サラ・ピンスカーのSF短編集『いずれすべては海の中に』が優れモノ揃いだった

いずれすべては海の中に/サラ・ピンスカー (著)、市田泉 (訳)

いずれすべては海の中に (竹書房文庫)

最新の義手が道路と繫がった男の話(「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」)、世代間宇宙船の中で受け継がれる記憶と歴史と音楽(「風はさまよう」)、クジラを運転して旅をするという奇妙な仕事の終わりに待つ予想外の結末(「イッカク」)、並行世界のサラ・ピンスカーたちが集まるサラコンで起きた殺人事件をサラ・ピンスカーのひとりが解決するSFミステリ(「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」)など。 奇想の海に呑まれ、たゆたい、息を継ぎ、泳ぎ続ける。その果てに待つものは――。静かな筆致で描かれる、不思議で愛おしいフィリップ・K・ディック賞を受賞した異色短篇集。

アメリカのSF作家、サラ・ピンスカーの短編集。サラ・ピンスカーの作品には初めて触れるが、これはめっけものだった。

ピンスカーの作品は一見ありふれた日常から始まり、そこにひどくなにげなくSF的なイリュージョンが混入してゆく、といったスタイルだ。そしてそのSF的なイリュージョンが、異物としてではなくそれすらもひとつの日常であるかの如く淡々と語られてゆき、物語は作られたような結末を迎えることなくふわっと終わってしまう。ピンスカー作品はこの強固で揺るぎない、しかしどこか数ミリずれたような日常を(それは既に非日常なのだが)垣間見せる部分が秀逸だ。

「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」は片腕がサイボーグになった少年のお話だがメインは青春ドラマ。「そしてわれらは暗闇の中」は「生まれていない筈の赤ん坊を幻視してしまう」物語だがティプトリー的な味わいがいい。「記憶が戻る日」は退役軍人の物語だと思って読んでいると次第に挿入される微妙な違和感に「えっ?」と驚かされる。「いずれすべては海の中に」は海難に遭った女の話だと思って読んでいると世界が何かおかしいことに気付かされる。

「彼女の低いハム音」は「ロボットお祖母ちゃん」の話だが基本は家族ドラマだ。「死者との対話」、「深淵をあとに歓喜して」は「悪い物語ではないがこれのどこがSFなんだろう?」と思って読んでいると最後にあっと驚かされる。同じ流れにある「イッカク」などはそのきめ細やかな心理描写からもはや「スリップストリーム文学の名作」と位置付けてもいいのではないか。「オープン・ロードの聖母様」は近未来のロックミュージシャンの物語。「孤独な船乗りはだれ一人」は唯一のファンタジイ作品だがピンスカーはファンタジイを書かせても秀逸な事を印象付ける。

一方「風はさまよう」は「世代宇宙船(他星系へ移民するためにその長大な期間を乗員たちが巨大宇宙船の中で何世代も掛けて生活する、いわゆる「冷凍睡眠」の存在しない恒星間航法)」というストレートなSFアイディアの作品だが、基本となるテーマは「その宇宙船の中で全ての文化的情報が破壊されてしまったら?」というものだ。ここでは全ての乗員一人一人が「語り部」となって自らの知る音楽、文学などの文化を継承しようと努めるのだ。世代宇宙船というありふれたSFアイディアにこの切り口を持ってくる部分で斬新だ。

ラスト「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」は多次元世界を訪問することが可能になった世界を描くが、設定がかなりぶっ飛んでる。物語では多次元世界のあらゆるサラ・ピンスカー(そう、作者!)が一堂に会するコンベンションが行われるのだが、そこで殺人事件が起こるのだ。そしてその容疑者となるのは全員サラ・ピンスカーなのだ!これはSFミステリ・ジャンルに巨大な一石を投じちゃった作品と言えるのではないか。いやしかしなにこの着想!?

 

東京藝術大学大学美術館に特別展『日本美術を紐解く―皇室、美の玉手箱』を観に行った

東京藝術大学大学美術館に行ってきた

先週の金曜日は会社に夏休みを貰ってまたもや美術展に行ってまいりました。休暇貰って美術展って、オレってシブくないっすか(自己満足)。行ったのは東京藝術大学大学美術館で開催されている特別展『日本美術を紐解く―皇室、美の玉手箱』。

《展覧会概要》本展は、宮内庁三の丸尚蔵館が収蔵する皇室の珠玉の名品に、東京藝術大学のコレクションを加えた82件の多種多様な作品を通じて、「美の玉手箱」をひも解き、日本美術の豊かな世界をご覧いただくものです。代々日本の文化の中心に位置して美術を保護、奨励してきた皇室に伝わる優品の数々は、特筆すべき重要な存在です。

