最近ダラ観したDVDやら配信やら

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー (監督:アーロン・ホーバス/マイケル・ジェレニック アメリカ・日本映画)

御存知本年度大ヒット映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』である。「物凄く面白いんだけど観た後驚異的になにも残らない」と噂の映画である。確かに観た後、綿菓子でも食ったみたいに何も残らなかった。でも面白かったことは面白かった。そしてここが凄い、というか不思議な映画である。「面白いけど何も残らない」「何も残らないけど面白い」、言ってることは一緒のようだが両者は微妙にニュアンスが違う。これは観た者個々人の「映画の面白さ」の尺度の違いなのだろう。

そして「映画は面白ければそれでいいんだ」と往々にして言われる事があるが、しかしそれは「面白いけど何も残らない」「何も残らないけど面白い」という事とはまた違うはずだ。では前者の「映画は面白ければそれでいい」と後者の「面白い・ただし何も残らない」は何が違うのか。それは「映画は面白ければそれでいいんだ」という言い方には「表現する意味と理由がなく娯楽にのみ特化してしまった映画は薄っぺらい」と批判されることへの予めの反論が込められているからではないか。

しかしこの『マリオ』は違う。「この映画はたいへん面白く作られていることのみに特化した作品であり当然本当に面白い。何か問題でも?」と高らかに宣言している作品なのである。それも、開き直っているのではなく堂々とした完成度でだ。それにより「映画は面白ければそれでいい」と言う者にも「表現には意味と理由が必要だ」と言う者もその両方をたじろがせ困らせ有無を言わせなくしているのである。そういった部分で、「映画の面白さとはなにか?」ということを改めて突き付けてきた特殊な変異体の様な映画なのかもしれないと思う。

ロアルド・ダール原作短編映画シリーズ(Netflix映画)(監督: ウェス・アンダーソン2023年アメリカ映画)

ロアルド・ダールの短編小説をウェス・アンダーソンが監督した4作のNetflix短編映画が公開された。タイトルはそれぞれ「ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語」「白鳥」「ネズミ捕りの男」「毒」。なにしろ短編映画なので17分から39分とどれも短く、ウェス・アンダーソンロアルド・ダールの世界を非常に手軽に楽しめる作りになっている。

アンダーソン監督作品はこれまでもその色彩美や様式美を取り沙汰されることが多いが、今回の短編映画作品集はそのアンダーソン監督の面目躍如といった、アンダーソン監督でしか作れなかったような素晴らしい作品が並ぶ。ミニマル&コンパクトで芸術性も高く、テンポも鮮やか。簡略化された舞台、延々物語を語る登場人物、具体的な描写をあえてしない等、小説と映画と舞台劇の折衷を狙っていて、観る者の想像力に頼る部分が実験的であると同時に斬新さを感じさせるのだ。

むしろこういった手法は短編映画だからこそ成し得たものであり、それをNetflixという媒体で観られる、また、そういった作品をNetflixが提供できる、という部分にも画期的なものを感じた。ベネディクト・カンバーバッチレイフ・ファインズ、デブ・パテル、ベン・キングスレーといった豪華俳優の抜擢も最高。

ハウスバウンド (監督:ジェラルド・ジョンストン 2014年ニュージーランド映画)

『M3GAN ミーガン』が最高に面白かったので監督ジェラルド・ジョンストンが2014年にメガホンをとった長編デビュー作『ハウスバウンド』を観てみた。物語は札付きの不良女子が保護観察の判決を受け母親の実家に軟禁状態となるが、そこで妖しい影に気付くというもの。基本はゴースト・ストーリーだがその中にコメディ要素を散りばめつつ流血も見せ、個性的な配役と非凡なストーリー展開の光るなかなか技ありの作品だった。全体的には割ともっさりしているんだが、こういったキツ過ぎないホラーのほうがオレは好きだな。いつも不貞腐れ気味の主人公女子もいい。

容疑者X (Netflix映画)(監督:スジェイ・ゴーシュ 2023年インド映画)

