森美術館で開催中の『ロン・ミュエク展』を観に行ってきた

先週の金曜日は夏休みをとって六本木の森美術館で開催されている『ロン・ミュエク展』を観に行きました。ロン・ミュエク、名前を知らなくても「超巨大でリアルな人体像のアート作品を製作する人」と言えばピンとくるかもしれません。

そのロン・ミュエクの作品をこの目で直接見られるなんて、これはもう行くしかないでしょう。本展覧会はロン・ミュエクの全49作品のうち11点もの作品が展示され、規模としても相当大きなものとなります。なにより《マス》というタイトルで知られる100個のもの巨大頭蓋骨の展示が非常に楽しみでした。

【ロン・ミュエク展(要約)】ロン・ミュエク(1958年オーストラリア生まれ、英国在住)は、革新的な素材と技法で具象彫刻の可能性を広げてきた現代美術作家です。人間の観察と哲学的な視点から生まれる作品は、生命感あふれる精巧さと、孤独・脆さ・不安・回復力といった内面的な感情を表現しています。

実際の人間より大きくまたは小さく造られた彫刻は、私たちの知覚の先入観に挑みつつ、圧倒的なリアリティと曖昧さを併せ持ち、身体や存在の本質を問いかけます。

本展はカルティエ現代美術財団との協働により、2023年パリを起点にミラノ・ソウルを巡回し、森美術館で日本開催。大型作《マス》(2016-17)をはじめ、初期の代表作《エンジェル》(1997年)など11点を展示(うち6点が日本初公開)。加えて、写真家ゴーティエ・ドゥブロンドによる制作過程の写真・映像も公開し、作家の創作の軌跡を深く紹介します。

ミュエクの作る人体像は、その異様なスケール感はもとより、プロポーションや顔つきを微妙にデフォルメさせていることに気付かされます。これは彼が「人形」のような写実的な人体像を描こうとしているのではなく、写実を超えた「心理的なリアリズム」を狙ったものだからです。これにより鑑賞者に違和感・不安・親密さ・脆弱さといった複雑な感情を呼び起こさせ、心理的な深みをもたらそうとしているんです。

今回は展示されている11作品全ての写真を撮ったのでこれをブログに掲載します。開場してすぐ全てを回って撮影したので、観覧者が写り込まず結構いい写真になったんじゃないかと思います。これから観る方、または観に行くことのできない方の参考にぜひご覧になってください。

《枝を持つ女》2009年(日本初公開)

裸の女性が持ちにくい木の枝の束を抱え、体を反らせるシュールな姿。引っかき傷や物語の曖昧さが想像を掻き立てます。寓話的な雰囲気の中で、人間の努力と抵抗を象徴的に描いた作品です。

《イン・ベッド》2005年

長さ6.5mの巨大なベッドに横たわる中年女性。上方を見つめる表情に不安や憧れが漂います。鑑賞者は目線の高さで顔を凝視し、通常の人間関係とは異なる距離感を体験。森美術館の大型作品のひとつです。

《若いカップル》2013年

寄り添う10代の男女。少年が少女の手首を握る不穏な力関係が、背後から明らかになります。小さなスケールが第三者的な視点を強め、関係性の複雑さと危うさを静かに浮かび上がらせます。

《ゴースト》1998/2014年

水着姿の10代少女が壁にもたれ、内気で怯えた表情で視線をそらす。思春期の自意識と戸惑いを、等身大より大きく細長い脚で増幅。1998年初版を2014年に再制作したアーティスト・プルーフ版です。

《エンジェル》1997年(日本初公開)

背中に大きな翼を持つ小さな男性がスツールに座り、俯いて物思いにふける姿。18世紀の絵画に着想を得た初期代表作で、一般的な天使像とは異なり、人間の内省と脆さを静かに表現。スケールの小ささが親密な鑑賞を促します。

《チキン/マン》2019年(日本初公開)

下着姿の老人がテーブル前に座り、一羽の鶏と対峙する奇妙な光景。緊張した無言の関係と謎めいた雰囲気を実物より小さなスケールで造形。鑑賞者の想像力を強く刺激する、物語性豊かな近作です。

