フランケンシュタイン / メアリー・シェリー (著)、小林 章夫 (翻訳)
天才科学者フランケンシュタインは生命の秘密を探り当て、ついに人造人間を生み出すことに成功する。しかし誕生した生物は、その醜悪な姿のためフランケンシュタインに見捨てられる。やがて知性と感情を獲得した「怪物」は、人間の理解と愛を求めるが、拒絶され疎外されて…。若き女性作家が書いた最も哀切な“怪奇小説”。
「ゴシック文学を代表する6作」の1つである『フランケンシュタイン』
古典名作小説あるあるなのだが、誰もがタイトルを知っているけれども誰も読んだことが無い作品というのは多々ある。ジョージ・オーウェルの『1984年』などもその顕著な例なのだが、今回紹介するメアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』もその1作だろう。有名過ぎる上に映画のイメージが強すぎて敢えて今更読む気にならないのだ。
オレもそんなクチではあったが、以前『ゴシック文学神髄』というアンソロジーを読んだ際、この『フランケンシュタイン』が「ゴシック文学を代表する6作」の1つとして挙げられており、怪奇幻想不条理文学好きの人間としてはやはり避けて通れないのだなと思い、意を決して手に取ってみた。するとこれが、想像を超える周到な暗喩に満ちた素晴らしい作品で、大いに驚かされたのだ。
(なお、翻訳は多々存在するが、今回読んだのは光文社古典翻訳文庫版。理由はKindle Unlimitedで無料だったから……。)
映画作品のイメージとは全く違うフランケンシュタインの怪物像
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読むときは、まず一般的なイメージとして存在する「虚ろな目をして頭のてっぺんが平らで体中にビスと縫い目があり、あーあーと呻くぐらいしか知能の無い大男」の姿を捨て去らねばならない。さらに原作では死体を縫い合わせたりとか、犯罪者の脳を使ったといった描写はない。雷の力で生命を呼び覚ましたりとか、フランケンシュタイン博士にせむしの召使がいたりとかいった描写も全く存在しない。
この「フランケンシュタインの怪物」の一般に流布するイメージは、1931年公開のユニバーサル映画においてボリス・カーロフが演じた姿に準じているのだろうが、原作では全くそういったものではない。ではメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』における”怪物”はどのようなものなのか。
フランケンシュタインによって生み出されたその“怪物“は、高い知性と学習能力を持ち、豊かな感受性を兼ね備え、人間存在への共感に溢れ、非常に饒舌であり、自己とは何か?について深く考察する高度に知的な存在だったのだ。しかし、彼は、ただただ醜かった。目を覆うような異様な姿をしていた。だから彼は嫌悪され、差別され、暴力を受け、世界から排除された。強い感受性を持つ彼がこれにどれだけ悲嘆し絶望したことだろう。
《参考:「小説の描写に基いた怪物のメイクアップ」と「一般的なイメージとして定着したボリス・カーロフの怪物」フランケンシュタインの怪物 - Wikipedia》
アイデンティティとアンビバレンツについての物語
なぜ自分の生はこれほどまでに惨めで理不尽なのか?なぜこれほどまでに悲惨な目に遭い続けなければならないのか?なぜ自分はこの苦痛だけしか存在しない世界に生み出されたのか?これらの苦悩は、自らを生み出した創造主にその全ての責任があるのではないのか?創造主よ、なぜ私を生み出したのですか?私はあなたを呪う、あなたの生の幸福の全てを呪う、この堪え難き苦痛を濯ぐために、私はあなたを破滅させてやろう。
自分は誰で、何者なのか?なぜ自分は生きているのか?というアイデンティティの物語。生の美しさを知りながら、生の最底辺で生きなければならないというアンビバレンツの物語。自分は高次の何者かに創造されたという神学的側面。神の如きその存在を死滅させることで超克した自己を得んとするニーチェ的展開。超自然ではなく科学により生み出された恐怖という近代的ホラー展開の発見。
そして、”怪物”の苦悩とは、それ即ち近代的自我を有する我々自身の苦悩である、という哲学的であり文学的でもある描写。同時にそれは作者自身の苦悩でもある、という部分に於ける心情吐露の側面。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』には、おおよそこれだけの暗喩と直喩が張り巡らされているのである。この多義的に網羅された構成が、怪奇小説という範疇を超え、いかに文学的に画期的なものであるのか。そこにこの作品の大いなる価値があるのだ。
古典怪奇小説の名作
実の所プロット的には綿密さを欠くといった部分で決して完璧な作品ではない。しかし物語に溢れる含蓄の豊かさによりこれは第一級の作品と評して間違いないだろう。なお物語については1994年公開のケネス・ブラナー監督ロバート・デ・ニーロ主演による映画『フランケンシュタイン』が最も原作に近いらしい(観てない)。そして死を覚悟した“怪物”の最期の独白が、映画『ブレードランナー』のロイ・バッティの最期の独白と見事に被っており、「あれはそういう物語だったのか!」と今更ながらに感嘆させられた。
古典小説を読むと、今現在ある物語(小説に限らず映画も含めて)はどこに立脚し、それはなぜこのような形で語り継がれるのかが理解できて面白い。そしてその「なぜ」の部分は人間の生の普遍的な部分に根差しているのだ。