62歳になった……ふはっ。

本日9月9日をもって62歳になったオレである。 毎年年は取るものだが、いよいよ「まだ年取んなきゃダメなんっすか?なんの罰ゲームっすか?」と泣きたい気分になってきた。

そして62歳というとオレの会社では定年退職の年齢であり、同じ会社に再雇用という形にはなるにせよ、これに伴い生活もあれこれ大いに様変わりすることになると思われ、実のところ心中穏やかではない。ただしこの定年に関しては9月満期で終わった後に改めて書くつもりであり、ここでは多く触れないこととする。ただやはり大きな節目なのだな、とはひしひしと感じている。

さて62歳……もはや「ふはっ」という感じである。この「ふはっ」とは水木しげる大明神のコミック作品に登場するしょぼくれたサラリーマン(山田という名なのらしい)が現実の冷徹さに直面し虚無と絶望の中に取り残されながら付く溜息の「ふはっ」である。もはやなにか言うべきこともできることもなくただただ無力感に沈むしかない「哀音」、それが「ふはっ」なのである。それにしても「哀音」とはけだし見事な表現であると言わざるを得ない。

人間30歳を過ぎ40になった辺りから知力も体力も健康面も徐々に下り坂となり、50になってそれは顕著となり60を過ぎてしまうとそれはもう笑っちゃうぐらい急降下してゆくのである。笑ってる場合では全くないがな。さらに健康寿命というのがあり、足腰が立って頭もまだ働いているおおよその期間を指すのだが、これがだいたい72歳ぐらいである。場合によってはその後「寝たきり」である。ああ無情、とはこのことである。これはあくまで平均だが、どっちにせよ遅かれ早かれということでもある。なんにせよ面白い話ではない。だいたい書いていて気が滅入ってきたぞ。

とはいえ、割と今のところ健康にはしている。ギリギリ保っているというのが正確だが。高血圧と脂質異常症/高脂血症ではあるが、それは薬で平均値程度に抑えてある。腰や肩は特に患っていない。ただし無理すると膝にくる。体重は若干多めだが体脂肪率BMIは標準レベルである。老化に伴い視力と聴力は衰え、歯も何本か抜けて部分入れ歯のお世話になっているが、とりあえず日常生活は送れている。問題は内臓、消化器系だが、酒ばかり飲んでいるにもかかわらず今のところ肝臓は丈夫らしく、さらにここ数年悩まされていた胃炎が摂生の甲斐あってか今年は酷く悩まされることがない。

あとは心臓や肺や大腸小腸、それ以外に腎臓だ脾臓だなんだと細かい内臓については、特に自覚症状のある疾患は今のところない。ないだけで実際どうなっているのかよく分からないが、とりあえず人間ドックでは指摘事項が(老化で衰えているという以外は)ない。体調については元気溌剌ということはないにせよ、まあ老人の体調だろうな、程度の実感である。そうは言いつつある日突然ガタッとくるかもしれない。こればっかりは確かなことは分からない。なぜならそれが老人だからである。

なんだか辛気臭いことばかり書いちまったな。何故だか知らんが毎年恒例の誕生日ブログ記事は辛気臭いことを書くというならわしになってしまっているのだ。それ以外の日々のブログ文章では辛気臭いことは書かないことにしているから許してくれ。いや許してください(丁寧語で言い直す)。

だからもう少し明るいことを書こう。明るい材料の無い老後ではあるが、将来的には貯金と退職金と年金とで贅沢さえしなければまあまあのんびり生きていられる展望が付いた。世情は不透明だがそんなもんいつだって不透明なんだから心配しても始まらない。さっきも触れたが今のところなんとなく健康に過ごせているのは幸せな事なのかもしれないと思うことがある。オレより若い方が不調や病気に苦しんでいたりするのを見ると特にそう思う。読んでいるかどうか分からんがドラゴンボスさんホントちゃんと体調良くしてくださいよ。同様に、オレよりも若い方が亡くなった記事など読むと、今この年で生きていられる自分はそれだけで幸福なのだなと思えてしまう。

