高級洋食が大衆化してゆく経緯を追った『串かつの戦前史〈東京ワンニラ史 後編〉』を読んだ

串かつの戦前史/ 近代食文化研究会 (著)

串かつの戦前史

上流階級向けの高級フルコース料理として始まった明治初期の西洋料理は、次第に大衆化し、庶民の日常へと溶け込んでいった。 その大衆化が行き着いた究極の姿が、屋台でコップ酒片手に立ち食いする串かつであり、肉屋のじゃがいもコロッケであり、社食や学食のカレーライスであり、デパートのお子様ランチであった。 西洋料理はいつ、どのようにして大衆化していったのか。フルコースから串かつに至るまでの歴史を明らかにする。

以前読んだ近代食文化研究会の『焼き鳥の戦前史』『牛丼の戦前史』は、明治時代においては”ゲテモノ”と呼ばれ、下流階級の食べ物とされていた内臓肉を使った焼き鳥や牛丼が、どのような形で一般大衆に受け入れられていったのかを研究した著作であった。一方この『串かつの戦前史』は、上流階級の食べ物であった洋食が、どのような形で大衆化していったのかを詳らかにしようとした著作となる。

串かつは明治時代末から大正時代にかけて東京の屋台で生まれたという。カツレツ料理にわざわざ串を刺して供せられていたのは、それは焼き鳥と同じように、屋台で簡便に食すことができるからといった理由である。そしてそれは洋食レストランで供せられる本式のカツレツとは違い、レバカツの如き臓物肉の揚げ物であったり、薄く叩いた肉の間にたっぷりの玉ねぎを挟んで揚げた、安価だが肉の量の少ない串かつだった。

つまり屋台料理であることの簡便さ、安価といった部分で大衆化が進んだということなのだ。この時、ソースは屋台備え付けのソース壺にカツを浸す形で漬けることになるが、”ソース二度付け禁止”のルールはここから始まったもので、つまり”ソース二度付け禁止”のルールは東京発祥なのである。一方、関西に串かつが伝わったのは昭和初期のことであり、関西が串かつと”ソース二度付け禁止”のルーツであるというのは間違いだという。

また、一般大衆に洋食が受け入れられたもう一つの理由は関東大震災にあるという。震災後、復興に合わせてガス管の配備が進み、それまでかまどや囲炉裏での調理だった家庭料理が、ガスにより簡便化してゆき、それにより東京の一般家庭で洋食が作り易くなっていったのではないかと推測されている。

本書では他にも高級洋食の一般大衆化してゆく様子が記されるが、その中で面白かったのは「カフェー(当時の洋食屋の呼称)」がなぜ流行したのかといった章だ。明治から大正時代は「男女七歳にして席を同じゅうせず」が徹底していた社会背景があった。つまり未婚成人男性にとって、女性と接する機会がほとんどなかった。そこにカフェーが生まれ、”女給”を眺める、という新しい楽しみが生まれたのだ。当時のカフェーやビアホールには”女給”を売りにして宣伝する店も多かったという。これが爆発的にヒットしたのである。そう、日本の洋食の大衆化の一因には、今で言う「会いに行けるアイドル」の存在があったのである。

また、”バー”という呼称についても、明治時代においては洋食屋の呼称のひとつであったのだという。さらに”定食”というのはそもそも洋食におけるフルコースのことであり、それが大衆食堂において(定められた料理だけを出す)定食として流用されていったという言葉の変遷も面白い。