東野圭吾原作のベストセラーミステリ小説『容疑者Xの献身』を、インド名女優カリーナ・カプール主演、『女神は二度微笑む』のスジェイ・ゴーシュが監督したネトフリ映画。物語は隣人女性に密かな恋心を抱く非モテ男が、女性の起こした殺人事件を隠蔽する為鉄壁のアリバイ工作に挑むというもの。舞台となるインド北部と思われる土地の暗く寒々しい景色に、監督スジェイ・ゴーシュらしい錯綜したドラマが絡み、実にミステリらしい陰鬱な構成となっているが、それをカリーナ・カプールの華やかさでもって素晴らしいエンターティンメント作品に底上げしていると感じた。そしてなにより非モテ数学教師の相当にコワイ顔が物語を忘れ難いものにしている。ただしミステリとしては、死体が発見されなければ殺人事件として立件できないだろうになんで発見させちゃったの?という基本的な疑問は残ったな。

『ベルセルク』第42巻を中心に最近読んだコミックなどなど

ベルセルク(42) / 原作:三浦健太郎 漫画:スタジオ我画 監修:森恒二

ベルセルク 42 (ヤングアニマルコミックス)

超弩級ダークファンタジー大河巨編『ベルセルク』の作者、三浦健太郎の死は衝撃的だった。そして作者亡き後、『ホーリーランド』作者であり三浦の大親友であった森恒二が監修、三浦のアシスタント集団であったスタジオ我画がグラフィックを担当して『ベルセルク』を存続させることが決定、この42巻は三浦不在のまま描かれることになった『ベルセルク』の最新刊となるのだ。

ここではかつて三浦と『ベルセルク』の結末までを語り合った森の、今や森だけが知る展開を基に物語が描かれることになる。森自身も漫画家であり、同時に三浦の大の親友でもあったことから、壮絶な葛藤があったという事はあとがきにも書かれている。そこには商業的理由を超えた、一人の漫画家として友人としての決意が込められていた。オレはこれを素直に受け止め、今後展開する新たな『ベルセルク』ストーリーをしっかりと見守り続けたいと思うのだ。

そして刊行された『ベルセルク』第42巻、これが最高だった。しっかりと魂がこもっていた。物語自体も最大の佳境を迎えており、スペクタクルも絶望感も最高潮だった。三浦建太郎が命削って描いていた物語を森もスタジオ我画も全霊で取り組んだと思った。スタジオ我画のグラフィックも三浦の画風に極限まで肉薄していた。

確かに画面構成や感情表出の表現には三浦に劣る部分がある。物語テンポもバタバタしている部分がある。キャラ描写もまだ一定していない。だが、そういった細かい部分はこれから調整してゆけばいい。ないものねだりばかりしていても何も始まらない。尊い志はしっかり届いた。だからこの調子で描き続けてほしいとオレは思ったぞ。

アンダーニンジャ(11) / 花沢健吾

忍者同士が戦いを繰り広げる少年漫画は数あれど、花沢健吾の『アンダーニンジャ』はそれらと一線を画す物語として描かれる。どうにも現実塗れのベタでダルい登場人物と、彼らによるどこまでも凄惨で非現実的な忍者殺戮劇、『アンダーニンジャ』はそのアンバランスさを描こうとした作品だ。だからどれだけ戦いが熾烈さを増そうと興奮よりも冷ややかな冷徹さが全てを覆い、死はやはり不条理で苦痛に塗れたものである事が浮き彫りにされる。とはいえシリアス一辺倒ではなく奇妙に力の抜け方もしている。この11巻ラストでは物語世界がさらに大きなものへと変化している。まだまだ化けそうな『アンダーニンジャ』である。

貼りまわれ!こいぬ(4) / うかうか

犬しかいない世界で「街中の至る所にシールを貼る」というよく分からない仕事を行う会社に勤めるうっかり者の犬を主人公とした物語である。この犬は小犬なので名前も「こいぬ」である。よく分からないけど。さてこの「こいぬ」、うっかり者である以上にいつもなにやらボーッとしており、さらに動きも思考も予測不可能で、基本的になんだかよく分からないことをしてよく分からない状況に至る事になる。にも関わらず結末はみんな幸せ、よかったよかったとなってしまうという、これまたよく分からない物語なのである。心温まるけれども何一つ学びも教訓も無い。ある意味学びや教訓へと絶対に至らない無意味さ、理由の無さ、ただ幸福になるものは必ず幸福になるという真理、これを描くのがこの漫画ともいえる。(そうなのか?)

京極夏彦17年ぶりの百鬼夜行シリーズ最新作『鵺の碑』を読んだ!

