたむろするダイナーで供される自分の生首。次第にベンは現実と非現実の区別がつかなくなり、その狂気は遂に暴走し始める。

この物語で主人公ベンはジョーカーの企みにより狂気に至ったという描かれ方をしていない。むしろジョーカーとの面談によりその狂気に取り込まれ伝染し自らも狂気に至ってしまったのだ。ジョーカーの狂気により深く近づいてしまったものが至る精神崩壊といった点でハーレイ・クインの物語と同等ではあるが、愛の形で結実せずひたすら破滅へとひた走ってゆくその展開には冷え冷えとした恐怖だけが横たわる。

グラフィックは一部作者の描いたもののようだが、殆どで写真加工したものを使用しているように思えた。このグラフィックが物語全体に奇妙に殺伐とした冷たい感触を加味する効果を上げている。また、単行本は本編『キラースマイル』の他に続編となる『バットマン:スマイルキラー』を同時収録、これがまた現実とも非現実とも取れる異様な物語展開を成しており、不気味な「バットマン・ストーリー異聞」として完成している。

ジョーカー:キラースマイル

ジョーカー:キラースマイル

 
ジョーカー [Blu-ray]

ジョーカー [Blu-ray]

  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: Blu-ray