スティーヴン・キングの長編小説『ビリー・サマーズ』はクライム・ノヴェルの堂々たる傑作だった

ビリー・サマーズ(上・下) / スティーヴン・キング(著)、白石朗(翻訳)

ビリー・サマーズ 上 (文春e-book) ビリー・サマーズ 下 (文春e-book)

狙いは決して外さない凄腕の殺し屋、ビリー・サマーズ。そんなビリーが、引退を決意して「最後の仕事」を受けた。収監されているターゲットを狙撃するには、やつが裁判所へ移送される一瞬を待つしかない。狙撃地点となる街に潜伏するための偽装身分は、なんと小説家。街に溶け込むべくご近所づきあいをし、事務所に通って執筆用パソコンに向かううち、ビリーは本当に小説を書き始めてしまう。 だが、この仕事は何かがおかしい……。ビリーは安全策として、依頼人にも知られぬようさらに別の身分を用意し、奇妙な三重生活をはじめた。そしてついに、運命の実行日が訪れる――。

その1:ネタバレ無し感想

スティーヴン・キングが『異能機関』(2019)に続いて書き上げた長編小説『ビリー・サマーズ』(2021)はホラー小説ではなく、「ビル・ホッジス3部作」の如きクライム・ノヴェルとなっている。物語の主人公は凄腕の殺し屋ビリー・サマーズ。「悪人の殺ししか請け負わない」とうそぶく彼は引退を決意し、最後のミッションの為にある町に潜伏する。そこでビリーは一般人に溶け込むため小説家を自称するが、実際に小説を書き始めると妙に乗ってきてしまい……というのが冒頭の流れになる。

この設定とその後の展開は奇妙にユーモラスだ。偽名と偽の身分で郊外に居を構えながら、次第に近所の住人たちに受けいれられ、あまつさえ好人物として好かれだすのである。ホントは殺し屋なのに!もとより冷酷な殺し屋というわけでもないビリー、そんなご近所付き合いを愉しんだりしているのだ。ホントは殺し屋なのに!おまけに殺しの下準備をしつつも、今現在書いている”小説”が気になってしまい、「今日はこの辺りを書こうか……」などと思案しているのだ。ホントは殺し屋なのに!

ここでビリーが書き始める”小説”とは、己の自叙伝である。それは痛ましい記憶に満ちた不幸な少年時代に始まり、やがて成人し兵士となってイラク武装勢力との戦いに身を投じ、そこで凄惨な戦闘を潜り抜けていくというものだ。この”自叙伝”は物語と同時進行しながら作中に散りばめられることになる。ビリーがどのような人生を歩み、どのような心の傷を抱えながら、どのように殺し屋となっていったのかが描かれるのだ。こういった形で主人公のキャラをしっかり肉付けし、陰影を持たせてゆく筆致はさすがだ。

さらにある事件が引き起こされることで、少年時代の”痛ましい記憶”が現在と重なり合う。そしていざ殺しのミッションが進行し始めると、”イラク時代の凄惨な戦闘”が現在とダブってゆく。つまり、自叙伝を書かせることで主人公キャラの肉付けをするだけではなく、過去の記憶と現在とを重ね合わせながら、その過去における悔恨や心の痛みを昇華しようとしてゆく、という展開を見せるだ。この辺り、非常に高い構成力を感じさせ、その複雑さからはキング版クライム・ノヴェルの深化と完成形を見て取ることができる。

なにしろ実は、「小さな町に作家のフリをしながら潜伏して殺しの準備」というシークエンスは上巻半ばで既に終了してしまい、そこから《思いもよらぬ展開》が始まってしまうのである。これには相当驚かされた。そして物語は全く先が読めないまま、全てが怒涛となってクライマックスへと突き進んでゆくのである。いやあここまでラストが気になって仕方のなかったキング作品は初めてかもしれない。これがホラーなら怪異に結末を付けて終わりだろうし、「ビル・ホッジス3部作」辺りのクライム・ノヴェルなら犯人と対決して終わりになるだろう。しかしそうではないのだ。それだけの物語では決してなかったのだ。