鵺の碑 / 京極夏彦

鵼の碑 【電子百鬼夜行】

殺人の記憶を持つ娘に惑わされる作家。 消えた三つの他殺体を追う刑事。 妖光に翻弄される学僧。 失踪者を追い求める探偵。 死者の声を聞くために訪れた女。 そして見え隠れする公安の影。 発掘された古文書の鑑定に駆り出された古書肆は、 縺れ合いキメラの如き様相を示す「化け物の幽霊」を祓えるか。 シリーズ最新作。

オレと「百鬼夜行シリーズ」

京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」、17年ぶりの新作発表。これはもう京極夏彦、ならびに「百鬼夜行シリーズ」の大ファンとしてはお祭り騒ぎである。

百鬼夜行シリーズ」、それは戦後間もない1950年代の日本を舞台に、陰陽師であり”憑き物落としの拝み屋”である「京極堂」こと中禅寺秋彦を主な主人公とした推理小説である。妖怪の名をタイトルに冠し、魑魅魍魎の蠢くが如きおどろおどろしくもまた奇ッ怪な事件が次々に起こるが、主人公・京極堂はその博覧強記の知識と強固な論理性でもって事件を合理的に推理し一刀両断に解決してゆく、というのが主なストーリーだ。作品の魅力は京極堂を始めとする強烈な個性を持つメインキャラクターの愉しさであり、一見怪奇小説的な薄暗い展開であり、民俗学的な視点から切り込まれる伝奇小説的な味わいにあるだろう。さらに、その著作も煉瓦のように分厚いのも特徴だ。

思えば1996年に『鉄鼠の檻』が刊行された際、それまで京極夏彦の名前を全く知らなかったオレが「なんだかとんでもなく分厚いミステリ小説が出てそして大評判となっているけれどこれはいったいなんだ?」と興味を持ち、ミステリ自体全然読まない人間なのにもかかわらず読んでみることを決意、しかしその時点でこれがシリーズ作の第4弾と知り「それじゃあ先に出ていた3作を読み終わってからこの『鉄鼠の檻』ってェヤツを読んでやろうじゃないか!」とさらに決意して第1作『姑獲鳥の夏』から順に『魍魎の匣』『狂骨の夢』と読了し、ようやくお目当ての『鉄鼠の檻』を読み終えた頃にはすっかり京極マニアと化していたオレがいたのである。それ以来、京極小説を見つけると当たるを幸いなぎ倒し、貪り食うように読み繋いできたのだ。

シリーズ17年振りとなる新作『鵺の碑』

そんな「百鬼夜行シリーズ」だが2006年に刊行されたシリーズ9作目『邪魅の雫』からぱったりと音沙汰無くなり、「京極さん、このシリーズ書くの飽きたのかなあ」とまで思っていたほどだ。なぜなら京極夏彦の著作自体は精力的に刊行されており、そしてそのどれもが傑作だったからだ。そもそも『邪魅の雫』自体京極小説のちょっと悪いクセでもある認識論的ぺダントが過剰になり過ぎていて、こればっかりやられちゃうと飽きちゃうし作者も煮詰まっちゃうんじゃないかな、とは思っていたのだ。

しかしシリーズ17年振りとなるこの『鵺の碑』は、そんな杞憂を全て消し去る程の快作として登場した。17年振りともなる分、作者の内面や執筆スタイルの変遷もあったのだろう、『邪魅の雫』から『鵺の碑』に至る17年間に書かれた様々な京極小説の、変化し進化したニュアンスをこの『鵺の碑』に感じ取ることができるのだ。それは例えば「百鬼夜行シリーズ」のスピンオフ作品として書かれた幾つかの中編連作における登場人物の瑞々しさ若々しさ、「書楼弔堂シリーズ」の舞台である明治時代の物語にこの現代における社会問題をさりげなく挿入するテクニック、そういったものを『鵺の碑』からも感じるのだ。

さてタイトル『鵺の碑』にあるように今回取り上げられる妖怪は「鵺」、それはこのようなものである。

近衛天皇の時,源頼政が禁中で射落としたという怪獣。頭はサル,体はタヌキ,尾はヘビ,四肢はトラで,トラツグミに似た陰気な声で鳴くと《平家物語》にある。転じて正体のはっきりしないさまをいう。