《ダーク・プレイス》2018年(日本初公開)

中年男性の頭部が暗闇の中に浮かび上がる作品。照明と闇を巧みに使い、感情の深みを強調。鑑賞者は入口に留まり、内面世界を探求するよう誘われます。自画像構想から生まれた逸話も印象的です。

《舟の中の男》2002年

全裸の中年男性が古びたボートの船首に座る漂流の情景。なぜ裸でどこへ向かうのか、謎と不安、人生の旅の気配が交錯。ナショナル・ギャラリー時代の経験が反映された、象徴的な作品です。

《買い物中の女》2013年(日本初公開)

買い物袋と赤ん坊を抱えた母親の疲れ果てた日常。聖母子像の現代版として、大都市の切ない現実を小さく造形。視線がどこにも合わない孤独感が、静かに胸に迫ります。

《マスクⅡ》2002年

作家自身の眠る顔を約4倍の大きさで表現。台座に置かれ、背面は空洞で現実と虚構の境界を曖昧にします。仮面か人間か、存在の不確かさを静かに問いかける、典型的なミュエク作品です。

《マス》2016-2017年(日本初公開、大型インスタレーション)

本展の最大の見どころである大型インスタレーション《マス》は、直径約1〜1.5メートルの巨大な頭蓋骨100体で構成されます。ミュエクが各会場に合わせて再構成するサイトスペシフィック作品で、森美術館では約300㎡の空間に山のように積み重なる圧倒的な光景が広がります。一つひとつの頭蓋骨は歯の欠け方やヒビ、色合いが微妙に異なり、個の集合体としての重みを感じさせます。西洋美術史の「メメント・モリ」(死を忘れるな)を現代的に再解釈し、死・存在・集団の普遍的なテーマを問う傑作です。鑑賞者は作品の中を歩き回りながら、そのスケール感と静かな迫力に飲み込まれ、自身の生と死を強く意識させられます。寡作のミュエクにとって重要な転換点となった、没入型の体験型作品です。

(クリックすると大きな画像になります)

《スティル・ライフ:制作中のロン・ミュエク》《チキン/マン》

フランスの写真家・映画監督ゴーティエ・ドゥブロンドによる貴重な映像作品です。ミュエクのロンドン・スタジオで長年にわたり撮影された制作過程を記録し、精緻な彫刻がどのように生み出されるかを克明に映し出します。特に《チキン/マン》(2019年)関連の映像は、作品の裏側にある膨大な時間と労力を感じさせ、作家の比類ない職人技と哲学的なアプローチを浮き彫りにします。本展で彫刻と併せて鑑賞することで、作品の深みがさらに増します。

森美術館のある六本木ヒルズタワー53階から見下ろした都心の街並み。この日は良く晴れていて遠くまで見渡せました。

www.mori.art.museum

イタリア産青春ミステリ『過去は異国』を読んだ

過去は異国 / ジャンリーコ・カロフィーリオ (著), 飯田 亮介 (翻訳)

過去は異国 (扶桑社BOOKSミステリー)

1989年、バーリ。憲兵隊(カラビニエリ)のキーティ中尉は連続レイプ事件の捜査に頭を悩ませていた。一方、法学専攻の大学生ジョルジョの順風満帆ながらも退屈な生活は、ある夜を境に一変する。パーティーの場で出会ったフランチェスコは謎めいた魅力を持ついかさまギャンブラーで、彼に誘われるがままにコンビを組んだジョルジョはすぐに、ポーカーで勝利をかさね、大金を得るという刺激的な日々の虜となる。だがそれは逃れられない転落のはじまりでもあり……。イタリア・ミステリ界の巨匠渾身の一作。