体調も大事だが、メンタル面が割と安定しているのもいいことだろう。実はオレ、40近くまで鬱々とした人生を送っていたので、ここ20年近くの安定していて割と前向きな精神状態が有難くてたまらないのだ(ただ体調崩すと落ち込んじゃったりするのね)。前向きとは書いたが、それはそう生きようと思わなければ成し得ないものだし、同様に、幸福である事もまた、幸福であろうと努め励まなければ成し得ないものなのだと思うのだ。

オレはこの年になってもまだ、過ちを犯すし愚かなことを仕出かしはするけれども、それでも、そういったことをできるだけ反省し、よりよく生きようと心掛けたいのだ。62だろうがなんだろうが、まだまだ学ぶことがあるのだろうし、そうやって学びながら、よりよい人間として、よりよい人生を送りたい。余命は迫ってきているのかもしれないけれども、それまでは、真っ当な人間として生きていると思って生き続けたい。それが62歳の実感かな。

おいおいなんか格好いいこと書いちゃったぞ。さっきスーパーで列に割り込んできたババアにブチ切れてたくせにな。まあいっか。誕生日だしな。あと公共交通機関ではもう年寄りに席を譲るつもりはないからな。だってオレが年寄りなんだからな。なんだよさっきと言ってること違うじゃないかよ。何が真っ当だよ学びだよ。まあこの程度にはいい加減な人間なので騙されないように。では長々と書いて自分でも飽きてきちゃったのでこの辺で。これからも楽しく生きられるように努めたいと思っております。そして最後に、いつもこんなオレの相手をしてくれている相方に感謝と胸一杯の愛を。ではでは。

韓国軍事クーデター事件の顛末を描いた映画『ソウルの春』を観た

ソウルの春 (監督:キム・ソンス 2023年韓国映画

1979年、韓国で起こった大統領暗殺事件とそれに伴う軍事クーデターを題材に、反乱側と制圧側との息詰まる攻防を描いた歴史ドラマ。韓国の国民的大スター、ファン・ジョンミンがクーデター首謀者チョン・ドゥグァン役を演じ、『ハント』『無垢なる証人』のチョン・ウソンが制圧側司令官イ・テシン役を演じている。監督は『FLU 運命の36時間』『アシュラ』のキム・ソンス。映画は韓国において2023年観客動員数第1位となる大ヒットを記録した。

《STORY》1979年10月26日、独裁者と言われた韓国大統領が側近に暗殺され、国中に衝撃が走った。民主化を期待する国民の声が高まるなか、暗殺事件の合同捜査本部長に就任したチョン・ドゥグァン保安司令官は新たな独裁者の座を狙い、陸軍内の秘密組織「ハナ会」の将校たちを率いて同年12月12日にクーデターを決行する。一方、高潔な軍人として知られる首都警備司令官イ・テシンは、部下の中にハナ会のメンバーが潜む圧倒的不利な状況に置かれながらも、軍人としての信念に基づいてチョン・ドゥグァンの暴走を阻止するべく立ち上がる。

ソウルの春 : 作品情報 - 映画.com

現代朝鮮史には不勉強なので、映画で描かれる「粛軍クーデター」「12.12軍事反乱」と呼ばれるものの結末を全く知らず、だからひとつの政治サスペンス映画として能天気にハラハラしながら観ることになった。一応映画的に言うなら、この『ソウルの春』は映画『KCIA 南山の部長たち』で描かれた大統領暗殺事件の直後の物語であり、さらにこのクーデター後、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』で描かれた光州事件が起こる事になる。タイトルの「ソウルの春」とは大統領暗殺による独裁政権崩壊後に韓国で芽生えた民主化ムードを指す言葉で、それが軍事クーデターによって費え去る事の哀感を込めたのだろう。

