意識と無意識の領域に切り込んだ怪奇小説『ジーキル博士とハイド氏』

ジーキル博士とハイド氏 /スティーヴンスン (著), 村上 博基 (翻訳)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

街中で少女を踏みつけ、平然としている凶悪な男ハイド。彼は高潔な紳士として名高いジーキル博士の家に出入りするようになった。二人にどんな関係が? 弁護士アタスンは好奇心から調査を開始する。そんな折、ついにハイドによる殺人事件が引き起こされる! 高潔温厚な紳士と、邪悪な冷血漢――善と悪に分離する人間の二面性を追求した怪奇小説の傑作であり、「悪になることの心の解放」をも描いた画期的心理小説、待望の新訳!

最近定番的な古典怪奇小説をぽつぽつと読んでいるのだが、今回選んだのはイギリスの作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンにより1886年に上梓された『ジーキル博士とハイド氏』。これもタイトルだけは有名だがあまり読まれていない小説の一つだろう。翻訳は多数出版されているが、今回もKindle Unlimitedで読める光文社古典新訳文庫で読んでみた。ちなみに作者であるスティーヴンソンはあの『宝島』の作者でもある。

内容については今更述べる事もないだろう。善良な博士ヘンリー・ジーキルが自分自身を実験台にして、自ら開発した薬により邪悪な人格エドワード・ハイドを創り出すという物語だ。いわゆる「人間の二面性」あるいは「二重人格」を描く物語の嚆矢となった作品であり、「ジーキルとハイド」という言葉自体が二重人格を意味するものとして認識されるほどになった。

その後このテーマはスティーブン・キング作品『ダークハーフ』や『シークレットウインドウ』、 チャック・パラニューク作品『ファイトクラブ』、デニス・ルヘイン作品 『シャッターアイランド』でも扱われ、M・ナイト・シャラマン映画『スプリット』ではなんと23の人格を持つ男が登場する。一人の人間の中に別の人格が存在する、というのはやはり不気味であり、人を不安にするものなのだ。

小説それ自体はいわばミステリー的な体裁をとっている。まずは前半。時は19世紀、ロンドンの町にハイドという名の小柄で醜怪な男が徘徊し、道歩く人に暴力をはたらき、遂には殺人まで犯すが、その行方が掴めない。弁護士アターソンは目撃情報からある館を訪ねるが、そこにはジーキルという名の大柄な科学者がいるばかりだった。しかしアターソンはジーキル博士とハイド氏の関係を疑い始めるのだ。

ただし今現在であればもはや「ジーキル博士はハイド氏である」と”ネタバレ”しているので、前半部のミステリー構成は読んでいて退屈なのは否めないだろう。しかし後半、その真相が発覚してからの物語が逆に面白い。それは、そもそもなぜ善良な男ジーキルが、わざわざ薬物を開発してまで邪悪な別人格を持とうとしたのかが明かされるからだ。人は求めて邪悪になりたいなどと思わないはずではないか。

実はジーキル博士は善良な性格でありながらも、自らの中に悪辣な性質もまた存在することを自覚していた。そして彼は薬物によって自らの善と悪を分離することにより、罪悪感なく悪辣な行為を謳歌することを欲してしまったのだ。最初は「表の顔と裏の顔」を使い分け背徳的な生活を楽しんでいたジーキルだったが、次第に「裏の顔=ハイド」が勝手に現れて「表の顔=ジーキル」の日常を飲み込んでしまい、遂には破滅の日が訪れてしまうである。

即ちこの物語は、精神の裡にある鏡像のように相反する二面性をテーマにしたものというよりも、無意識下に抑圧された感情が人為的に顕在化したことによって意識が侵食され、最終的に自我が破壊されてしまう、という物語ではないか。解放された抑圧が破壊的に振舞ってしまったということなのだ。つまりあくまでフィクショナルではあるが、フロイトユングよりも早い時期に意識/無意識の領域に切り込んだ作品だという事ができるのだ。そういった部分においてこれは案外と史上初のサイコサスペンス小説だったのかもしれない。