1989年、イタリア。法学部の学生ジョルジョは、パーティーで知り合ったフランチェスコに誘われ、いかさまポーカーで金を稼ぐ裏の世界に足を踏み入れる。その刺激に深くのめり込むほどに、人生は少しずつ姿を変えていく。一方、憲兵隊のキーティ中尉は連続レイプ事件の捜査を進めていた。やがて二つの物語は思いがけない形で交錯する――バンカレッラ賞を受賞した犯罪心理小説である。

著者ジャンリーコ・カロフィーリオは1961年、イタリア・バーリ生まれ。組織犯罪捜査を専門とする検事として長く活躍したのち、2002年に小説家としてデビューした。現在はイタリア・ミステリ界を代表する作家の一人であり、グエッリエーリ弁護士シリーズなどは世界31カ国で累計700万部を突破している。半自伝的要素を含む青春クライムノベルである本作も、その代表作の一つとして高く評価されている。

本作最大の魅力は、主人公ジョルジョの内面が徐々に崩れていく過程を丁寧に描いた点にある。真面目でおとなしい青年が、フランチェスコの魅力とギャンブルのスリルに魅入られ、「あるべき自分」から少しずつずれ、逸脱していく――その痛切さが胸に迫る。物語のあちこちに織り込まれた文学作品への言及も読みごたえを増す要素で、パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』やフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』を思わせる危うい青春像が鮮やかに立ち上がる。本作自体もまた、一級の青春文学として読むに値する。

ミステリとしての仕掛けはむしろ控えめで、本作の本質はビルドゥングスロマン(青春小説)に近い。交錯する二つの物語が生む緊張感と、過ぎ去った日々が「異国」のように遠く感じられる郷愁とが、読み終えてなお胸に残る。ノワール的な背徳感とサスペンスが絶妙に絡み合い、ジョルジョへの共感と哀れみが同時に湧き上がる――若さゆえの過ちというものの普遍性を、改めて考えさせられた。

イタリアでは10万部を超えるベストセラーとなりながら、日本では長らく知られていなかったカロフィーリオの代表作が、なぜ今になって発掘されたのか。検事出身者ならではのリアリティに満ちた犯罪描写と、誰もが心当たりのある青春の過ちというテーマが、現代の読者にも深く刺さるからだろう。心理描写を重視した文学的犯罪小説を求める人には、迷わず勧めたい一冊だ。読み終えて手元に残ったのは、ジョルジョという他人の青春への羨望でも嫌悪でもなく、ただ自分自身の「あの頃」をふと振り返らせる、静かな揺さぶりだった。

 

『リトル・ブラザー』『リタイアメントプラン 殺し屋の引退生活』 など最近観た配信映画

リトル・ブラザー(Netflix映画)(監督:マット・スパイサー 2026年アメリカ映画)

成功した不動産エージェントのラッド(ジョン・シナ)は、妻や家族とそれなりに順調な生活を送っていた。ところがある日、高校時代にビッグブラザー・プログラムで面倒を見ていた「弟」マーカス(エリック・アンドレ)が突然転がり込んできて、完璧に管理されていた日常が一気に崩壊する。リアリティ番組への出演騒動や実の兄との確執も絡み、予測不能の混乱が巻き起こるR指定のドタバタ・バディコメディだ。

ジョン・シナはお気に入りの俳優なので視聴したが、今作も安定の脳筋木偶の坊ぶりが実に味わい深い。物語の基本テーマは「成功を追うあまり周囲が見えなくなった男が、本当に大事なものは家族だと気付く」という、まあよくある代物である。ただし、この使い古された設定に「ビッグブラザー・プログラム」(困っている子供のメンター=兄になるボランティア活動)を持ち込み、ある日突然、赤の他人を「弟」として受け入れなければならなくなる――というドタバタを仕掛けてきたのが本作のウリだ。

やってきた“弟”マーカスがとにかく迷惑千万なキャラで、ラッドは徹底的に振り回され、いつもブチ切れ一歩手前!実のところこのマーカス、悪意の全くないピュアな性格の男なのだが、あまりのお騒がせ者ぶりに観ているこちらまでイライラさせられてくる。彼の突飛な行動で笑いを持ち込みたかったのは分かるが、正直やることがきつすぎて笑えない場面も少なくなかった。

