映画『ダウントン・アビー:グランドフィナーレ』:古き時代との別れ、新しき時代への船出

ダウントン・アビー:グランドフィナーレ (監督:サイモン・カーティス 2025年イギリス映画)

グランドフィナーレを迎えた『ダウントン・アビー

ダウントン・アビー』が遂に終わる。

20世紀初頭のイギリス貴族クローリー家とその使用人たちを物語の中心に据え、急激に変わりゆく時代の中で階級を超えた信頼と愛情を描き続けてきたTVドラマ『ダウントン・アビー』。2010年のシーズン1から世界的な大ヒットを記録し、2015年のシーズン6で華々しい終幕を迎えたが、その興奮は2作の映画——『劇場版 ダウントン・アビー』(2019年)と『ダウントン・アビー 新たなる時代へ』(2022年)——を生み出し、世界中のファンに熱狂的に迎え入れられた。

そして今回公開された映画『ダウントン・アビー:グランドフィナーレ』(2025年9月米公開、日本2026年1月16日公開)で、物語が真に終了することが宣言された。本作の舞台は1930年。1912年に始まった物語がその18年後を描くことで、真の大団円を迎える。放送開始から15年以上が経ち、登場人物たちの成長とともに、私たちファンも歳を重ねてきたことを思うと、深い感慨を覚えずにはいられない。

離婚という「社会的死」、そして強い女性たちの時代

今作の端緒となるのは、長女メアリーの離婚スキャンダルである。現代の価値観では「離婚」がそれほどの大問題とは思えないが、1930年代のイギリス貴族階級にとって、それは恐るべき背信行為だった。社交界からの追放、王室関連行事からの締め出し、社会からは家名を汚した者として糾弾される——上流階級の女性にとって離婚は、まさに「社会的死」を意味した。

とはいえ、このスキャンダルは、当時の旧弊な社会制度を描きながらも、第一次世界大戦後の女性地位向上により、離婚制度が少しずつ見直され、女性側から積極的に離婚を選択するケースが増え始めたことを示している。

思えば『ダウントン・アビー』は、貴族制度の斜陽化とそれに伴う生活の変化を描きつつ、男女平等の萌芽をも描いた作品だった。クローリー家の女性たちは、誰もが強い意志と変化への柔軟性を持ち、時代を生き抜こうとする姿が印象的だ。今作のメアリーの離婚は、社会的逆風を恐れぬ高らかな宣言でもある。

新しい価値観の使者たち

もうひとつ、そんなメアリーを支えた存在として見逃せないのが、アメリカ人とゲイたちだ。映画版『新たなる時代へ』で登場したアメリカ人俳優ガイ・デクスター、そして実在のイギリス人俳優ノエル・カワードを思わせるキャラクター。彼らはイギリスの伝統など意に介さず、アメリカ人としての、あるいはゲイであることによる独自の価値観を持っていた。彼らの存在が、メアリーに「価値観は相対的なもの」と教えてくれるのだ。

それは同時に、「古い世界たるイギリス」と「新しい世界たるアメリカ」の対比をも浮き彫りにする。これは、クローリー家当主ロバートの妻コーラがアメリカ人女性だったという当初の設定から既に匂わされていたテーマだ。史実においても、19世紀末から20世紀初頭にかけて、英国貴族男性と富裕層アメリカ人女性の結婚が顕著だった(約10%にのぼるという)。当時の農業不況で収入が激減した貴族たちが、莫大な持参金を持つアメリカ人女性を「救世主」として迎え入れたのだ。そしてコーラがもたらした新たな価値観が、娘たちに受け継がれ、クローリー家が時代の荒波を生き延びてきたのではないか——そう思わずにはいられない。

それぞれの旅立ちへ

その後、物語の主要人物たちは引退し、あるいは新たな人生を歩み始めることで、『ダウントン・アビー』の世界から次々と旅立っていく。思えば映画版『新たなる時代へ』での先代伯爵夫人ヴァイオレットの哀切な退場がその始まりだったのだろう。そして『グランドフィナーレ』のタイトル通り、全ての登場人物に豊かな幕引きが用意され、物語世界が厳かに終わりを迎えてゆく。