黒歴史ではありますがオレは高校卒業後、アートを学ぶ学校に入学したいなあと思い、結局は益体もない美術専門学校にしか入学できませんでしたが(しかもそれも中退)、そんなオレにとって東京藝術大学って憧れの的みたいな学校でしたね。もちろん東京藝大なんて高嶺の花で、入学できる程の技量も学力もありませんでしたけどね。しかし附属美術館とはいえ、この歳になってそんな東京藝大の門をくぐることになるとは思いもよりませんでした。人間長く生きてみるものですね。

その東京藝大ですが、上野が所在地だったんですね。そんなことも知りませんでした。それにしても上野は美術館や博物館が本当に沢山あって、さらに広大な公園と動物園まであるんですから、最近のオレにとって夢みたいな場所になりつつあります。当日は午前中に出かけたのですがあいにくの雨で、そんな中、東京藝大では学園祭が開かれており、美術館の前も結構の人だかりでした。この辺りにいる若い人たちの何人かは藝大生なんだろうなあ、と思うとちょっと甘酸っぱい気持ちになってしまいました。

さて今回の『日本美術を紐解く―皇室、美の玉手箱』、なにしろ日本美術が中心の展覧会となります。とはいえ、オレは西洋絵画なら人並み程度の知識はあるのですが、これが日本美術となるとチンプンカンプンだったりします。しかし最近あちこちの美術館に行くことが増え、そこで展示されている日本美術に接してみるとそれなりに作品の良さが分かってきて、今回の美術展もとても楽しみにして行ってきました。

特に観たかったのは、チラシを飾る鶏の絵だったんです。なんだか物凄くヴィヴィッドじゃないですか?とか言いつつ、観に行くまでこれがかの有名な伊藤若冲の絵だという事すら知らなったという、日本美術知識ゼロのオレでありました!そして!今回の展覧会で公開されいていた10幅にのぼる伊藤若冲の絵が!もう!大変に素晴らしかった!というわけでその伊藤若冲の絵を含めた今回の展示で気に入った作品を並べてみたいと思います。

伊藤若冲動植綵絵

伊藤若冲(1716-1800)の《動植綵絵》は1757~1766年頃にかけて製作された全30幅に及ぶ若冲畢生の大作であり、日本の花鳥画の最高傑作のひとつと呼ばれる作品群です。永らく京都の相国寺に収められていましたが、1889年に宮内庁に献上され、現在重要文化財/国宝となっています。(参考:動植綵絵|宮内庁 三の丸尚蔵館 The Museum of the Imperial Collections, Sannomaru Shōzōkan)今回の展覧会ではそのうち10幅が公開されていますが、さらにその中から気に入った4幅を並べてみます。

向日葵雄鶏図

紫陽花双鶏図

池辺群虫図

芦雁図

 

その他の展覧作品

その他にも屏風絵や置物、掛け軸、油彩などの日本美術が公開されていましたが、これらの作品の中で気に入った何作かは、ネットで探しても図像が存在していなかったりするんですね……。ネットって便利なようで意外と不便ですね。それでも探し出せた幾つかの作品の図像を並べてみます。

太平楽置物》海野勝珉 (1899)

《宮女置物》旭玉山 (1901)

《七宝四季花鳥図花瓶》並河靖之 (1899)

《牡丹孔雀図》円山応挙 (1776)

 

ブラッド・ピット主演のハチャメチャ・バイオレンスアクション『ブレット・トレイン』がとっても楽しかった!

ブレット・トレイン (監督:デビッド・リーチ 2022年アメリカ・スペイン・日本映画)

最初は楽なミッションだった筈なのに!?日本が誇る高速旅客列車・新幹線を舞台に、ブラッド・ピット扮するくたびれ気味の殺し屋が、次から次へと現れる殺し屋と戦う羽目になる!?という映画『ブレット・トレイン』です。出演は『キック・アス』シリーズのアーロン・テイラー=ジョンソン、『ラストサムライ』の真田広之らの他に豪華なカメオ出演があるのでお楽しみに!原作は伊坂幸太郎『マリアビートル』、監督を『デッドプール2』のデビッド・リーチがつとめます。

いつも事件に巻き込まれてしまう世界一運の悪い殺し屋レディバグ。そんな彼が請けた新たなミッションは、東京発の超高速列車でブリーフケースを盗んで次の駅で降りるという簡単な仕事のはずだった。盗みは成功したものの、身に覚えのない9人の殺し屋たちに列車内で次々と命を狙われ、降りるタイミングを完全に見失ってしまう。列車はレディバグを乗せたまま、世界最大の犯罪組織のボス、ホワイト・デスが待ち受ける終着点・京都へ向かって加速していく。