鵺(ヌエ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

百鬼夜行シリーズ」の新たなる傑作

今作『鵺の碑』の舞台となるのは日光である。この日光の地に「殺人の記憶を持つ娘に惑わされる作家、消えた三つの他殺体を追う刑事、妖光に翻弄される学僧、失踪者を追い求める探偵、死者の声を聞くために訪れた女」が何かに引き寄せられたかのように一堂に会してしまうのである。それらはそれぞれに関連性の無さそうな「物語パーツ」でありながら、最終的にあたかも蛇、虎、狸、猿といった動物パーツの集合体となった妖怪「鵺」のごとく一つの「事件」へと収束してゆく、という仕掛けになっている。こういった「複数の事件の集合体としての一つの事件」という構成は『塗仏の宴』でも用いられたが、この『鵺の碑』が違うのは全てが日光という土地に存在する「何か」に収斂してゆくという部分だろう。

さてこれは推理小説であるからこれ以上の事を書くのは御法度だろう。とはいえこれまでの「百鬼夜行シリーズ」とはどこか変わったな、という印象は強烈に残った。確かにいつものごとく「奇ッ怪な事件」は描かれるにせよ、これまでの暗さおどろおどろしさは影を潜め、陰惨猟奇な描写が殆どと言っていいほどないのだ。あのいつも鬱々とした作家・関口君ですら、それほど特にモヤモヤしていないのだ(モジモジはしていたが)。物語はシリーズ最大とも言えるかもしれない巨大な陰謀が登場し、それに関わる事を余儀なくされた人間たちの哀しみも描かれるが、その描写は残酷さよりも同情であり哀憐であり、戦中戦後という辛い時代を生きてしまった者への共感が垣間見えるのだ。

そしてなにより、爽やかですらある読了感を残す部分がなにより印象深い。これはこれまでのシリーズではなかったことではないか。オレは「百鬼夜行シリーズ」の最高傑作はそのめくるめくようなペダントから『鉄鼠の檻』であると確信していたが、この『鵺の碑』はひょっとしたら「百鬼夜行シリーズ」の新たな最高傑作かもしれないとすら思えた。そして、遂に「あれ」と繋がるラストの驚愕ぶりといったら!いやーあの部分でオレは「ぶはっ!」とか変な声を出して腰を抜かしてしまった!800ページを超えるいつものように分厚い物語だったが、そのテンポの良さ描写の心地よさからいつまでも読んでいたい、なんならこの倍あってもいい、とすら思わされた作品でもあった。

メビウス&ルネ・ラルーによるSFアニメーション『時の支配者』の4K修復版を観た。

時の支配者【4K修復版】(監督:ルネ・ラルー 1982年フランス映画)

大友克洋に絶大な影響を与えたバンドデシネ界の神メビウスと、カルト的人気を集めるSFアニメーション『ファンタスティック・プラネット』を監督したルネ・ラルー。この二人がタッグを組んで製作し1982年に公開されたSFアニメーション『時の支配者』が、この度4K修復版blu-rayとしてリリースされたので早速観てみた。

物語は惑星ペルディドで遭難し天涯孤独となった少年ピエールを救うため、航行中の宇宙船ダブルトライアングルズ22号の艦長ジャファールが救出に向かう、というもの。しかしその途上では様々な困難が立ちはだかり、ジャファールと仲間たちは多くの危機を乗り越えなければならなかった。原作はフランスのSF作家ステファン・ウルの小説『ぺルディド星の孤児』。

なんといっても見所はメビウスの卓越したグラフィックから生み出される百花繚乱な世界観だろう。この作品でメビウスが担当したのはキャラクターデザイン、衣装、宇宙船、色彩設定、ストーリーボードと多岐に渡り、まさしくここに「メビウス・ワールド」が出現しているのだ。その異様な惑星の光景や独特のメカデザイン、実にメビウスらしいキャラクターなど、メビウスの表出させる世界をとことん楽しめるのだ。

ただし作品としては今一つの出来でもある。予算の関係もあったのだろうがアニメーションとしての躍動感に乏しく、これはメビウス自身も失望していたらしい。また、物語展開は少年救出へとストレートに進むことなく、多くの脱線したエピソードが盛り込まれ、観ていて困惑してしまう。これはこの作品が当初6作にまたがるTVアニメーションとして構想され、映画化に際しそれぞれ別個だったエピソードを盛り込んだからなのではないかと推測される。大人向けなのか子供向けなのか今一つはっきりしない部分も煮え切らなく感じさせられた。

とはいえ、4K修復版として蘇った映像はなかなかに美しく、製作から40年も経ったこの作品を改めて評価する指標となるだろう。なにしろバンドデシネ界の神メビウスが手掛けた数少ないアニメ作品の一つとして、大いに視聴する価値があるはずだ。

