『はじめて読む人のローマ史1200年』を読んだ

はじめて読む人のローマ史1200年 /本村凌二

数ある文明のなかで、起承転結をこれほど完璧に見せた歴史はない。本書は、その1200年間を4つの時代に分け、「なぜ、ローマは大帝国になったのか」など7つのテーマを設けて、歴史の大きな流れとして見ていく。古代の同時代人から近代のイギリス、現代のアメリカまで、多くの国家・民族がローマ史を探究し、統治に活かしてきた。新たな覇権主義の様相を呈する現在の国際情勢。そのなかで、日本および日本人が進むべき道は何か──その答えは、ローマ史のなかにすでに用意されている。

『はじめて読む人のローマ史1200年』とタイトルにあるように、オレのような本当にローマ史知りましぇん、という初心者向けに書かれた本である。ありがたい。250ページ足らずの薄さだが、著者の本村凌二氏は250ページで「ローマ史1200年」を「はじめて読む人」に知ってもらうためにはどう情報を取捨選択するべきなのか、というおそるべき試行錯誤が成されたことだろう。申し訳ない。

そうして著者が注視しようとしたのは、歴史的重要項目や重要人物を羅列することではなく、「そもそもローマ人というのはどういった人たちだったのか、そしてそんな彼らの国家がかつて地球上最大の版図まで広がったのはなぜなのか」といったことではないだろうか。そして「そこから我々が学ぶべきものは何か」といった卑近なレベルに落とし込むことで、「はじめて読む人」に親しみやすく読めるように工夫されたのが本書だと思う。

印象に残ったのは「ローマ人気質」についてだ。それは現在もローマのあちこちに残されている「S・P・Q・R」という文字に表されているが、これは「ローマの元老院と国民」という言葉の頭文字となる。その意味するものは「共和主義と市民意識の重視」であり「公共への献身と共同体精神」であり「厳格さと実用性」であり、総じて自らの国家とその歴史に強い誇りを持つことを言い表しているのだという。この誇り高さこそが古代ローマ人の貴ぶものであり、その誇り高さを原動力として多くの周辺国や他民族と戦い吸収合併し巨大国家を築き上げたのだと著者は主張する。

また、ローマ人は法律を重んじ、それ以上に人を重んじたが、何よりも重んじたのは「父祖の遺風」であるという。要するに「ご先祖様の名誉に恥じないような生き方をしなさいよ」ということなのである。さらに「パトロヌスとクリエンテス」という人間関係を重視すること、これは簡単に言えば「親分子分」的な相互扶助関係ということなのだが、こういった部分にもローマ人の「誇り」についての認識が伺われる。

様々な歴史上の出来事の中で最も興味を引いたのは「ポエニ戦争」である。詳細をあれこれ書くことはしないが、ここでローマと戦ったカルタゴの名将ハンニバルとその戦法、そして戦いの行方には大いに惹き付けられた(まあつまり今まで「ポエニ戦争」がどんなものなのかすら知らなかったということなのだが)。ローマ史を離れてハンニバルの生涯、ひいては地中海史にまで興味が広がるほどだった。

 

AppleTV+のSFドラマ『マーダーボット』がとても楽しかった件

マーダーボット (監督:ポール&クリス・ワイツ他 2025年アメリカ製作)

AppleTV+のコメディスリラーSF『マーダーボット』

Apple TV+で配信中のSFドラマ『マーダーボット』がとても楽しくて、全10話をわくわくしながら観終わりました。SFといっても様々なサブジャンルがありますが、このドラマは、まさにメディスリラーSFと呼ぶにふさわしいでしょう。サスペンスと、それに絡むコミカルな可笑しさが絶妙なんです。近年観たSF作品の中でも、群を抜いて秀逸な一作でした。

舞台となるのは、恒星間旅行が可能となった未来のとある未開惑星。主人公は、自らを「弊機」と呼ぶアンドロイドです。この惑星の探査ミッションに訪れた科学者チームを護衛するために配備されました。しかしこの「弊機」、人間と接することを嫌い、ひたすらTVドラマを見ていたいと願うちょっと変わったヤツ。実は、自らの制御モジュールを密かにハックしており、こっそりと自由を謳歌しているのです。隙あらば頭の中でSFドラマ『サンクチュアリ・ムーン』を再生しているのです!