ブレット・トレイン : 作品情報 - 映画.com

お話の方はザックリ言うなら、ヤクザ同士の抗争に家族までをも巻き込みながら、流血と死体が果てしなく乱れ飛ぶ!といったもの。その抗争が東京→京都間の新幹線を舞台の中心としながら、あんな殺し屋やこんな殺し屋が次々と登場し、手を変え品を変えながら血塗れバイオレンスが花開き、腹の読み合い騙し合いが渦を巻く!という、「ジェットコースタームービー」ならぬ「超特急列車新幹線ムービー」となっているんですね!血腥いお話ではありますが展開はコミカルでありコミックタッチであり、その荒唐無稽さが楽しい作品となっています。そのテイストは言うならば「ポップで陽気なタランティーノ」「クセの無いマイルドなガイ・リッチーといったところでしょうか!

この作品、まず主演のブラッド・ピットが実に素晴らしい!今年公開された『ザ・ロストシティ』でも助演という形ながら相当オイシイ役をつとめていましたが、今作では最初から最後までみっちりと楽しく愉快なブラッド・ピットを味わい尽くすことができるんですよ。今作のピットさん、殺し屋という役柄ではありますが、特にキレッキレのキャラという訳でもなく、むしろ予想もしなかったアクシデントの連続に、半分うんざり、半分涙目になりながら対処してゆくという、なんだか気の毒な殺し屋を演じてくれています。

また、単なるバイオレンス・ムービーなだけではなく、ピットさん演じるレディバグが「悪運を呼ぶ男」という設定になっている部分で実に秀逸なシナリオを見せてくれるんです。レディバグは腕の立つ殺し屋というよりは、彼が呼んだ「悪運」により、襲い掛かってくる敵の殺し屋が結果的に撃退されることになるんですよ。このどこかピタゴラスィッチ的な展開がユニークであり技ありの作品なんですね。一方「幸運を呼ぶ女」なんて方も出てきて、その対比もまた面白いですね。さらに付け加えるなら真田広之の素晴らしさは一見の価値があるでしょう!

もうひとつこの作品を面白くしているのは何と言ってもハリウッド作品名物「変なニッポン」の風景でしょう。なんたってまず、東京から京都に行くのになぜ品川・新横浜経由なんですか。いえ、間違いを指摘したい訳じゃない(指摘してるけど)、このインチキさが可笑しくていいんです。あと謎のぬいぐるみキャラ、モモもん!まあ日本ってこういうの大好きではありますが、「でもなんか変……」という気がガンガンする!それとかいつも流れている雅楽の音。いったいどこから流れてくんだよ!新幹線自体があり得ない仕様になっていて、これは間違いというより「知っててやってんだろ!」という確信犯の匂いがしますよね。こういったあれやこれやの「変なニッポン」がなんだかくすぐったくて、そこがまた楽しい作品でした。

 

 

フランス文学探訪:まとめとして

4月から続けてきたブログ企画「フランス文学探訪」は前回ブログで更新したA・デュマ『モンテ=クリスト伯』で一応の最終回とした。「一応」と書いたのは別にこれでフランス文学を読まないという事ではないからだ。そして「一応の最終回」にしたのはフランス文学以外にも読みたい本がたいそう溜まってきたからである。

実はこの企画を思いつき実際にフランス文学を読み始めたのは去年の暮れからであり、つまりは10ヶ月間ほどフランス文学以外の本を読んでいなかったのである。例外としてSF小説三体X』だけは読んだ。あれはSF界のビッグウェーヴだったので読まないわけにはいかなかったのだ。この間読んだフランス文学は25作、副読本として3冊の文学・歴史関係の本を読んだ。最大のヴォリュームだったのはやはり『モンテ=クリスト伯』の全5巻だったな。

本など好きな時に好きなものを読めばいいのだろうが、しかしそればかりやっているといつもお馴染みのジャンルばかりが占めることになり、読書としては楽なのだが幅が広がらないことは感じていた。別に幅を広げる義務などないのだが、今回の古典文学のような「お馴染みではないジャンル」にも興味がないわけでもなく、ただ取っ掛かりが無くてなかなか手を付けられなかったのだ。さらに企画を思いついた去年の暮れごろ、それまで読んでいたSF小説がどうにもつまらなく感じてきていて、そろそろ趣旨替えの頃なのかな、と思っていたのである。