あくまでエンタメ映画として観るのなら、なによりもクーデター首謀者チョン・ドゥグァンを演じたファン・ジョンミンの、権力欲に塗れた狡猾極まりない男を演じる姿に圧倒された。ファン・ジョンミン演じるチョン・ドゥグァンは、冷徹な指導者とか卓越した軍人とかいうものでは全くない。どちらかというと田舎代議士のような泥臭い人間関係で回りを束ね、叱咤と懐柔で人心を操作してゆくような男なのだ。あたかも猿山のボス猿の如き濃密なホモソーシャル社会の権化なのである。そのキーキーと喚きたてながらクーデター軍を指揮してゆく様から、ファン・ジョンミンにジョーカーを演じさせたら相当面白いんじゃないかとすら思ってしまった。

反乱側と制圧側との熾烈極まりない駆け引きと戦闘を描いた作品だが、実はそこで雌雄を決したのは、優れた戦略とか圧倒的な軍事力と言ったものでは全くなかった、という部分が興味深い。反乱側陣営の連中はただお山の大将になりたいだけの政治的信条が何もない愚者ばかりで、首謀者チョン・ドゥグァンに巧くのせられその気になっているだけ、戦況が悪くなると豚のようにピーピーと慌てふためく有様だ。

一方制圧側はイ・テシンという高潔な司令官と訓練された軍人で占められていたが、彼らに協力すべき部隊や部署が及び腰で統率が取れておらず、さらには自己保身と無意味な階級意識で作戦を危機に晒してしまう。初動では制圧側が迅速に動いていたにもかかわらず、事なかれ主義の愚昧共が離反しだすことで次第に劣勢に立たされるのだ。結局イ・テシンは優れた行動力を持ちながら空回りし続けるだけなのである。

要するに両者グダグダなのである。緻密で綿密な戦略と戦術を戦わせ知力と武力で熾烈な戦闘が巻き起こるといった類のものではないのである。そして戦局は、優秀だが空回りしているイ・テシンではなく、猿山のボス猿として専横するチョン・ドゥグァンに味方してゆくのである。これまで様々な戦争映画を観たことがあるが、ここまで愚かしい理由で戦局が動いてゆくドラマは観たことがない。これが史実の数奇な部分ではあるが、このうすら寒い愚昧ぶりにこそ、この物語の生々しい凄みがある。

 

原点回帰の恐怖/映画『エイリアン:ロムルス』

エイリアン:ロムルス (監督:フェデ・アルバレス 2024年アメリカ映画)

SFホラー映画の金字塔「エイリアン」シリーズ最新作。物語は1作目『エイリアン』と2作目『エイリアン2』の中間の時期に起こった事件が描かれ、宇宙植民地生まれの若者たちがエイリアンの恐怖と対峙することになる。出演は『プリシラ』のケイリー・スピーニー、『ライ・レーン』のデビッド・ジョンソン、『もうひとりのゾーイ』のアーチー・ルノー、『マダム・ウェブ』のイザベラ・メルセドといった若手俳優で占められている。製作はリドリー・スコット。『ドント・ブリーズ』のフェデ・アルバレスが監督を務めた。

《STORY》人生の行き場を失った6人の若者たちは、廃墟と化した宇宙ステーション「ロムルス」を発見し、生きる希望を求めて探索を開始する。しかしそこで彼らを待ち受けていたのは、人間に寄生して異常な速さで進化する恐怖の生命体・エイリアンだった。その血液はすべての物質を溶かすほど強力な酸性であるため、攻撃することはできない。逃げ場のない宇宙空間で、次々と襲い来るエイリアンに翻弄され極限状態に追い詰められていく6人だったが……。

エイリアン ロムルス : 作品情報 - 映画.com

最高に面白かった。そして最高に怖かった。後半などは怖さのあまり映画館の座席をがっしり掴んでのけぞり気味に怯えていたほどだ。その完成度の高さは、もはや無印以外のシリーズ全作が霞んでしまったと言っていい。『エイリアン2〜4』は良くも悪くも「リプリーの物語」に固執し過ぎていたし、『プロメテウス』『コヴェナント』は結局番外編だったが、登場人物を刷新しつつ1作目の続きを描いたこの作品は、「『エイリアン』とは”恐怖”を描く作品だ」ということを思い出させてくれた。