そんなある日、科学者チームが惑星原生の巨大生物に襲われ、さらにこの惑星には知らされていない不可解な事実があることが判明します。その背後には、惑星探査を巡る巨大企業の陰謀が隠されているようなのです。「弊機」は職務として警護を全うしようとしますが、科学者チームが厄介な変わり者ばかりで内心うんざりしています。そして度重なる危機に、「弊機」は自分が自由な存在であること、さらには「マーダーボット」と呼ばれる自身の秘密が露呈する危険に直面します。

愛すべき「陰キャ」アンドロイド

原作はヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞の3冠に輝いた作家マーサ・ウェルズの小説「マーダーボット・ダイアリー」シリーズの中篇「システムの危殆」。この原作シリーズ、本当に傑作で、私も大変楽しんで読ませてもらいました!主演・制作総指揮はアレクサンダー・スカルスガルド。映画「アバウト・ア・ボーイ」のポール&クリス・ワイツ兄弟が監督・脚本・プロデュースを手がけ、スカルスガルドとともにデビッド・S・ゴイヤー(「ターミネーター ニュー・フェイト」「マン・オブ・スティール」)が制作総指揮を務めています。

何が楽しいってこのドラマ、主人公アンドロイドが「陰キャ」だという部分でしょう。人間たちに常にうんざりし、目を合わせることも厭わしく、「こいつら、うざい」とばかりに嫌悪感を抱き、いつもああだこうだと心の中でボヤき、事あるごとにTVドラマに逃避し、けれども本心は決して表しません。

しかし、何から何までネガティブという訳ではありません。AIとして効率的な最適解を知っているからこそ、感情やしがらみに縛られ、何をするにも遠回りな人間の行動や思考に難色を示すのです。でも、そこは決して言葉に出さず、自分を人間たちに合わせ、決して波風立たないようにしているわけですから、実は相当の気配りアンドロイドなんですよ。ただ、愚痴が多いだけなのです!

そんな中、本当の危機が訪れた時には、瞬時に冷徹な判断を下し、人間なら躊躇しそうな「忌まわしいこと」を即座に実行します。それが警備ユニットの本来の職務だからです。しかしその冷徹さに、今度は人間たちが戦き、「弊機」を警戒します。職務を全うしながら厭われるこのやりきれなさ!

深層に潜むテーマ性

しかしこれ、「人間/アンドロイド」というSF設定を離れるなら、人間同士で営まれる私たちの現実社会でも十分に起こり得ることではないでしょうか。この物語には、「個人的であること/社会的であること」の相克が暗喩として込められているように感じます。陰キャ」の「弊機」は、私たちの「個人性」を指し示しているのかもしれません。そしてそれをコメディタッチで描くからこそ、「弊機」に対する共感が生まれるのではないでしょうか。

そういったキャラクター設定の面白さ以上に、SF世界の描き方に非常に注力している部分も見どころです。未来世界の登場人物たちの社会背景、衣装、彼らの扱う洗練されたGUI、スペースシップや小道具といったものの優れたデザイン性、「企業リム」「プリザベーション連合」の社会的な対立など、どれもSF作品としての説得力に溢れています。「冷徹な企業」などは『エイリアン』のユタニ・カンパニーを彷彿とさせ、SFファンならば思わずニヤリとするでしょう。そういったSF世界で主人公アンドロイドが常にうんざりしながら完璧に職務を実行しようとする、その可笑しさといじましさこそが、『マーダーボット』の最大の魅力なのです。