とはいえ、中盤からマーカスがTVメディアに注目され始め、ラッドの立場や行動が180度ひっくり返るあたりで、話は急にスムーズに転がり出す。最初は被害者然としていたラッドが、実は視野が狭くて思いやりのない男だったということがあからさまになり、今度は逆にマーカスの明るく機転の利く性格の方が好ましく思えてくる。この、主人公への感情移入の仕方がガラッと変わっていく構成こそが、本作の面白いところだ。ここからは笑いのテンポも軽快になり、ラストも程よく丸く収まって、気持ちよく観終わることができる。ただし相当エグいシモネタが連発するので、家族揃って観るのは避けた方が無難だろう。


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リタイアメントプラン 殺し屋の引退生活 (監督:ティム・J・ブラウン  2023年アメリカ映画)

犯罪組織に追われる娘アシュリー(アシュリー・グリーン)と孫娘サラが、ケイマン諸島で隠居生活を送る疎遠の父マット(ニコラス・ケイジ)に助けを求める。元凄腕殺し屋の過去を持つマットの穏やかな引退生活は一転し、ギャングのボスらが迫る中、家族を守るためのアクションが展開する。

いわゆる「ナメてた相手は凄腕エージェント」系の作品だが、箸にも棒にもかからないヌルイ映画であった。ニコケイが出ていなかったら観ていなかっただろう。そもそも「危険な情報の入ったUSBメモリの争奪戦」という物語設定がありきたりすぎてうんざり。シナリオも登場キャラも安っぽく、元凄腕エージェントのはずのマットが単なる普通の隠居爺さんにしか見えず、ケイジの持ち味である大げさ演技も控えめで期待外れ。

ただ、ロン・パールマンの出演は嬉しかった。面倒くさそうに悪事を働くボボのキャラはなかなか味わい深く、存在感があった。とはいえ、少女(孫娘)との交流シーンが出てきたあたりで「ここから物語が少し化けるかも?」と一瞬期待したのだが、結局ただの悪漢に戻ってあっさり退場。実にロン・パールマンの無駄使いで惜しい。このシークエンスをもっと膨らませればそこそこに見どころのある物語になっていたかもしれない。

ニコケイが例によってドタバタを演じるのは伝統芸を眺めているみたいで飽きはしなかったが、物語自体はまるで盛り上がることなく終わってしまう。ニコケイファンなら「まあニコケイらしい映画だな」と済ませられるが、ファン以外の方にはお勧めできない作品だ。


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Seefeelを中心に最近聴いたエレクトロニカ界隈

Seefeel
Pure,Inpure (Expanded EPs Edition) / Seefeel【今日の1枚】

1993年の幻のコンパイル『Pure, Impure』を大幅拡張した2025年リイシュー。Too PureからAbbey Roadリマスターで蘇った11曲約76分の傑作だ。『More Like Space』『Plainsong』『Time to Find Me』の3枚のEPを統合し、Aphex Twin(AFX)によるリミックス群と未発表デモ「Moodswing」を追加。

「More Like Space」の浮遊するギター・ループと「Time to Find Me (Come Inside)」の hypnotic なミニマリズムが織りなす、シューゲイザーとアンビエント・テクノの融合は今も鮮烈。Aphex Twinの歪んだビート処理が加わることで、トリッピーかつダンサブルな深みが爆発的に増幅する。

デビュー作『Quique』の幻想性から一歩進んだ、ストIPPED-downで反復的な美学。30年を経ても色褪せない90年代UK電子音楽の重要ドキュメント。じっくり没入するほどに「純粋さと不純さ」が溶け合う、至高のリスニング体験だ。Seefeel入門にも最適の一枚。

Sol.Hz / Seefeel【今日の1枚】

Warp Recordsから2026年5月1日リリース。Seefeelにとって2011年のセルフタイトルの15年ぶりとなるフルアルバム。Mark CliffordとSarah Peacockを中心に、約42分9曲の「dub album」と称される新作だ。