『エイリアン』とは単純に言うなら「宇宙お化け屋敷」なのだと思う。漆黒の宇宙空間でいかに驚かせ怖がらせるのかに特化した映画であり、そこにエイリアンや宇宙船の造形など美しくもまたおぞましい美術を盛り込んだのが『エイリアン』なのだと思う。その点『エイリアン2〜4』『プロメテウス』『コヴェナント』は、ユニークな作家性や強烈なアクション、素晴らしい美術を披露する作品群だとは思うが、「恐怖」のただ一点においては無印『エイリアン』を踏襲しきれていなかったのではないか。

翻ってこの『ロムルス』を優れた作品したのは、無印『エイリアン』の恐怖をもう一度しっかり描いたということなのだ。つまり「原点回帰」ということだ。この『ロムルス』はシリーズ全作へのオマージュを散りばめながら、1作目の恐怖をきっちり継承しアップデートしていた。これこそが本来『エイリアン2』と呼ぶべき作品だろう。実のところ新しい事は何もやっていないし、お話も「若者たちがとことんエイリアンに追い掛け回され殺されまくる」という以外何もないのだが、このシンプルさに立ち返った部分がこの作品の勝利だろう。

もちろん、これまで公開された無印『エイリアン』以外の作品が不必要だったと言いたいわけではない。あれらの作品があったからこそ、一周回った部分でこの『ロムルス』を生み出すことができたからだ。実際、もし無印『エイリアン』の後にこの『ロムルス』が公開されても「二番煎じ」と呼ばれただけだろう。様々な「エイリアン」シリーズを経た後で原点回帰してみせたからこそ新鮮に目に映ったのだろう。どちらにしろ陳腐化しつつあったシリーズに強烈なカンフル剤となった『ロムルス』は、シリーズを新たに蘇らせる起爆剤となっていたと思う。若手俳優は誰もがよかったし、アンドロイドの扱いもシリーズいちよく掘り下げられていた。

 

 

北欧ミステリ『犯罪心理捜査官セバスチャン』を読んだ

犯罪心理捜査官セバスチャン (上・下) / M・ヨート (著), H・ローセンフェルト (著), ヘレンハルメ 美穂 (翻訳)

犯罪心理捜査官セバスチャン 上 (創元推理文庫) 犯罪心理捜査官セバスチャン 下 (創元推理文庫)

殺された少年は以前に通っていた学校でいじめられ、裕福な子どもが通うパルムレーフスカ高校に転校していた。母親、ガールフレンド、友人、校長、担任と、証言を得るうちに次第に浮かび上がり、変化していく少年の姿。一方、相手かまわず喧嘩をふっかける嫌われ者のセバスチャンが加わったことにより、殺人捜査特別班には穏やかならぬ雰囲気が漂っていた。被害者も証人たちも、そして捜査陣もみな、それぞれの秘密をかかえるなか、セバスチャン自身も実はある事情を隠して捜査に加わっていたのだ。

今回読んだ北欧ミステリはスウェーデンの脚本家であり作家コンビであるミカエル・ヨートとハンス・ローセンフェルトによる『犯罪心理捜査官セバスチャン』。

物語は一人の少年の惨殺死体が発見されるところから始まる。彼は心臓をえぐり取られ体中めった突きにされる、という非常に残虐な方法で殺されていた。4人の腕利き刑事とかつてのトッププロファイラー、セバスチャンが捜査に当たるが、このセバスチャン、口が悪く協調性に欠け、おまけにセックス依存症という問題児だった。

