カズオ・イシグロの『日の名残り』を読んだ

日の名残りカズオ・イシグロ (著), 土屋 政雄 (翻訳)

日の名残り (ハヤカワepi文庫 イ 1-1)

品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々-――過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。 英国最高峰の文学賞ブッカー賞受賞作

前回カズオ・イシグロの代表作の一つとされる『私を離さないで』を読んだのだが、どうにも面白さを感じることができず、カズオ・イシグロってこんなものなのか?と思ってしまったのである。オレに合わなかったというのもあるのだろうが、これだけでカズオ・イシグロを評価するのはちょっともったいない気がして、もう1冊著作を読んでみることにした。タイトルは『日の名残り』、1989年に発表された小説で、あるイギリス人執事の回想の物語となっている。

物語は1956年の「現在」と1920年代から1930年代にかけての回想シーンを往復しつつ進めらてゆく。主人公はイギリスの古風な執事スティーブンス。彼は新しい主人ファラディ氏から休暇を与えられ旅に出る。旅の目的の一つは以前の主人ダーリントン卿にともに仕えたミス・ケントン(今は結婚してミセス・ベンになっている)に会いに行くことだった。スティーブンスは旅をしながら、かつてダーリントン卿に使えた日々とミス・ケントンとの思い出に浸り、自分の人生の意味を考えてゆくのだ。

オレは現代イギリス貴族階級の栄枯盛衰を描いたTVドラマ『ダウントン・アビー』がたいそうお気に入りで、このドラマを思い出しながら物語を読んでいた。『ダウントン・アビー』における執事や使用人の描写と、『日の名残り』におけるそれには同じ部分と違う部分があり、そういった点が興味深く感じた。どちらが正しい描写かどうかということではなく、執事と一言に言っても様々な違いがあるという意味での興味深さだ。

主人公スティーブンスはベテラン中のベテラン執事である。日々刻苦精励し、己を錬磨し、常に完璧な業務を成すことを忘れない職人の如き執事である。ただしそういった人物なので、ガチガチにお堅い。四角四面に生真面目な男で、己の業務に奉じるあまりに朴念仁としか言いようにない融通の利かない面を持っている。とはいえ、スティーブンスのそんな木で鼻をくくったような態度はひとつの可笑し味を醸し出し、執事の仕事のみに全身全霊で打ち込む不器用さはそれほど嫌いになれない。

そういったユーモラスな主人公描写と併せ、この物語で描かれるのは執事という職務、そして執事が必要とされる実力者の在り方が、時代の変遷とともに次第に古臭いものとなってゆくといった部分も描かれてゆく。それはタイトル『日の名残り』(原題は「The Remains of the Day」)に言い表される、ひとつの時代、生活様式、ものの価値観の落陽を描いたものでもあるのだ。回想形式の構成はそれを如実に提示することになる。

ただしこれだけだと「かつての栄華を懐かしむ執事のちょっとイイ話」でしかないのだが、深読みするならもっと別のものが浮かび上がってくる。それは主人公スティーブンスの、職務を全ての第一義とするばかりに内包してしまう自己欺瞞だ。スティーブンスは執事の仕事や品格の高さに忠実であろうとするばかりに、人間らしい態度や思いやりを押し込めてしまった男だ。彼の四角四面さは様々な局面で度を越し、結果的に人間性に乏しい行動や態度を見せてしまう。

それは父の死の局面や、彼に思慕を抱く女中頭ミス・ケントンへのつれない態度に顕著だ。長年仕えたダーリントン卿が第二次世界大戦前夜にナチスドイツと関係し始めた時も「主君を信じている」の一点張りで何一つ意見を持とうとしない。それが執事の責務であるといえばそれまでだが、結局これは思考放棄に他ならないのではないか。自己=仕事でしかない人間の陥穽がここにある。

仕事は決められたルールに則りそれを余すところなく実行し完遂すれば善しということになるのだろうけれども、人間の心はルールで固定されたものではなく、その時その時の機微が必要な筈だ。それが理解できない、受け入れようとしない主人公スティーブンスは単に心の無いロボットではないか。物語はそんなスティーブンスを否定も肯定もすることなく描くが、哀愁のこもったラストこそがスティーブンスという男の人生に対する回答になっているように思えた。