シーズン2も製作決定したようです。

Apple TV+『マーダーボット』シーズン2へ更新! - 海外ドラマNAVI

原作とドラマの違いは以下のリンクで:

 

ジェームズ・ガン監督が描く新生スーパーマン/ 映画『スーパーマン』

スーパーマン (監督:ジェームズ・ガン 2025年アメリカ映画)

ジェームズ・ガンが描く新生『スーパーマン

DCコミックの象徴的なヒーロー、スーパーマンの映画はどれも心惹かれるものがあります。1978年のリチャード・ドナー監督版『スーパーマン』、2006年のブライアン・シンガー監督による『スーパーマン リターンズ』、そして2013年のザック・スナイダー監督版『マン・オブ・スティール』。そんな系譜に、MCU映画でその名を馳せたジェームズ・ガン監督による新生『スーパーマン』が加わりました。

スーパーマンクラーク・ケントを演じるのは『Pearl パール』『ツイスターズ』のデビッド・コレンスウェット。ロイス・レイン役にTVシリーズ『ハウス・オブ・カード 野望の階段』のレイチェル・ブロズナハン。宿敵レックス・ルーサーを『「マッドマックス 怒りのデス・ロード』のニコラス・ホルトが扮しています。

【STORY】大手メディアの新聞記者クラーク・ケントとして正体を隠すヒーロー、スーパーマン。超人的な力で人々を救い絶大な信望を集めていた彼はしかし、国境を越える活動が問題視され、その使命に葛藤を抱き始める。 一方、スーパーマンを脅威と見なす天才科学者レックス・ルーサーは、世界を巻き込む巨大な計画を進行。ルーサーと彼の生み出した超巨大生物KAIJUがスーパーマンの前に立ちはだかる。非難され、傷つきながらも、スーパーマンは再び立ち上がるのだ!

傷つき、成長するヒーロー

正直なところ、ジェームズ・ガンが『スーパーマン』をリブートすると知った時、期待よりも「またリブートか……」という程度の感想でした。ジェームズ・ガン監督の作品は嫌いではないものの、「スーパーマン」のような王道スーパーヒーロー映画が撮れるのか、疑問に感じていたのです。しかし! 仕上がった作品を観てみると、これがもう最高の出来で、今年のベストテン作品に入れてもいいくらい気に入ってしまいました!

今回の『スーパーマン』でまず潔いと感じたのは、スーパーマンの誕生の来歴を大胆に省略している点です。しかしそれ以上に、スーパーマンが徹底的にやられ、終始ボロボロになりながら戦いを続ける姿に、ものすごく新鮮さを覚えました。そもそもスーパーマンは宇宙最強の男。クリプトナイトくらいしか弱点のない、完全無欠のヒーローです。しかし、最強で完全無欠、おまけに清廉潔白で聖人君子なキャラクターは、実のところ面白みに欠けるという一面もありました。

これまでのスーパーマン映画は、その完全無欠さをどう切り崩してドラマを生み出すかに腐心していたように思います。しかし、今回のジェームズ・ガン版では、「完全無欠ではない」ところから物語が始まるのです。南極で血を流し、ボロボロになって倒れているスーパーマンの姿から。本来、鋼鉄の男であるスーパーマンは血を流したり、傷を負ったりするはずがありません。しかし、あえてその設定を曲げることで、傷つき、迷い、悩みながら成長していくヒーロー像を付加することに成功しています。今回のスーパーマンは、ものすごく人間臭い。そして、この人間臭さがジェームズ・ガン監督ならではの作劇スタイルと見事に合致しているのです。

「チーム」で戦うスーパーマン

今回のスーパーマンは完全無欠ではないからこそ、一人ではすべてを解決できません。だからこそ、多くの登場人物たちの協力が必要となります。それは作品に登場する多くのスーパーヒーローたちであり、ロイス・レインであり、デイリープラネット紙の同僚たちです。スーパーマンと彼らの関係は、ある意味でチームを思わせます。

