お好み焼きの戦前史 / 近代食文化研究会 (著)
9年以上の時間をかけて収集した300以上の資料によって初めて明らかになる、お好み焼きの歴史 ラーメンのルーツに関する最新研究結果も、この本において詳らかに
北海道生まれのせいか、お好み焼きを食べるという文化がない。いや、北海道生まれの人間はお好み焼きを食べない、ということではなく、50年以上前、オレが年端もいかぬ子供時代の、それも北海道の僻地の町では、お好み焼きなどというものは存在しなかったか、あったとしても記憶に残らないほど一般的な食べ物ではなかったということだ。それはもんじゃ焼きにしても同じで、これなどは上京してから初めて知り、面妖な食い物だなと訝しく思っていたほどだ。
そんなオレが近代食文化研究による『お好み焼きの戦前史』を読んだのは、お好み焼きのことを知りたかったというよりも戦前の大衆食を包括して知りたかったというのがあった。そしてこれが、お好み焼きについて漠然と思っていたことと異なっており、そこそこに楽しんで読むことができた。
まず「お好み焼きを歴史」を遡るなら、それは江戸時代の「文字焼き」にたどり着くことになる。この文字焼き、今の”もんじゃ焼き”とは別物で、屋台で焼かれる子供用の駄菓子だった。これは熱した鉄板の上に水で溶いた小麦粉を垂らし、様々な絵を描いて焼き上げたおやつであった。しかし明治に入って鋳物技術が発達、鯛焼きや人形焼が流行ったことで文字焼き屋台は逼迫する。同時期、やはり大いに流行することになった洋食屋台にヒントを得た文字焼き屋台は、今度は”溶いた小麦粉を焼いた洋食のパロディのような食べ物”を生み出す。それがお好み焼きであるという。
お好み焼きにソースとキャベツが使われるのは、これは”洋食のパロディ”だからなのだ。例えば大正時代のお好み焼き屋のメニューには「天婦羅」「寄せ鍋」「カツ・フライ」「オムライス」「焼売」などといったお品書きがあるが、これは全てそれらの料理の形態を真似た、本物とは似て非なる”お好み焼き”なのである。「お好み焼きとはそもそもなにかというと、鉄板と水溶き小麦粉を使って、和洋中様々な料理を形態模写したものなのである。(本文より)」
そして実はこれらお好み焼きの発展は全て明治時代の東京で起こったものであり、そこから全国に派生したのは大正になってからなのである。すなわち、一見本場のように扱われる広島や関西などのお好み焼きは、そもそも東京からもたらされたものなのだ。また、鉄板+油+ソースというフォーマットに中華そばが加わることで焼きそばが生まれることになった。一方、駄菓子屋で生き残った文字焼きは、お好み焼きのキャベツとソースが導入されることによりもんじゃ焼きへと発展する。これは昭和に入ってからであり、実はもんじゃ焼きはお好み焼きの後発なのだという。