■蛍・納屋を焼く・その他の短編 / 村上春樹
先日、韓国映画『バーニング』を観てその冷え冷えとした不気味さに感銘を受け、原作である村上春樹の短編『納屋を焼く』を読んでみることにした。『納屋を焼く』は短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録されている作品だ。
オレはかつて結構な村上春樹ファンだった。最初に読んだのは当時刊行されたばかりの『羊をめぐる冒険』(1982)だった。読み終わって、胸のザワザワが止まらなかった。映画『バニシング・ポイント』のような、消失点へ消失点へと疾走してゆく物語に慄然とさせられた。その後処女作『風の歌を聴け』(1979)で魅せられた。映画化作品のDVDも購入した。こうしてオレは村上ファンとなったわけだ。
そして『ノルウェイの森』(1987)。頭を鈍器のようなものでぶん殴られたような衝撃だった。これもまた消失点へと疾走する物語だったが、物語の研ぎ澄まされ方が半端なかった。村上小説のエッセンスを、まるで蒸留中のスピリッツの様に純度を高め濃縮したのがこの作品だったと思う(これ、映画化作品も本当に素晴らしい)。
しかし『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)あたりから「なんか違うなあ」と思うようになった。そういや『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)辺りにもちょっと違和感を感じた。そして『国境の南、太陽の西』(1992)を最後にオレは村上作品を読むのを止めてしまった。
今挙げた村上作品の後ろにいちいち発表年代を入れたのは、それらの作品が「結構昔の作品」だった、ということを言いたかったからだ。最初に読んだ『羊をめぐる冒険』はもう40年近く前の作品だし、最後に読んだ『国境の西~』ですら30年近く前のものだ。要するに、もう30年近く村上作品は読んでいない、ということなのだ。
村上の、いわゆる「激しい隠喩」とされる表現の在り方は、即物的なオレに取ってみると、単に「下手な隠喩」だなあ、と思えてしまうのだ。その難解さを、オレはあえて読み解こうとする気が起きないのだ。それと、村上作品の多くは「生(性)と死」を取り扱うが、クローズアップされる「性」の部分が、生々しすぎて(その生々しさが”文学”なのだろうが)苦手だったというのもある。
『蛍・納屋を焼く・その他の短編』は1984年刊行の短編集だ。長編『羊』と『世界の終り』の中間ぐらいに出されたものとなる。この短編集には5つの短編が収められている。このうち『蛍』は『ノルウェイの森』の元となった作品だ。この作品では主人公の出会った女性が「消失」するまでが描かれることになる。『納屋を焼く』でも出会った女性は「消失」し、不安で不気味な読後感を残す(相変わらずたっぷり缶ビールを飲んでいた)。『踊る小人』は童話風のモチーフを使った作品だが、やはり不安感に満ちた作品だ。『めくらやなぎと眠る女』は村上風「激しい隠喩」の張り巡らされた難解な作品だが、基本は「生の不確かさ」なのだと思う。多分。『三つのドイツ幻想』は「僕はセックスから冬の博物館を想像する」といった冒頭から難易度が高い。そうなんだ、と思ったけど。
とまあ久々に村上作品を短編集という形ではあるが読んだわけだが、やっぱり、なんだかモニョッてしまった。村上春樹の短編は昔からつまらなかったが、これも同じだなあ、と思ってしまった。実のところ、村上短編は実験的手法を試すような部分が多いように感じられ、長編作品とはどうしても趣が違う。だいたい、「長編『羊』と『世界の終り』の中間ぐらい」に刊行されていたなら当時ファンだったオレは読んでいたような気がするが、まるで記憶にない。
村上作品の特徴である「平易な文章」は時として雑炊を啜っているかのように歯応えが無い。なにかぬるぬると手元をすり抜けてしまう。直喩を用いないからなのだろうが、じれったく感じるし、めんどくせえなあ、と思えてしまう。面倒臭がっては文学など読めないのだろうが、オレはラテンアメリカ文学ならガシガシ噛みしだいて読むことはできるから、単に村上手法が肌に合わないだけなのだろう。という訳で久々に村上作品を読んだらモニョッてしまった、というお話だった。