実のところスーパーマンがチーム参加した『ジャスティス・リーグ』という作品もありますが、スーパーマンが強すぎてバランスが悪かった。その点このジェームズ・ガン版はそれぞれが適材適所に配され、立場も対等で、バランスが良いんですよ。これは、ジェームズ・ガン監督の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』や『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』に通じるものがあり、監督ならではの作劇スタイルが色濃く出ている部分だと感じました。

多くの仲間たちと共闘することで、思いもよらぬ突破口が生まれ、多くのドラマが派生し、逆に新たな緊張も生まれます。同時に、仲間たちと気の置けない関係を築き、賑やかでコミカルなシーンも生まれています。今回の『スーパーマン』が明るく楽しさに溢れているのは、こういったキャラクター同士の密な信頼関係が描かれたからではないでしょうか。そして、そこが今回の『スーパーマン』の新しさと面白さに繋がっているのだと思います。

「今の時代」におけるスーパーヒーローの存在意義

もう一つ、本作では「今の時代にスーパーヒーローとは何か」という問いが丁寧に描かれています。これはMCU映画、特に『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』あたりから描かれ始めたテーマですが、『シビル・ウォー』が政治とシステムの物語であったのに対し、今作ではスーパーマンクラーク・ケントの内面の問題、個人の意思決定の問題として扱われているため、より感情移入できる部分が大きいのです。

さらに物語には、大企業の覇権争いや侵略戦争SNSの負の側面、移民問題といった今日的なテーマが盛り込まれています。そういった現実を踏まえつつも、「それでもあえてスーパーヒーローを描くことの意義は」と一石を投じています。もちろん、娯楽映画ごときで世界は変わりません。しかし、映画を観ることで夢を見ることはできる。その夢の先に、映画『スーパーマン』はあるのだと私は思います。

 

『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』と『物語 イタリアの歴史II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで 』を読んだ

物語 イタリアの歴史 解体から統一まで / 藤沢道郎(著)

皇女ガラ・プラキディア、女伯マティルデ、聖者フランチェスコ、皇帝フェデリーコ、作家ボッカチオ、銀行家コジモ・デ・メディチ、彫刻家ミケランジェロ、国王ヴィットリオ・アメデーオ、司書カサノーヴァ、作曲家ヴェルディの十人を通して、ローマ帝国の軍隊が武装した西ゴート族の難民に圧倒される四世紀末から、イタリア統一が成就して王国創立宣言が国民議会で採択される十九世紀末までの千五百年の「歴史=物語」を描く。

以前『パスタでたどるイタリア史』という著作を大変面白く読んだのだが、パスタの歴史以上に、それまでよく知らなかったイタリアの歴史を知ることができた部分が実に有意義だった。フランスやドイツと違い、イタリアはローマ帝国崩壊後多数の都市国家が割拠した時代があり、それが”イタリア”という国家に統一されるまで様々な紆余曲折を経てきたのだが、こういった歴史性を今まで理解できていなかったのだ。そういったわけでイタリア史に興味が湧き、何冊かの本を読んでみようと思ったのである。

まず読んだのはイタリア史学者・藤沢道郎による『物語 イタリアの歴史 解体から統一まで』。とかく歴史書というと年代と人物名と事件を教科書的に羅列したものになりがちだが、この著作では章ごとに一人の歴史的人物を主人公とし、その時代をどう生き、どう関わり、そしてどう次の時代の懸け橋になった(あるいはならなかった)のかを、物語仕立てで生き生きと描いている部分が実に読み応えがあった。主役となる歴史的人物にしても、その時代を動かした最重要人物ではなく幾分傍流に近い人物をセレクトしており、彼らが巻き込まれる形で動いていくイタリアの歴史を体験させる形となっているのだ。