今回フランス文学を選んだのは一番最初にブログ更新した記事「フランス文学探訪:序というかなんというか」にその理由を記したが、もう一度書くならフランス人作家ミシェル・ウエルベックに心酔していたこと、さらに「フランス人の心性」というものがよくわからなかったので、その源流を文学に見出してみようかと思ったからだった。

なぜ「フランス人の心性」などに興味があったのかというと、オレは映画好きなのだが、フランス映画を観るたびに「こいつらの考え方や感じ方がよく分からない」と途方に暮れる事が多々あったからだ。しかしこうして20作余りのフランス古典文学を読み、さらにフランスの歴史を扱った本まで読んだが、それにより「フランス人の心性」が分かったかというと、うむむ、と言葉を濁さざるを得ない。これはオレの読解力の貧困さゆえなのだろう。結局まだまだ精進が足りないのらしい。

この「フランス人の心性」についてはずっと以前から興味があり、今回の企画自体も、実はかねてから尊敬していたブロガーであるfinalvent氏が随分前にTwitterで「フランス人の心性が知りたかったらこれらの本を読みなよ」と3冊の本を挙げていたことまで遡るのだ。その本はアランの『幸福論』、デカルトの『方法序説』、パスカルの『パンセ』であった。オレは早速その3冊を購入したが、にもかかわらずその後数年間積読状態であり、今回この企画を開始したのも、「ついでにこの3冊も読んじゃえ!」と思ったからなのである。

とはいえ分からないなりにうっすら認識できた「フランス人の心性」は、「強烈なパッション」と、それとは裏腹の「ゴリゴリの理屈っぽさ」という、奇妙なアンビバレンツにある国民性だな、ということだった。あと付け加えるなら「個人主義的な独立独歩性」、「美意識にうるさい享楽的な見栄っ張り」か?世界にある様々な国で、そのどれかが当てはまる国民性を持った国はあるにせよ、それらがないまぜになった国民性を持つのはフランスぐらいのものではないか。そしてこうしたないまぜとなった国民性であるからからこそ、一見分かり難い心性を持ったもののように見えてしまうのではないか……とまあここまで考えたが正解のような気がしない。

今回はいわゆる小説のみにとどまらず、詩、戯曲、随想集も読んだのだが、さらに思想哲学に関する著作も読むことになった。「フランス文学」を読むのが動機であったものに、どうして思想哲学が入り込むのか?と思われた方もいらっしゃるだろう。最初の頃に読んだ『フランス文学案内』の序文に「フランス文学は人間に関する連続講演であり、人間学の教程である」とあったが、人間の精神とその魂への限りない関心がフランス文学であるとすれば、小説と思想哲学は不可分のものであり、その総体がフランス文学なのだ、という解釈で溜飲が下がるだろうか。

そんな訳なのだが(どんな訳だ)、とりあえず「まとめ」としてこれまでこの企画で読んだ本とその記事を並べておく。なにかの参考にしていただけば幸いである。

フランス文学探訪:序というかなんというか - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その1/サン=テグジュペリ『星の王子さま』、カミュ『異邦人』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その2/モーパッサン『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、フローベール『ボヴァリー夫人』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その3/ラディゲ『肉体の悪魔』、メリメ『カルメン、タマンゴ』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その4/プレヴォ『マノン・レスコー』、コクトー『恐るべき子供たち』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その5/モリエール『ドン・ジュアン』、『人間嫌い』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その6 /ジッド『狭き門』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その7/ラクロ『危険な関係』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その8/バルザック『ゴリオ爺さん』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その9/スタンダール『赤と黒』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その10/モンテーニュ『エセー 抄』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その11/『ラ・ロシュフコー箴言集』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その12/ ルソー『孤独な散歩者の夢想』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その13/ラシーヌ 『フェードル、アンドロマック』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その14/『フランス名詩選』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その15/サルトル『嘔吐』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その16/ロブ=グリエ『消しゴム』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その17/アラン『幸福論』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その18/デカルト『方法序説』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その19/パスカル『パンセ』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

フランス文学探訪:その20/A・デュマ『モンテ=クリスト伯』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

 

フランス文学探訪:その20/A・デュマ『モンテ=クリスト伯』

モンテ=クリスト伯 (講談社文庫版・全5巻) /アレクサンドル・デュマ・ペール(著)、新庄嘉章(訳)

モレル父子商会の帆船の若い船長候補エドモン・ダンテスは、同僚のダングラールと恋敵のフェルナンの陰謀により、美女メルセデスとの婚約披露宴の席で逮捕され、無実の罪でイフ城の牢獄へ……。ナポレオン没落後の激動の社会を背景に、燃える正義感と鉄の意志で貫かれた男の波瀾の人生を描いて、万人の血を沸かす、大デュマ、不朽の名作の完訳決定版。