そしてこの『時の支配者【4K修復版】』をblu-rayで視聴すべきもう一つの理由は、特典映像となる『メビウスの帰還』(2007年製作/ドイツ=カナダ合作/55分)というドキュメンタリー作品の存在だ。この作品では生前のメビウスの貴重なインタビューが観られるだけではなく、マイク・ミニョーラエンキ・ビラル、フィリップ・ドリュイエ、スタン・リー、ジム・リー、H.R. ギーガー、アレハンドロ・ホドロフスキーダン・オバノンといったコミック界・映画界の華々しい重鎮たちのインタビューが挿入されるのだ。彼らが動き喋っている映像を観るだけでもオレは大いに歓喜した。

また、バンドデシネ研究家・原正人氏による詳細かつ愛溢れる作品紹介ブックレットの存在も忘れてはいけない。『時の支配者』製作時の様子や日本公開時のエピソードなど、非常に貴重な資料として大いに読み応えがあった。「スターログ」への言及などは、かつてこの雑誌を購読していたオレにとってとても懐かしく感じてしまった。

(※予告編は4K修復版の映像ではありません)

従来的なバットマン像を刷新した「バットマン2.0」とも呼ぶべき物語/DCコミック『バットマン:カワードリー・ロット』

バットマン:カワードリー・ロット / ジェームズ・タイノンIV (著)、ホルヘ・ヒメネス (イラスト)、中沢俊介(訳)

バットマン:カワードリー・ロット (ShoPro Books)

アーカムアサイラムで襲撃事件が発生。 誰もがジョーカーの仕業だと思い込んだその背景には、死んだはずのスケアクロウが関係していた。 一方でゴッサムシティに新たな市長が生まれる。 ナカノ市長とセイント産業は提携して、次世代のヒーローを作り出す治安維持計画“マジストレイト”を発足。 そして誕生したのはバットマンの地位を脅かすほどの完全無欠の新たなヒーロー、ピースキーパー01だ。 この街を救う守護者は一体誰か。スケアクロウの狙いは果たして……ジョーカー・ウォー後のさらなる恐怖がこの街を襲う!

これまで何度か世界観のリフレッシュされてきたバットマン・ストーリーだが、今作『バットマン:カワードリー・ロット』はDCキャラクターの新たなイベント「フューチャー・ステート」に基づき、バットマン・ストーリーの新たな展開を目指した作品となっている。

物語的には「バットマン新章突入」とされた『バットマン:ダーク・デザイン』、『バットマン:ジョーカー・ウォー』、そして『バットマン:ゴースト・ストーリーズ』から連続しているが、バットマンを取り巻く状況がこの『カワードリー・ロット』から明らかに変わってきているのだ。

ゴッサム・シティの新たな市長ナカノはバットマンをはじめとするヴィジランテを忌み嫌い、治安維持計画“マジストレイト”を発動させてヴィジランテ殲滅を計ろうとする。その背後にはゴッサムの新企業セイント産業とそれを取り仕切るサイモン・セイントの計略が存在し、さらにスケアクロウが裏で手を引いていた。

バットマンの新たな相棒となるのはなんとあのハーレイ・クインである。さらに前作から登場したバットマンとは別活動のヴィジランテであるゴーストメイカーがバットマンと協調体制を取ることとなる。そのバットマンを後方支援するのはゴードンの娘で天才ハッカーのオラクルだ。

既にバットケイヴは壊滅し、アルフレッドもゴードンも登場せず、メディア操作によりバットマンへのゴッサム市民の信頼は地に落ち、バットマンアンダーグラウンドへ潜ることを余儀なくされて反社会組織アンサニティ団に歩み寄る。……とまあこれだけバットマンを取り巻く状況は様変わりしているのだ。

ここでは強力なヴィジランテ・リーダーとしての闇の騎士バットマンは存在せず、むしろ仲間たちの様々なサポート無しでは立ち行かないバットマンが満身創痍となりながらそれでも正義のために戦う姿があるだけだ。それはもはやたった一人のヒーローが社会を正すという事はあり得ないのだと言っているようにすら感じる。

即ちこの『バットマン:カワードリー・ロット』はまさしくその新章の全貌を現した作品であり、従来的なバットマン像を刷新した「バットマン2.0」とも呼ぶべき物語として進行してゆくのだ。しかもこの作品、この1冊だけではまだまだ終わっていない。遂にバットマンの前に姿を現したスケアクロウバットマンは倒すことができるのか?次巻が待ちどおしい!