変わりゆく時代の中で、それは避けられないことであると同時に、祝福として受け入れるべきものでもあるのだろう。

しかし、それでも人は時に、古い世界に帰りたくなる。新しさに疲れたとき、古きものが心を癒すように。そのとき、ダウントン・アビーは、私たちをいつでも暖かく迎え入れてくれるに違いない。

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エリック・マコーマックの不条理怪奇小説『ミステリウム』を読んだ

ミステリウム / エリック・マコーマック (著), 増田 まもる (翻訳)

ミステリウム (創元ライブラリ)

ある炭鉱町に、水の研究をする水文学者を名乗る男が現れる。以来、その町では墓地や図書館が荒らされ、住人たちは正体不明の奇怪な病に侵され次々と死んでいく。伝染病なのか、それとも飲料水に毒でも投げ込まれたのか? マコーマックらしさ全開の不気味な奇想小説。巻末に柴田元幸氏のエッセー「座りの悪さのよさ」を再録。

スコットランド生まれのカナダ人作家エリック・マコーマック(1938-2023)は怪奇であると同時にシュールで不条理な作風の作家だ。いわゆる「奇妙の味」の小説を書く作家だと言っていい。どの作品もおぞましく、非現実的で、最後まで真っ当な説明がなされないといった部分において、あたかも悪夢をそのまま物語にしたような薄気味悪さに満ち溢れているのだ。

そのマコーマックの『ミステリウム』は長編小説となる。英国と思われる国の寒々しい炭鉱町で不可思議な破壊行為が行われ、続いて町民たちが謎の奇病に罹り次々と死んでゆく。主人公となる新米記者は町で巻き起こる災害の謎を解くため派遣されるが、取材を続けるほどにこの町の抱える迷宮めいた過去に囚われてゆくのだ。

マコーマック小説にしては超現実的要素は皆無で、しかも事件の謎を追うミステリ小説形式の構成なのだが、主人公によって掘り起こされる証言の数々がどれも異様であり、腐臭めいた厭らしさに満ちていて、そのグロテスクさが実にマコーマックらしい。

また、町人たちを襲った疫病の症状とは、言語中枢に異常をきたし、異様な喋り方をしながら最後に消耗して死んでゆく、といったものなのだが、病理としての原因は全く説明されない。それら住民の狂った会話を聞かされ、ただただ不快で薄気味悪い気分にさせられるだけなのである。

また、マコーマック小説の常として、物語内物語という入れ子構造を成しているが、綴られるそれら小さなエピソードが本編に関わるのかどうかも判然とせず、常に居心地の悪さを感じさせる部分もマコーマック流だ。そして最後まで読み終えて、これは長い長い悪夢だったのではないかとやはり思わせるのだ。

《参考:これまで読んだマコーマック小説の記事》
隠し部屋を査察して / エリック・マコーマック - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ
この怪奇で、不思議に満ちた人生/エリック・マコーマックの『雲』を読んだ - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ
不気味な物語。/『パラダイス・モーテル』エリック・マコーマック - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

 

『F1®/エフワン』『こいつで、今夜もイート・イット アル・ヤンコビック物語』など最近配信で観た映画

『F1®/エフワン』

F1®/エフワン (監督:ジョセフ・コシンスキー 2025年アメリカ映画)

私は車に興味がない。ましてやF1ともなれば「ファンクションキーのことですよね、わかります」と答えてしまうレベルの門外漢だ。本作が世間で高く評価されていることは知っていたが、劇場へ足を運ぶまでには至らず、配信開始を待っての鑑賞となった。しかし、いざ観始めてみれば、それは噂に違わぬ傑作であり、己の不明を恥じるほど圧倒された。

まず特筆すべきは、主演のブラッド・ピットが見せる、凄まじいまでの「枯れた色気」だ。 彼が演じるのは、第一線を退いた「くたびれた中年」である。だが、その背負った哀愁や疲弊した佇まいが、同じ男の目から見ても胸がときめくほどに格好いい。もともと好感を持っていた俳優ではあるが、「これほどまでに格好良かったか」と改めて驚嘆させられた。