あれやこれやのフランス文学を読みブログに感想文を書く「フランス文学探訪」という企画を4月から続けてきたが、今回がとりあえずの最後となる。いわゆるグランドフィナーレというヤツである。そして最後に読むフランス文学として用意していた作品は、アレクサンドル・デュマの大長編『モンテ=クリスト伯』となる。

アレクサンドル・デュマ(大デュマ:1802-1870)。今回紹介する『モンテ=クリスト伯』をはじめ『三銃士』『王妃マルゴ』など、フランスのみならず世界文学史に燦然と輝く名作を残してきた19世紀の作家である。『モンテ=クリスト伯』は1840年代に新聞連載小説として発表され絶大な支持を受け、デュマを人気作家として不動の地位に付けた作品なのだという。そしてその内容は一人の男の復讐の物語なのだ。本作は日本でも様々な訳出本が出版されているが、今回読んだのは新庄嘉章訳による講談社文庫版全5巻のものとなる。

物語の序幕となる舞台は1815年、ナポレオン失脚間もない王政復古時代のフランス。将来を嘱望され順風満帆の人生が待っていたはずの主人公エドモント・ダンテスは、結婚式のその日、突如逮捕される。それは彼の成功と幸福を妬み、その存在を邪魔に思っていた3人の男たちの邪な奸計によるものだった。終身刑を言い渡され監獄島に幽閉されたダンテス。幸福の絶頂から地獄の如き絶望へ。だが暗黒の中に捨て置かれたダンテスは収容所で一人の牧師と出会い、広範な知識と莫大な財宝の在り処を託される。14年の時を経て脱獄に成功したダンテスは燃え盛る復讐の念を胸にパリへと向かう。その名を「モンテ=クリスト伯」と変えて。

本作の中心となるのはダンテスを陥れた3人の男への復讐である。しかしそれは単に死を持って購う謀殺といった単純なものではなく、真綿で首を絞めるが如き計略により相手を出口無しの完膚無き絶望の底へと陥れるといった形でだ。ダンテスは3人の男たちに直接にではなくその職務や家族たちを利用しながら、どこまでも用意周到に搦め手で攻略を仕掛けてゆく。ダンテスは監獄島の牧師から譲り受けた小国一つの資産にも匹敵する莫大な財産を徹底的に利用し、「パリに出没する謎の大金持ちモンテ=クリスト伯」としてそれらに手を下してゆくのだ。

大部の紙数となる本作ではこれら復讐の行方を追いながら、「ダンテスを陥れた3人の男たち」の家族の様々な人生模様が描き出され、それにより幾つもの小さなドラマが生み出されることになる。それはロマンスであったりサスペンスであったりミステリであったりといった形でだ。それらドラマは最初横道を逸れた小話のように思わせながら、実はダンテスが青写真をひいた遠大な計画により巧妙に操られたものとして本筋に吸収されてゆく。なにより本作を傑作中の傑作たらしめているのは、過不足なく絶妙なバランスで配された、この類稀なる構成手腕そのものにあると言っていい。

それはこの作品が新聞連載小説であったことがひとつの理由となるだろう。細かな物語の展開は長大な紙数を飽きさせずに読み続けさせる効果を生み、尽きせぬ興味を持たせながら終端へとページをめくる手を止めさせないのだ。そしてこういった構成の完成形にして決定版を19世紀の古典文学として確立させている部分に、この作品の偉大さと重要さとがあるのだ。いわゆる名作古典文学ではあるがその内容は親しみ易い大衆娯楽作品であり、復讐と言う卑俗なテーマは誰にでも分かり易く、この21世紀でも、そしてこの後の時代にも語り継がれ読み継がれる物語であることは間違いないだろう。

そして本作の真に素晴らしい部分は、これが単なる復讐の物語で終わるものでは決してなく、一人の人間の魂の遍歴とその数奇な運命とを、鮮烈な筆致で描き上げた点にあると言っていい。復讐という暗い情念に憑りつかれ、冷徹な計画を遂行する復讐者として生きるダンテスが、クライマックスにおいて己の行動が果たして正しかったのかと逡巡し、それまで決して現さなかった感情を爆発させるシーンがある。それは彼を死んだと思い、彼を陥れた男と結婚してしまったかつての婚約者、メルセデスにその正体を告げるシーンだ。ここでダンテスは己が身にまとっていた復讐の暗い闇をかなぐり捨て、失った愛に呻吟し、全ての計画を止めようとすら決意するのだ。それは人間性とは何か、モラルとは何なのかについてテーマが舵を切った瞬間である。この一瞬の変転の中にこそ、この物語の真意があるのだ。