カポーティの中短編集『ティファニーで朝食を』を読んだ

ティファニーで朝食をトルーマン・カポーティ(著)、村上春樹(翻訳)

ティファニーで朝食を(新潮文庫)

第二次大戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住人に近づきたい、駆け出し小説家の僕の部屋の呼び鈴を、夜更けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった……。 表題作ほか、端正な文体と魅力あふれる人物造形で著者の名声を不動のものにした作品集を、清新な新訳でおくる。

現代アメリカ文学の重要な作家の一人とされるトルーマン・カポーティだが、まだ読んだことがないから1冊読んどくかと思ったのである。だが最高傑作と言われる『冷血』はドキュメンタリーだし、やはり小説という事であれば映画化作品でも有名な『ティファニーで朝食を』かな、と思いこの作品を手に取った。新潮文庫ティファニーで朝食を』は表題作の中編「ティファニーで朝食を」のほか3篇の短篇作品が収録されている。翻訳は村上春樹。ちなみにオードリー・ヘップバーン主演の映画の方は観ていない。

まず表題作「ティファニーで朝食を」は特段面白い物語とは思えなかった。ニューヨークの小さなアパートでうだつの上がらない新人小説家と奔放すぎる若い娘が知り合う。その若い娘ホリーは女優の卵だが、実のところ女優になどなるつもりはなく、社交界を渡り歩きながら金持ちのパトロンを見つけ、あわよくば結婚しようと狙っていた。ホリーは自由を愛し束縛を嫌い、己が欲望を最大限に実現するために野放図に生きる娘だ。しかし大都会でしがらみなく生きるというとは、逆に何とも繋がることなく糸の切れた凧のように何処かへふわふわと流されてゆく危うさもある。

ホリーの飛び込む場所は虚飾と虚栄と虚構が亡霊のようにひしめく虚無そのものの場所のように思えてしまう。それがホリーの自由の代償であり、そしてホリーはそんな世界を確信犯的に生き抜き、彼女自身の幸福を見つけようとするのだけれど、そんな彼女の生き方が、なんだかちょっとエキセントリック過ぎて鼻白むのだ。それこそ虚像を眺めているような、ひたすら絵空事の物語に思えてしまうのだ。そもそもこの物語自体が、社交界大好き人間カポーティが軽佻浮薄なその場所で”人間観察”しながら見つけた、エキセントリックな人物たちの姿を繋ぎ合わせたようなお話じゃないのか。この中編を読んで映画化作品を観たいとは全く思えなかったなあ。

一方逆に、他の短篇はおそろしくよくできていた。ハイチの田舎町を舞台に美しい娼婦が受け入れた求婚の顛末を描く「花盛りの家」、古参の囚人が新しい入所者の男に翻弄される「ダイアモンドのギター」、老人ゆえに家族から疎まれる老婆とその孫である少年との交歓を描く「クリスマスの思い出」、どれも高い寓話性を兼ね備え、無駄のない硬質な文体の躍る素晴らしい作品だ。そして気付いたのだが、これらの作品に共通するのは「自由である/自由ではない」「束縛する/束縛されない」という状況の中でせめぎあう人間関係であり、その恩恵と罪科ではないかということだ。それは「ティファニーで朝食を」でも同一だ。カポーティは、この奇妙なバランスの中でどちらに転ぶこともできない危うい緊張を裡に秘めた作家だったのかもしれない。

《収録作》ティファニーで朝食を/花盛りの家/ダイアモンドのギター/クリスマスの思い出/訳者あとがき 村上春樹