ここには眩いばかりのエモーションと、なけなしの愛と、ささやかだが強烈な人間の絆が描かれていた。作家生活50年にしてまたもやここまでの高みにある作品を書き上げるキングの丹力には感服しかない。これはキング作品としてだけでなく、クライム・ノヴェル・ジャンルの作品としても相当に完成度が高いと言えるだろう。物語展開は幾多のクライム・ノヴェル作家の作品と比べても何ら遜色なく、ひょっとしたらキングはホラー小説界のみならず犯罪小説界までも席巻しようとしているのか!?と思わされたほどだ。

それとこの物語、キングの「とあるホラー作品」と地続きになった世界であることがさりげなく触れられている。もちろんこの『ビリー・サマーズ』は全くの非ホラーだが、こういった読者へのクスグリも楽しい作品だった。

……という訳で「ネタバレ無し感想」はここまで、書影を挟んでから下は「ネタバレ感想」が続くのでご注意を。

その2:ネタバレ感想

さて《思いもよらぬ展開》とはなにか。

『ビリー・サマーズ』の物語は途中、ある娘の登場によりがらりと趣を変えることになる。その娘アリスは、男たちに凄惨な暴行を受け、雨の中に捨て置かれていた。ビリーは殺しを終え、逃走準備をしていたのにも関わらず、この娘を救い、潜伏先の家で看護することを選んでしまうのだ。誠心誠意看護したビリーを、アリスは殺し屋と知りながら信用し、あまつさえ彼の逃走に付き従おうとする。アリスは忌まわしい記憶に満ちた町やそこでの人間関係を捨て去りたいとも思っていたのだ。

この辺りの展開は、説得力としてはスレスレかなとは思えた。いくら手厚く看護されたからといって殺し屋を信頼するだろうか。いくら惨い暴行を受けたからといって、町での生活を、しいてはおのれの存在そのものを全て捨て去りたいだろうか。ビリーはアリスに暴行をはたらいた男たちを突き止めアリスに代わって報復し、それで信頼が生まれたとする流れだが、この辺の心理の流れに疑問を感じた。逆に女性はこの場面に対してどう感じるだろう?という興味が沸く。

このビリーとアリスとの関係は、映画『レオン』におけるレオンと少女マチルダとの関係や、映画『マイ・ボディーガード』における特殊工作員クリーシーと少女ビタとの関係に似ているかもしれない。また、キング小説『ドクター・スリープ』においても、主人公である中年男ダンと超能力少女アブラという組み合わせが存在している。

脛に傷持つ屈強な戦士(ダンは草臥れ男だが)といたいけな少女とのアンバランスな組み合わせは、そのアンバランスさゆえに物語に独特の情緒をもたらす。そこには性愛は存在せず、無垢な者を守りたいという思い一つで男は戦場へと赴くのだ。同時に少女は少女で、その戦いに加担しようと男に手を差し伸べる。それはこの『ビリー・サマーズ』の物語も同様だ。しかしこの『ビリー・サマーズ』では、ビリーがアリスを守ろうとした理由がもう一つある。それはビリーが幼い頃、家庭内暴力で亡くした妹への無念を抱えていたことにあった。

こうして物語は中盤から殺し屋とうら若い娘との修羅の旅を描くこととなる。同時にそれはビリーの過去の無念を濯ぐ旅であり、アリスにとっては蹂躙された心身を癒すための旅でもあった。それはお互いがお互いの存在により魂の再生を図ろうとする行為だったのだ。

二人の関係は男女の愛未満のものではあるが、それでも微妙に危うい部分で感情は揺れ動いている。このいわば「寸止めの美学」ともいえる描写が実に切ない。しかし二人はこの関係を永遠に続けるわけにはいかない。殺し屋と一般人の娘では世界が違うからだ。ではどうするのか、どうするべきなのか?こうして「殺し屋が小説を書く」ことから始まった物語は、「物語を紡ぐこと」の崇高さを高らかに謳い上げながらラストを迎える。これは小説家スティーヴン・キング信仰告白であったのかもしれない。遂に 「ビル・ホッジス3部作」をも超えるクライム・ノヴェルの傑作までものにしたキングだが、魅力に溢れた登場人物を擁したこの物語、なんとなく続編を期待してしまっている自分がいる。