また、タイトルに「解体から統一まで」となっているように、この著作ではイタリア史の中心となるであろうローマの建国から描くのではなく、そのローマが東西ローマに分裂した時代から物語られ、様々な困難を経ながら現在のイタリアへ統一してゆくまでが描かれる部分にユニークさがある。具体的には4世紀末、東ローマ帝国テオドシウス帝の時代における皇女ガラ・プディキアが関わることとなった「カノッサの屈辱」から物語は始まり、そして終章では19世紀を代表する作曲家ヴェルディが主人公となり、彼の書いた歌劇『ナブッコ』の歌詞がイタリア統一の起爆剤となったことが描かれてゆくのである。

著者である藤沢道郎は「現在の歴史記述は民族=国民を単位として行われるのが通常の習慣で、近代の人間の共同性が国家という人工的な強制装置によってのみ維持されているという事実が、その習慣を正当化してきた」ことに否を唱え、こういった事実の連鎖を並べただけのイデオロギッシュな”歴史”ではなく、「ただ前面に人物を置き、それによって各時代のイタリア社会のパースペクティヴを確定したかった」とあとがきで述べている。この試みはまさに成功しており、本書をイタリア史を描く名著として完成させている。

物語 イタリアの歴史II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで / 藤沢道郎(著)

ローマ、テーヴェレ河畔に威容を誇るカステル・サンタンジェロ(聖天使城)は、紀元2世紀に皇帝ハドリアヌス自らの陵墓として築かれて以来、数々の歴史的事件に立ち会ってきた。本書はハドリアヌス帝、大教皇グレゴリウス、ロレンツォ・デ・メディチ、画家カラヴァッジョら8人をとおして、古代ローマ帝国の最盛期からバロック文化が咲き誇った17世紀までの1500年を描く、もうひとつの「歴史=物語」である。

その藤沢道郎による『物語 イタリアの歴史II 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで 』は、前作の続編的な性格を持ちながらも全体的なコンセプトが別箇のものになっている部分がまたしても面白い。

まずここで取り上げられる歴史的人物は、大なり小なりローマのテヴェレ川右岸にある城塞、カステル・サンタンジェロ(聖天使城)にまつわる人物として登場するのである。カステル・サンタンジェロは135年、皇帝ハドリアヌスの霊廟として建立されたものだが、そのハドリアヌスから始まり、16世紀のイタリア人画家カラバッジオが活躍する時代までを描いている。すなわちカステル・サンタンジェロが長い年月の中で目撃してきたイタリアの歴史、という体裁なのだ。そして前作では”歴史の傍流的な人物”を中心として描いていた部分を、今作ではロレンツィオ・デ・メディチや航海者コロンボコロンブス)といった歴史に名だたる人物が中心として描かれることとなる。

そして最も大きな違いは、前作がイタリアの表舞台の歴史にまつわる事柄を描いていたのと比べ、今作ではイタリアの裏歴史、宗教の腐敗と政治の暴虐、社会の荒廃と市民の怠惰さを中心に描く部分である。ここで目の当たりにするイタリアの姿は、歴史の教科書に書かれることなどなく、また進学受験のテスト問題に取り上げられることなどまず考えられない、歪で醜く、暗黒の情念で彩られた地獄の裏イタリア史なのである。だがしかしそれもまたもうひとつのイタリアの顔であったことは間違いなく、歴史というものがその時代の覇者によってのみ作られたものではないことが否応なく伝わってくるのだ。そういった部分も含め、前作と併せて読むことでさらにイタリアの歴史が生々しく迫ってくる秀作であることは間違いない。

最近配信・DVDで観た映画 / 『ヘッド・オブ・ステイト』『グランド・イリュージョン』『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』『ザ・キラー ジョン・ウー/暗殺者の挽歌』

『ヘッド・オブ・ステイト』

ヘッド・オブ・ステイト(Amazon Prime Video) (監督:イルヤ・ナイシュラー 2025年アメリカ映画)

