フランス名詩選/安藤 元雄(編)、渋沢 孝輔(編)、入沢 康夫(編)
15世紀のヴィヨンから,19世紀のボードレール,マラルメ,ヴェルレーヌ,ランボー,さらにジャム,ヴァレリー,アポリネール,そして現代に続くブルトン,コクトー,プレヴェール-日本でも多くの愛好者を持つフランス詩の豊饒の世界を最適の編訳者を得て1冊に収める.年代順に約60人,100篇を精選,原詩と日本語訳を対照.
詩である。ポエムである。フランス語だとポエジーである。「フランス文学探訪」ということであれやこれやとフランス文学を斜め読みしてきたが(不埒な発言)、いよいよ詩を読むことになったのである。なんでも詩こそはフランス文学の精髄であるのらしい。とはいえ、詩。フランス詩に限らず、詩自体、なかなか読み慣れたものではない。以前も書いたがオレは普段SFとかホラーとかなんかそーゆーものばかり読んできた人間なんだ。それがいきなり、詩。ううむ、どうしてくれよう。
とまあグダグダ言っていても何も始まらない。それに「詩は読み慣れない」とは書いたが、そういえば、ロック・ミュージックの詩なら、それなら馴染みがある。オレは洋モノしか聴かないのだが、ロックの詩はたまさか心に突き刺さるものがある。英語の苦手なオレではあるが、気に入った曲は訳詞を調べたり、自分で訳して意味を知ろうとしたこともあった。ああなんだ、詩というものに対して、本当は抵抗なんかないじゃないか。詩というものの素晴らしさを、ちょっとは知っているんじゃないか。でも頭に「文学」と付いちゃうから、ちょっと取っつき難かったのだな。
ところでここで唐突に告白するが、オレは若い頃、10代から30代ぐらいの頃まで、詩を書いていた。詩人だったのである。自称だが。高校生の頃は文芸部に在籍しており、そこで詩を発表していたりしていた。それらの詩は大学ノート数冊に書き殴られており、今でも押入れの最深部に隠匿された段ボール箱の暗くどこまでも深い奥底に眠っているのである。なぜなら黒歴史だからである。ナイーブ(草)でセンシティブ(草)だった当時のオレ(草)のひたすら情けない泣き言がこれでもかこれでもかと書き連ねられているからである。
とはいえこれが捨てられない。あれから数十年経った今でも隠し持っているのだから、多分墓場まで持っていくつもりなのだろう。決して誰に見せることもなく(まあ見せるつもりもないし見せられるようなものでもないが)。なぜなら、例えどれだけ情けないものであっても、しかしそれらの詩は、あの頃のオレのどこまでも生々しい心情の、その密かな記録だからである。それはどうにも惨め極まりないものではあるにせよ、それでも、あれから今に至るオレという人間の、エートスともなるものだからなのである。
全然『フランス名詩選』に触れられないのだが、というのも、詩というものは感想を書き難いものだからだ。美しいとか心を揺さぶるとかいかほどにも書けはする。しかしそれ以上となると、フランス詩というものの、その構造や韻律といったものに対する知識の無さ、(オレはフランス語が読めないので)原文にあるのであろう詩のリズム感が想像できないことなどから、真にフランス詩を理解できていないであろうと思えてしまうのだ。
そもそもフランス語のリズムと韻律で書かれた詩を日本語に訳す部分で相当の要素が抜け落ちてしまう。なぜならリズムや韻律こそが詩にとって最重要なものであろうからだ。もちろん本書の翻訳者はフランス語のエキスパートであろうし、そういった事情を熟知したうえで日本語として読める最高級の翻訳をなさっているのだとは思う。それでも、やはりちんぷんかんぷんな詩は多くあり、それはもはや翻訳者の手腕ではなくオレの知識と読解力と詩的フィーリングの足りなさとしか言いようがないからだ。
とはいえ、そんなオレですら感銘を受けた詩も相当数あった。それはやはり日本でもよく知られる有名な詩人の作品に多かった。ヴィクトル・ユゴー。力強かったぞ。シャルル・ボードレール。鬱蒼としていたな。ポール・ヴェルレーヌ。風雅であった。アルチュール・ランボー。こいつ、ロックじゃないか!ポール・ヴァレリー。情熱的だな。ギヨーム・アポリネール。心が洗われた。ジャン・コクトー。クールだぜ。ジャック・プレヴェール。なんか可愛い。ポール・エリュアール。そう、オレでも知っているあの有名なフランス詩『自由(リベルテ)』だ!
……とまあ並べてみると、どうやら結構楽しんで読んでいたようである。なお本書はフランス原文と翻訳文とか横書きで見開き両ページに掲載されており、両方を対比しながら読むことができる体裁となっている。まあなにしろオレはフランス語は読めないのだが、それでも、「オレは今フランス語を眺めているぜウシシ」などと謎の虚栄心を感じていたのであった。すまん、人間が小物なんだ、すまん。