物語の引力も凄まじい。単なるスピードの狂宴を描くのではなく、一見華やかな国際自動車レース界の裏側に渦巻く泥臭さや、勝利をもぎ取るための「汚い手」を容赦なく描き出していく。 何より痛快なのは、その「汚い手」を厭わないのが、我らが主人公自身であるという点だ。彼は清廉潔白な正義の味方などではない。ある種のダーティーヒーローであり、体制に馴染めぬ「はぐれ者」であり、孤高の一匹狼なのだ。その振る舞いに、思わずニヤリとさせられる。

緻密に構成された脚本、血の通った人間臭い登場人物たち、そして息を呑むほど白熱するレースシーン。155分という上映時間に、当初は腰が引けていたのも事実だが、蓋を開けてみれば終わるまでが瞬く間だった。 2025年のベスト映画として本作を挙げる人々が、なぜこれほどの熱狂を以て語るのか。その理由を、身をもって理解させられた一作だ。


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こいつで、今夜もイート・イット アル・ヤンコビック物語 (監督:エリック・アペル 2022年アメリカ映画)

大ヒット曲「今夜もイート・イット」を生み出したアル・ヤンコビックの自伝映画!? と聞いた瞬間、「これは観るしかない!」……とは全く思わなかった。 でも、ダニエル・ラドクリフヤンコビック役で主演!? と知ったら、「ラドクリフ、相変わらず訳の分からない役ばっかり選ぶなあ」と思って、観ることにした。

物語は冒頭から、引っ込み思案な少年アルと「替え歌」との出会い、工場労働者の厳格な父との確執、父の手を逃れて気の置けない友人たちと才能を開花させるエピソードなど、「自伝映画あるある」すぎる描写が続く。

「まあ、こんなもんか」と納得しかけたところで、アルが「もう替え歌はうんざりだ! これからはオリジナル曲で勝負する!」とばかりに生み出した曲『今夜もイート・イット』が大ヒット。なんと、あのマイケル・ジャクソンが逆にパロディ曲『今夜はビート・イット』を作り、さらにアルの曲に心酔したマドンナとアルが結ばれてしまう、という超展開が待っている。

「何じゃこりゃ?」と思うけど、そもそもコメディアンであるアルの自伝映画をまともに撮っても面白みに欠けるのは明らか。だからこそ、こういうぶっ飛んだ冗談展開が逆に最高に楽しめた。あと、今をときめく怪優デヴィッド・ダストマルチャンがクイーンのベーシスト、ジョン・ディーコン役で数秒だけ出演しているんだけど、似せようとする努力がまるで見られない(というか完全に放棄してる)ところが、最高の見どころだった。全体に漂う80年代カルチャーのダサ懐かしさが楽しい作品だった。


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映画『プシュパ 君臨』:密輸帝国の帝王が辿る怒濤の人生交響曲

プシュパ 君臨 (監督:スクマール 2024年インド映画)

『プシュパ 覚醒』の続編『プシュパ 君臨』

インド映画『プシュパ 君臨』は、密輸稼業で成り上がった男の強烈な生き様を描いた物語だ。2021年に公開された『プシュパ 覚醒』の続編として製作され、本国インドでは『RRR』を超える大ヒットを記録したという。主演は前作に続き、テルグ映画界の大スター、アッル・アルジュン。監督は『ランガスタラム』のスクマールがメガホンを取っている。

ここでまず、1作目『プシュパ 覚醒』の物語を振り返っておこう。主人公のプシュパは、南インドの貧しい家庭に生まれ、非嫡出子(妾の子)として虐げられて育った男だ。どん底からの成り上がりを誓った彼は、幻の高級木材「紅木(こうき)」の密輸に手を染め、その度胸と狡猾さで瞬く間に組織の頂点へと上り詰める。だが、そんな彼を逮捕せんと、蛇のごとく執念深く冷酷な警視シェーカーワトが立ちはだかる。