事件捜査が少年の通っていた私立学校を中心に展開していくという点がまず目新しい。この学校で被害者の同級生、担当教師、校長が取り調べを受けるが、誰もが一様に何かを隠している。そして被害者の少年もまた「裏の顔」を持っていたことが徐々に浮かび上がってくる。誰もが口をつぐみ、被害者の母親ですらはっきりした証言をせず、捜査は杳として進まない。明らかにされた事実もまた二転三転してゆき、なにもかもが一筋縄に行かない。優等生ばかりが通う名門私立学校で、いったい何が進行していたのか?こういったミステリで読ませてゆく部分がまずは出色である。

しかしこの作品、主人公のみならず登場する刑事たちの私生活についての書き込みが何しろ多すぎる。事件捜査と並行しながら主人公の内面や私生活を掘り下げてゆくのはこういったミステリではよくあることではあるが、さらに刑事4人分の私生活まで事細かく描かれてしまうものだから物語がまるで進行しない。それはいいから捜査の進行はどうなったのかさっさと読ませてよ、とじれったくなってしまうのだ。

しかもこの登場人物たちの「私生活」というのがどれもこれも生臭い。主人公セバスチャンがセックス依存症だというのは、妻と娘を事故で亡くした過去から生まれる孤独感や虚無感を埋め合わすため、というのはまあ理解できなくはないのだけれども、不幸な過去でウジウジしつつ、次は寝た女との関係でグダグダ言うものだから、だんだんとうんざりしてくる。こういったセックス好きの主人公の生臭さから始まり、主人公の同僚たちのセックス絡みの生臭い日常生活が描かれ、なんと事件の核心もまた生臭い内容だったりする。なんだかこの作者コンビ、生臭いものが大好きなようだ。

さらにこの主人公、「犯罪心理捜査官」なる物々しい肩書を持っているから、物語ではどれだけ心理学に基づいたキレのいい推理なり捜査を見せてくれるのか、と期待していたら、それも特にどうってことなく、凡庸な人間ではないにせよ、他の警官が気付いていいようなことを気付くだけの話であり、あんまりパッとしないのだ。あと表紙では細面の顔で描かれているけど本当は軽肥満ということになっているからね。

とはいえ、予断を許さない展開、予想のつかないクライマックスはよく描けており、ミステリとしてはとても出来がいいんだ。ラストがまたびっくりするぐらいいい。だから、主人公や刑事たちの生臭い私生活描写を半分以下に減らしてくれれば傑作に近い作品に仕上がっていたはずなんだ。その辺がちょっと惜しかった。

 

スウェーデンのシリアルキラー・サスペンス『砂男』がうんざりするほどお粗末だった

砂男(上・下)/ラーシュ・ケプレル (著), 瑞木さやこ (翻訳), 鍋倉僚介 (翻訳)

砂男(上) (扶桑社BOOKSミステリー) 砂男(下) (扶桑社BOOKSミステリー)

ある激しい雪の夜、一人の男がストックホルム郊外の鉄道線路沿いで保護された。それは、ベストセラー作家レイダルの13年前に行方不明になった息子ミカエルだった。彼は、自分と妹フェリシアを誘拐した人物を「砂男」と呼んだ――。当時、国家警察のヨーナ警部は捜査にあたったが、それがきっかけで彼の人生は一変していた。相棒サムエルとユレックという男を逮捕。判決後、ユレックは不吉な言葉を吐き、閉鎖病棟に収容される。そこへ妹の監禁場所を知るため、公安警察のサーガが潜入捜査を開始する!