「Brazen Haze」でゆっくりと霧のように立ち上る白ノイズと浮遊メロディから始まり、「Ever No Way」「AM Flares」「Falling First」へと続く。Sarah Peacockの幽玄なヴォーカルが反響し、Mark Cliffordの加工されたギターが曖昧な輪郭を描く。重く響く低音とディレイのヴェール、抑制されたリズムが織りなす hazy で vaporous なテクスチャーは、『Succour』や『(Ch-Vox)』の系譜を現代的に昇華させたもの。

ミニマルでありながら情感豊か。90年代のシューゲイザー/アンビエント・テクノのエッセンスを、静謐で没入感の高い音世界に凝縮。悲しみと恍惚が溶け合うような、暖かくも儚い響きが心に染みる。Seefeelの現在形を象徴する、じっくりと浸るべき至高の一枚だ。

Quique Redux (2025 Remaster) / Seefeel【今日の1枚】

1993年の伝説的デビュー作『Quique』をAbbey Roadで新リマスターした2025年Redux Edition。オリジナル9曲に加え、未発表音源や別ミックスを加えた18曲・約2時間3分の完全版として蘇った傑作だ。

「Climactic Phase #3」「Plainsong」「Industrious」などの浮遊するギター・ループと反復する電子パルス、Sarah Peacockの儚いヴォーカルが織りなす、シューゲイザーとアンビエント・テクノの融合は今聴いても圧倒的。Geoff Pescheによるリマスターで、細部まで鮮明に浮かび上がるテクスチャーと深みが増した。

90年代UK地下シーンを象徴する「oceanic shoegaze」を電子的に昇華した音世界。30年以上の時を経ても色褪せないタイムレスな美しさ。Seefeel入門はもちろん、すでに持っているファンも必携の決定版。夢のような没入感に、じっくり身を委ねてほしい。

Gentle Hum / Ah! Kosmos & Hainbach

ベルリン拠点のAh! Kosmos(Başak Günak)とHainbach(Stefan Goetsch)による2026年4月リリースの2ndデュオアルバム。FUU RECORDSから約45分14曲で登場し、前作『Blast of Sirens』からさらに内省的でフォーカスされた世界観を展開した。

テスト機器やアナログシンセ、ピアノ、オルガン、チェロ、加工されたヴォーカルが織りなす音世界は、ノイズやハムを「生きる要素」として丁寧に掘り起こす。タイトル曲の温かく粗いテクスチャーから始まり、『In a Pattern Like a Shell』や『Apparition』、『Further Than Sunlight』などで響く流動的なドローン、ストリングス、機械的な脈動が、儚くも情感豊かな「in-between states」を描き出す。

実験性とメランコリーが溶け合う、静かで抱擁的なエレクトロニカ。機械の息吹と人間的な温もりが交錯する、没入感の高い一枚。実験音楽やアンビエント好きはもちろん、じっくり耳を澄ませるリスナーに強くおすすめしたい。

Blumenfantasie / Xylitol

Planet Muから2026年3月20日リリース。UKプロデューサーXylitol(Catherine Backhouse)の2ndアルバム。前作『Anemones』に続く約45分10曲入りで、jungle / drum’n’bassの高速ブレイクビートと、krautrock・kosmische・Miaux由来のメランコリックなヨーロッパン・シンセを融合させた「cosmic jungle」の深化版だ。

「Chromophoria (with Sculpture)」「Melancholia」「Mirjana」では、細やかに捻れたリズムと浮遊するシンセが絡み合い、疾走感と儚いメランコリーが共存。ヘッドフォンで聴く没入感とダンスフロアの熱量を両立させた、painterlyでintimateな音世界が広がる。

『Anemones』よりメランコリーが前面に出つつ、より洗練された構築美。90年代jungleの魂と現代的電子音楽の感性が交錯する、聴き込むほどに花開く幻想的な一枚。jungleファンもエレクトロニカ好きも、ぜひこの「花の幻想」に浸ってほしい。

(※この記事はLLMで作成しています)