『プシュパ 覚醒』はいわゆるピカレスクロマンだが、従来のインド映画やテルグ語映画とは一味も二味も違う手触りを持っており、鑑賞時にはその非凡さに唸らされた。その魅力をいくつか挙げてみたい。

映画『プシュパ』シリーズの特異な面白さ

まず、密輸の“シノギ”となる「紅木」という題材が秀逸だ。紅木はインド・スリランカ原産の極めて質の高い木材だが、乱獲により絶滅危惧種となり、現在はワシントン条約で取引が厳しく規制されている。この紅木を物語の核に据えた視点がいい。麻薬や銃器と異なり、モノ自体が直接的に人を傷つけるわけではないからだ。もちろん種の保存を軽んじる点でプシュパは「悪」なのだが、麻薬商人らに比べるとどこか奇妙なクリーンさが漂うのである。

次に、プシュパの成り上がりが単なる暴力によるものだけではない点だ。危機に瀕した際の判断力や度胸に加え、狡猾な知略を駆使する「戦略家」としての側面が強調されている。これが、本作を単なるマフィアのバイオレンス映画と一線を画させている。敵勢力や警察を相手に、プシュパが計略を尽くして打破していく様は実に小気味いい。

そして何より、プシュパ自身のキャラクターの異様さだ。ボサボサの髪にどんよりとした目つき。常に口に何かを含んでいるような喋り方に、左肩が上がった歪な歩き方。一見すると胡乱(うろん)極まりない「異形」の風貌だが、いざ抗争となれば抜群の行動力で敵を圧倒する。このギャップが凄まじい。この男を演じるアッル・アルジュンは、素顔は非の打ちどころがない色男なのだから、俳優という職業の恐ろしさを痛感させられる。

続編『プシュパ 君臨』が到達した極致

最新作『プシュパ 君臨』も、その面白さをきっちりと踏襲している。冒頭、密輸先である横浜港で大暴れするプシュパの姿で、観客の心は既に鷲掴みだ。そして今作で描かれるのは、かつて叩き潰したはずの敵勢力の再起、そして復讐に燃える警視シェーカーワトとの再対決だ。それらに加え、妻とのコミカルなやり取りや、被差別階層として虐げられた過去をいかに克服するかといったドラマが重層的に展開していく。

上映時間はなんと222分、4時間近い長尺だ。しかしその中で、プシュパの波乱に満ちた運命が、インド映画お馴染みの超時空爆裂アクションと極彩色のダンスシーンを交え、これでもかと言わんばかりの熱量で描かれる。スケールは前作を遥かに凌駕し、バイオレンスはより過激に、プシュパの情念はマグマのごとく噴出し続ける。複数のサイドストーリーが絡み合う構成は、全8話ほどの連続ドラマをさらにゴージャスにして一気見させられているかのような、極限の満足感(あるいは満腹感)をもたらす。

そこに見出すのは、悪のカリスマとしてのプシュパの魅力であり、交響曲のように奏でられる怒濤の人生賛歌だ。暴力と祝祭が交互に訪れる構成はまさにインド映画版『ゴッドファーザー』。しかも同作と同様に第3部の製作も予定されているらしく、プシュパ帝国の存亡をかけた物語はまだ続くようだ。

もっとも、次も4時間近い上映時間となれば、劇場へ足を運ぶのは少し躊躇してしまうかもしれない。いや、間違いなく面白いのだが……いかんせん、こちらは老齢ゆえ体力が保つかどうかが問題なのである。


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「恐怖」の本質とは何か?:京極夏彦の『猿』を読んだ

猿 / 京極夏彦

猿 (角川書店単行本)

いけませんよ。外に出ては――怖いですから 「猿がいる」と言い出した同居人。 かすかに感じる、妙な気配。 曾祖母の遺産相続。 胸に湧き上がる不安。 岡山県山中の限界集落。 よく判らない違和感――。 ただの錯覚だ。そんなことは起こるはずがない。だが――。 怖さ、恐ろしさの本質を抉りだす、瞠目の長編小説。