『ヘッド・オブ・ステイト』はイギリス首相とアメリカ大統領が手を取り合って凶悪なテロリストと戦う、型破りなアクションコメディだ。しかも、彼らが振るうのは政治的手腕ではなく、銃撃戦と肉弾戦!二つの大国のトップがまさかの脳筋バディを組むという、この設定自体がとてつもなくおバカで、それをイドリス・エルバジョン・シナが演じると聞けば、もう笑わずにはいられないだろう。

とはいえ、このイドリス・エルバ演じる英首相も、ジョン・シナ演じる米大統領も、なぜか妙に板について見えるから不思議である。彼らの存在は徹頭徹尾漫画的だが、むしろ現実の世界政治状況はもっとグロテスクであり、おまけに全く笑えない。そしてこういった現実があまりに陰惨で救いようがないからこそ、この荒唐無稽な設定が最高のエンターテイメントとして楽しめるのではないか。

このありえない設定を軽やかに成立させているのが、二人の大国首脳の助っ人となるMI6の有能なエージェント、ノエルの存在だ。彼女が相当に有能だからこそ、このハチャメチャな展開が破綻せずに進んでいく。演じるのは、インドのトップスターでありながら近年ハリウッドでの活躍が目覚ましいプリヤンカー・チョープラー・ジョナス。もともと演技派として知られていた彼女だが、本作でも派手なアクションを涼しい顔でこなし、その貫禄を存分に見せつけている。彼女の今後のさらなる活躍に、ますます期待が高まるばかりだ。

グランド・イリュージョン (監督:ルイ・レテリエ 2013年フランス・アメリカ映画)

映画『グランド・イリュージョン』は、4人のスーパーイリュージョニスト集団「フォー・ホースメン」が、華麗なマジックと同時に大規模な犯罪を実行していく犯罪サスペンスだ。2013年公開作品だが今まで観ておらず、つい最近視聴してその面白さにぶっとんでしまった。そもそもマジックは種も仕掛けもあるものだが、物語の中でどれほど荒唐無稽な犯罪が行われようと、それはマジックの手腕で種も仕掛けもあるんだから実行可能です、と開き直られているのでなんだか納得してしまうのである。こういったマジックの胡散臭さインチキ臭さを逆手に取った演出と物語展開が、映画それ自体をマジックそのもののように「見世物」として成立させているのだ。そこが面白い。

グランド・イリュージョン 見破られたトリック(監督:ジョン・M・チュウ 2016年アメリカ映画)

その続編となる『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』は「フォー・ホースメン」の連中が強大な敵と対峙してしまうといった物語だ。見どころは中盤における「厳重監視施設内でのコンピューターチップ強奪作戦」で、観ていて「そうはならんだろ」と思いつつ、まあ天才マジシャン集団のやることだからアリなのかなあ、とついつい納得させられるのだ。1作目同様、この「なんとなく騙されている感覚」が楽しくて、やはり見事なエンタメ作品として完成していた。3作目も製作されるというからこれも楽しみである。

ザ・キラー ジョン・ウー/暗殺者の挽歌 (監督:ジョン・ウー 2024年アメリカ映画)

ジョン・ウー監督の『ザ・キラー ジョン・ウー/暗殺者の挽歌』は、1989年に公開された香港映画『狼/男たちの挽歌・最終章』のハリウッド版セルフリメイク作品となる。舞台をパリに変え、主人公を女性に変えているのがオリジナルとの違いだ。まあなにしろジョン・ウー印満開の作品で、鳩はこれでもかと飛び交い、スローモーションと二丁拳銃と血飛沫の躍るアクションが大盤振る舞いされ、そこに義理と人情、信頼と裏切りの物語がアラベスクとなって展開するのである。もはや様式美ここに極めりである。舞台と主人公の性別を変えることで物語はさらに冷徹で哀感を帯びたものとなり、実はジョン・ウー監督の中でもかなり面白く観ることができた。また主人公の女殺し屋ジーを演じていたのが『ゲーム・オブ・スローンズ』のナタリー・エマニュエルだったのも得点が高かった。