禁忌の修道女、禁忌の血 /韓国ホラー映画『鬼胎(クィテ) 黒い修道女』

鬼胎(クィテ) 黒い修道女 (監督:クォン・ヒョクチェ 2026年韓国映画)

原因不明の激しい発作に苦しむ少年ヒジュン(ムン・ウジン)。"黒い修道女"と呼ばれるシスター・ユニア(ソン・ヘギョ)は彼の症状が凶悪な"十二悪魔"の仕業だとして悪魔祓いを求めるが、担当医のパク神父に一蹴される。それでも少年を救うため、ユニアはパク神父の弟子ミカエラ(チョン・ヨビン)を巻き込み、教義が禁じる禁断の儀式へと踏み出す。

監督は『トラブルシューター 解決士』のクォン・ヒョクチュ、ジャンルの枠を軽々と越えてきた彼にとって本作が初の宗教ホラーへの挑戦となる。また本作は、カン・ドンウォン主演の韓国オカルトホラーの先駆的作品である『プリースト 悪魔を葬る者』(チャン・ジェヒョン監督、2015年)のスピンオフとして位置づけられており、同作の世界観を受け継いだ姉妹編として機能している。

まず目を引くのは映像の質感だ。冷たい石造りの修道院の暗部に鬱蒼とした陰影が積み重なり、陰惨というよりも静謐な美しさがある。ソン・ヘギョが体現するユニアの存在感は圧倒的で、業を背負った痛々しい女の顔だ。また修道女たちが聖職者らしからぬタバコを吸い、食べ物に貪欲にかぶりつく描写は小気味よく、彼女たちに血の通った生々しい肉体を与えることに成功している。さらに女性が主人公のホラーであることが、物語に独特の翳りを与えている。男性中心の教会組織に弾かれながら、命を懸けて儀式を執り行う修道女たち——その姿には、暗鬱なエモーションが静かに漲っている。

エクソシスト・ホラーとしての骨格はフリードキン版『エクソシスト』のプロットを踏襲しており、そこに新たな驚きを上乗せし得なかった部分には若干の凡庸さも感じる。しかしこの映画の真骨頂は、ホラー的な驚愕演出よりも"黒い修道女"という主人公の立ち位置にこそある。物語にはキリスト教的な悪魔祓いのみならず、韓国のシャーマニズム(巫女)が混入し、プリミティヴでアニミスティックな異様さが加わる。その儀式描写は度肝を抜くものがあり、本作が『哭声/コクソン』や『破墓/パミョ』と並ぶ"土着の霊的恐怖"を持つ作品であることを示している。

「聖職叙階は女性には与えられない」——この事実が物語のハードルとして機能しているのも興味深い。本来、修道女は悪魔祓いを公式に執り行う権限を持たない。にもかかわらず、なぜバチカンはユニアにその特例を与えたのか。この点について映画は明示的な説明を与えないが、物語の文脈から推察するならば、ユニア自身が「鬼胎(クィテ)」——悪魔に憑かれた女から生まれた、特異な霊的体質を持つ者——であることが鍵になっているだろう。

鬼胎とは、韓国固有の霊的概念であり、簡単に言えば「邪悪な存在に胎を宿された者の子」がそれ自体として特殊な霊的感応力を持つ、という考え方だ。ユニアとミカエラ、ふたりの修道女がともに鬼胎であり、まさにその因縁によってバチカンが非公式にこの禁断の役割を彼女たちに委ねたのではないか——という読みが成立する。末期の子宮癌を抱え自己犠牲的に任務を全うしようとするユニアの姿も、この特例を許すに値する「消耗可能な駒」としての扱いを逆説的に示唆し、皮肉な苦みを生んでいる。

ふたりの鬼胎の修道女が共闘するという設定は本来、この映画が最も輝くべき核心のはずだ。その「異端者の連帯」の外連味をもっとクローズアップして描いていれば、より強烈なアピールを持つ作品になったのではないだろうか。


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エクソシスト(字幕版)

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哭声/コクソン(字幕版)
破墓/パミョ

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