京極夏彦の『猿』は、極めて奇妙な小説である。本作は「恐怖とは何か、なぜ人は恐怖するのか」を徹底的に問い直す、恐怖小説の枠組みを逆手に取った一冊だ。しかし、物語はホラーの常套手段――「恐怖の対象」とされるあらゆる事象を、次々と否定していく。

事故物件、心霊スポット、呪物、人里離れた因習村……。これらは「怖い」という先入観や文化的な意味づけによって恐怖の対象に仕立て上げられているに過ぎない。実際には、何の変哲もない実存がそこにあるだけだ。人々はそこに「意味」や「関係性」を見出そうとする。その営みこそが、語り手から聞き手へ渡される「ナラティヴ」――物語である。

京極はここで、恐怖とされる事物にまつわるナラティヴをことごとく剥ぎ取り、それらは本質的に恐怖などではないと解き明かしていく。あらゆる舞台装置が否定され尽くした後、それでもなお残る「恐怖」とはいったい何なのか。それこそが、長編小説『猿』が執拗に追い求めた正体なのだろう。

物語は、都会に住む女性・松永祐美が、岡山の山奥に暮らしていた遠縁の曾祖母の遺産整理のため、マンションを離れる場面から始まる。同居人の隆顕は倦怠感が続き引きこもり状態にあり、祐美は彼を憐れみつつも、その投げやりな態度に疲弊している。一人では何もできない彼を案じながらも旅立たねばならない彼女の心は、すでに限界に近い。そして出発の間際、マンションの天井に得体の知れない気配を感じ、「猿がいる」と隆顕が呟く。それが何であるかはわからない。ただ「それ」は、そこに「いた」。

岡山に到着した祐美は、もう一人の遺産受取人や弁護士、助手を交え、曾祖母の住んでいた限界集落〈祢山村〉へ向かう。村の成り立ちや曾祖母の過去は、戦前の時代背景ゆえの複雑だが合理的な事情によるものだった。「不思議」でも「怪奇」でもない。こうして物語は、早々に「山奥の謎の集落」というホラーの定番シチュエーションを無力化する。

しかし一方で、客が誰一人物音を立てず会話もしない薄気味悪い喫茶店が登場するなど、常に居心地の悪い違和感を忍び込ませ続ける。マンションの気配も、不気味な喫茶店も、ある種の「不安」を喚起する要素だ。しかし、それらが何であるかは決して説明されない。同居人の体調もまた「不安」の源だが、「不安」は「恐怖」ではない。

不安、嫌悪、具体性を欠いた予感――これらは恐怖に近しい感情だが、「怖いのとは少し違う」。それらは恐怖を呼び込むための重要な触媒であり、あるいは予感こそが恐怖の本質なのかもしれない。しかし「怖い」と思わなければ、理由を探る必要はない。怖がるからこそ、怖いのだ。

かつて文化人類学者ローラ・ボーハナンがナイジェリアのチヴ族に『ハムレット』を語ったとき、「亡くなった王の幽霊が現れた」という説明に対し、彼らは「死んだ人間が歩くわけがない」と一蹴した。結局、「恐怖」は文化のフィルターに強く依存した相対的なものである。「怖がるから怖い」という循環は一見空虚だが、恐怖のベールを一枚ずつ剥いでいけば、最後には何も残らないのかもしれない。つまり、相対的な意味でしか「恐怖」など存在しないのだ。京極の百鬼夜行シリーズで繰り返される「憑物落とし」が、文化的な意味付け(ナラティヴ)を剥ぎ取り、ただの事象に戻す作業であることを思えば、本作が書かれた必然性も自ずと見えてくる。

それでも、この物語は最後の最後に、とんでもなく不気味で意味不明な「恐怖」を突きつける。あらゆる文脈が相対化され、解体された後に、なお純粋に残る「恐怖」。京極夏彦が描きたかったのは、まさにそれなのだろう。小説全体が「京極による恐怖論」のような構成ゆえ、純粋なホラー小説として読むと肩透かしを食らうかもしれない。しかし、京極作品特有のロジックと哲学的深みを堪能したい読者には、格別の味わいがある一冊だ。