湿地/アーナルデュル・インドリダソン (著), 柳沢 由実子 (翻訳)
雨交じりの風が吹く10月のレイキャヴィク。湿地にある建物の地階で、老人の死体が発見された。侵入の形跡はなく、被害者に招き入れられた何者かが突発的に殺害し、逃走したものと思われた。金品が盗まれた形跡はない。ずさんで不器用、典型的なアイスランドの殺人か? だが、現場に残された3つの単語からなるメッセージが事件の様相を変えた。しだいに明らかになる被害者の隠された過去。そして臓腑をえぐる真相。ガラスの鍵賞2年連続受賞の前人未踏の快挙を成し遂げ、CWAゴールドダガーを受賞した、北欧ミステリの巨人の話題作。
作者アーナルデュル・インドリダソンはアイスランドの作家である。それにしてもアイスランド作家の本を読むのは初めてだな。アイスランドは北大西洋に浮かぶ北海道と四国を合わせたほどの面積を持つ火山島で、人口は約38万人、その半数以上が首都レイキャビク在住である。気候は寒冷だが暖流の影響でそれほど厳しくは無いものの、天候は常に目まぐるしく変わり、一日で5つの天気を体験することもあるという。
なぜアイスランドという国の実情を長々と書いたかと言うと、この『湿地』が、まさにアイスランドの国土と気候、それほど過密ではない人口動態に裏打ちされたミステリだからだ。物語では常に冷たい雨が降りしきり、タイトルにある「湿地」が重要な要素を占め、それらが物語に暗い影を落とす。読者は否応なくアイスランドの大地を想起しながら物語を読み進めることになるだろう。
物語は一人暮らしの老人が殺害されるという事件から始まる。しかし単純な殺人事件だと思われていたものが、次第に思いもよらない方向へと転がりだし、実にスリリングな物語展開を見せる。「全国民の遺伝情報調査」というアイスランド独特の社会制度が関わるという部分も面白い。
一読して感じたのは読み易く非常に簡潔な描写で物語が進んでゆくという点だ。あとがきによるとこの簡潔さもアイスランド流なのだという。要所要所でこれまでの経緯をまとめてみせる親切な構成も心憎い。物語それ自体も読ませるが、これら作家の資質の高さにより牽引してゆく部分で魅力を感じさせる小説だ。
事件の切っ掛けとなり、さらにその真相となるものは陰鬱で目を背けたくなるほどにおぞましく、救いのないものだ。北欧ミステリらしいといえばそれまでだが、決して露悪に走ることなく、社会と人間性の持つ暗部に果敢に切り込んでゆく姿勢から生まれたものだろう。事件に関わってしまった者たちの血縁、そして主人公刑事の複雑な家庭事情など、「家族」が大きなテーマとなっている部分も見逃せない。
