ドライブ・マイ・カー (監督:濱口竜介 2021年日本映画)
村上春樹短編小説原作の映画『ドライブ・マイ・カー』を観た。これが思いのほかよくできていて、なおかつ心に刺さるものを感じたので少々駄文を書き散らかしてみたい。また、映画作品を観終わった後に原作である短編集と映画内で取り扱われていたチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』も読んだので、そちらの簡単な感想も書いておくことにする。
【物語】舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。
村上春樹小説は初期の作品の頃によく読んでいたが、長編『国境の南、太陽の西』辺りからセクシャルなものに仮託し過ぎた展開とすっきりしない文章に飽きてきて読まなくなってしまった。しかし村上春樹原作の映画は『バーニング 劇場版』を始め割と面白いものが多く、この『ドライブ・マイ・カー』にも少々期待していた。ちなみに作品はアカデミー国際長編映画賞を獲得している。
『ドライブ・マイ・カー』は妻の不倫にわだかまりを覚えながらそれをぶつけることなく妻を亡くした舞台俳優・家福が主人公となる。その後家福は演劇祭の演出で広島に赴くが、そこでの移動の為に一人の女性ドライバー・みさきをあてがわれる。戯曲『ワーニャ伯父さん』の準備に日々追われる家福だったが、みさきが寡黙に運転する車中で、様々な思念が次第に輪郭を持ち始めることに気付いてゆくのだ。
冒頭の村上作品らしい濃厚なセクシャル描写には面食らったが、その後淡々と物語られてゆく家福の日常と彼の出会うものに次第に心惹かれていった。
この物語には幾つかの流れとなるものがある。ひとつは家福の、自らの感情を頑なに封印した、その索漠とした生き方である。もう一つは自らを多く語らないみさきの、その語らないことから滲み出てしまう彼女の悲哀である。さらに一つは劇中劇『ワーニャ伯父さん』の物語が、次第に本筋の物語とシンクロしてゆく様である。もう一つ付け加えるなら、『ワーニャ伯父さん』を演ずることになる俳優たちの、気の置けない気さくさである。
最初は特に関連性を見出せないこれらの物事が、物語が進むにつれて次第に溶け合い、共鳴し合うことにより、あたかも化学反応の如くに家福の心に変化をもたらす。そして彼の頑なな心を溶かし、「自分はどう感じているのか、自分の感情はどこにあるのか」を呼び覚ましてゆくのがこの物語である。その過程の、決して単純ではない道筋が、生きることのままならなさと同時に、生きることの希望の在り処を伝えてゆくのだ。
クライマックス、遂に自らの感情の源泉に辿り着いた家福とみさきの台詞回しは、それまで単調で無味乾燥に描かれた主人公たちの表情を一変させ、怒涛のようにほとばしる感情の渦を見せる。だがそれはどこか舞台劇の大仰な台詞回しのようにも感じさせる。しかしこれは、劇中劇『ワーニャ伯父さん』のそのクライマックスに、物語が遂に完璧に寄り添った瞬間を描き出したからではないだろうか。
その『ワーニャ伯父さん』の物語とはどういうものか、そしてそれがどう『ドライブ・マイ・カー』とシンクロするのか。それは今回のブログの『ワーニャ伯父さん』の感想に譲るので、そこを『ドライブ・マイ・カー』の感想の締めくくりとしたい。
女のいない男たち / 村上春樹
舞台俳優・家福をさいなみ続ける亡き妻の記憶。彼女はなぜあの男と関係したのかを追う「ドライブ・マイ・カー」。妻に去られた男は会社を辞めバーを始めたが、ある時を境に店を怪しい気配が包み謎に追いかけられる「木野」。封印されていた記憶の数々を解くには今しかない。見慣れたはずのこの世界に潜む秘密を探る6つの物語。村上春樹の最新短篇集。
『女のいない男たち』は村上春樹が2014年に上梓した短編集だ。6篇の短編が収められ、その内容はどれも恋人や愛人を失った男たちの物語が描かれることになる。映画『ドライブ・マイ・カー』はこの短編集から「ドライブ・マイ・カー」「木野」「シェエラザード」の3篇を換骨奪胎して製作している。
さて短編集だが、読んでみるとこれがまたどれもこれも不倫と浮気のつるべ打ちみたいな内容の物語ばかりで、正直面食らってしまった。もともと村上小説は性的な事柄をあえて強調することで物語の核としているものが多いが、ここまでどれもこれもだと呆れてしまう。不倫の相手に去られて拒食症になる男の話などは単純に「アホか」と思ってしまった。
とはいえ村上はなぜ性的な事柄をあえて強調するのかというと、それは愛と並んで人間の感情の中で最も強烈なものの一つだからなのだろう。村上小説を単なるポルノだと誹謗する批評もあるが、村上の描く「性的な事柄」は人間の懊悩がいわゆるハイパーテキストに描かれたものなのだ。とはいえそう分かっていてもやっぱり辟易してしまうがな……。
ワーニャ伯父さん・三人姉妹 / チェーホフ
若い姪と二人、都会暮らしの教授に仕送りしてきた生活。だが教授は……。棒に振った人生への後悔の念にさいなまれる「ワーニャ伯父さん」。モスクワへの帰郷を夢見ながら、次第に出口のない現実に追い込まれていく「三人姉妹」。生きていくことの悲劇を描いたチェーホフの傑作戯曲二編。すれ違う思惑のなかで、必死に呼びかけ合う人々の姿を、極限にまで切りつめたことばで浮かび上がらせる待望の新訳。
映画『ドライブ・マイ・カー』を観た中でひとつの収穫となったのは、このチェーホフの戯曲を知ったことにあるだろう。実は今までチェーホフを読んだことがなく、この『ワーニャ伯父さん』が初めて読むチェーホフとなったのだ。映画の中では舞台稽古という形で断片的にしか描かれない『ワーニャ伯父さん』だったが、それでもこの戯曲の一つ一つの台詞には心に残るものがあった。
『ワーニャ伯父さん』の物語は自らの人生への後悔とそうした人生への怒りがあり、それをどう昇華してゆくのかが描かれるが、これは映画『ドライブ・マイ・カー』の物語と見事にシンクロしている。その昇華の在り方にしても、結局は耐えに耐え抜いて健気に生きてゆくしかない、という事なのだけれども、それは人生には容易い解法などなく、生きるというただそれだけの事を、今日そうであるように明日もまた噛み締めてゆくしかないのだ、と物語るのだ。
それを諦念ではなく、受容として生きてゆくこと、そこにチェーホフの苦くもまたぎりぎりの希望の在り方をうかがい知ることができるだろう。そしてそれがまた、映画『ドライブ・マイ・カー』の描くものであったとオレは思う。