最近北欧ミステリを中心に読んでいて、様々な名作・傑作に出会ってきたが、遂に出会ってしまいました、箸にも棒にも掛からない「駄作」北欧ミステリに!タイトルは『砂男』、スウェーデン作家ラーシュ・ケプレルによって書かれた作品だが、ページを繰る毎に「こりゃダメだろ」「こりゃダメだろ」「こりゃダメだろ」とオレの中でダメ出しの嵐だった。

物語は13年前に行方不明になっていた少年ミカエルがボロボロになって発見されるところから始まる。13年も経ったのでもう少年じゃなくて青年なんだが、とりあえずミカエルは譫妄状態で、「砂男が来るー!砂男が来るー!」とうなされるばかり。ここでタイトルにもなっている「砂男」とはなにかというとヨーロッパの民間伝承に伝わる「睡魔」のことで、夜更かしする子供の目に砂をかけて眠らせてしまうという存在。E・T・A・ホフマンの怪奇短篇にも登場している。

ミカエルは保護されたが、一緒に誘拐された妹のフェリシアがまだ見つかっていない。警察は拉致監禁殺人の容疑で精神病院に収監されているシリアルキラー、ユレックの犯罪との共通点を見つけ、ユレックに共犯者がいると睨み、フェリシア救出の為に女性捜査官を極秘に精神病院に送りユレックと接触させた……というのがストーリー。

で、何がダメだったかというと、ハッタリがましいホラー調のシリアルキラー像にまずうんざりさせられた。こいつがまた映画『セブン』の犯人ジョン・ドゥ―みたいに神の如き全能の犯罪者であるばかりでなく、ジェイソンやブギーマンみたいに殺しても死なず、どこでもドアでも持ってんのかと思わせるほどありとあらゆる場所にひょいひょい顔を出す。行う犯罪もとりあえず猟奇猟奇のオンパレード。まあ要するになんでもアリ過ぎて白けるだけでなく、一時流行った残虐クライムサスペンスから一歩も脱却していないありきたりな設定なんだよな。

そして捜査陣の作戦がまたお粗末。一言で言うならなんかこー、頭悪くておまけに抜けてる。共犯者を見つけるために隠密捜査官を精神病者と偽って病院内の犯罪者と接触させるというのも、それまで口を割らなかったユレックがそれごときで真実を漏らす確信は何もなく、そもそもユレックが共犯者であるという確証が何もない。さらに隠密捜査官は外部からサポートを何も受けられず、案の定危険な目に遭ってしまう。もう作戦がグズグズ。一方病院職員がボケ倒した連中ばかりで病院内で起こる暴力行為を軒並み見過ごすばかりか、若干一名変態がいて隠密捜査官の女性に性的暴行まで働いちゃう始末。おーい責任者出てこーい!

登場人物の感情表現がまたお粗末極まりない。なにしろなにかあったらとりあえず泣く!誰も彼もみんな泣いてばかりいる!何度も何度も馬鹿の一つ覚えみたいに「泣いた」「涙を流した」という描写がしつこいぐらい現れて、どうやら作者は「泣く=感情を揺さ振る効果的な表現」だとすっかり思い込んでいるらしいのだが、単に表現力の無さを露呈しているだけだろ。

プロットも無茶苦茶だが、どうやら思い付きだけで書いているようで、文字数稼ぎなのか読者サービスだと思い込んでいるのか無駄な展開や不必要なアクション、効果を何も上げていない描写が雨あられ、本自体は上下巻二分冊だが内容がスカスカなので飛ぶように読めてしまった。ある意味リーダビリティーが高いページターナーぶり(一回言ってみたかった)。

あまりのダメさに気圧されて最後まできちんと読んだが、実にヒドイ内容なもんだから「こんなだったらオレでも書けるわ!」と思ってしまったほど。書かないけど。とはいえこれで「スウェーデンで年間最も売れたクライム・ノベル」だったり「9カ国でベストセラー1位を達成」とかするらしいので世の中分からない。世の中が間違っているのか、オレが間違っているのか!?

逆に言うなら、「神の如き万能のシリアルキラー」を登場させ、「理解不能の猟奇的な犯罪」を羅列し、「女性捜査官の貞操の危機」を盛り込み、登場人物誰も彼もが「泣いた泣いた涙を流した」を連呼し、「辻褄は合わないがとりあえず派手なアクションと思わぬ展開」を盛り込めばベストセラーの1作も書けてしまうのか!?とすら思えてしまった。これでいいのか?いや、いいわけないだろ!