柴田元幸 編訳『アメリカン・マスターピース 準古典篇』を読んだ

アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書) / 柴田元幸 (翻訳)

アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

柴田元幸翻訳叢書シリーズ最新作。 10年前に発行された「古典篇」に続く「準古典篇」です。 アメリカ合衆国で書かれた短編小説、その”名作中の名作”を選ぶ。 ヘミングウェイ、フォークナーなどの巨匠による「定番」から、ハーストン、ウェルティ、オルグレンの本邦初訳作まで。 激動の時代、20世紀前半に執筆・発表された全12篇を収録。

以前読んだ〈柴田元幸翻訳叢書シリーズ〉『アメリカン・マスターピース 古典篇』の続編となる『アメリカン・マスターピース 準古典篇』である。この「アメリカン・マスターピース・シリーズ」は「翻訳者(柴田元幸氏)が長年愛読し、かつほとんどの場合は世に名作の誉れ高い作品」というコンセプトのもとに編まれているもので、今回の『準古典篇』では20世紀前半、厳密には1919~47年に執筆・発表された作品が収められている。

あとがきにも触れられているが、アメリカの20世紀前半とは二つの世界大戦に挟まれた時期であり、アメリカが世界でも目覚ましい繁栄と躍進を遂げ、その後の大恐慌を体験し、同時にアメリカならではの腐敗と混乱が徐々に社会に広まっていった時期でもある。そういった世相を反映してか、この『準古典篇』では繁栄の陰の退廃や、人種問題、犯罪化社会が浮き彫りとなった作品が並ぶ。

「グロテスクなものたちの書」シャーウッド・アンダーソンなどはその「アメリカ20世紀前半」の序章ともなる作品だろう。「インディアン村」アーネスト・ヘミングウェイではタイトル通りインディアンの村が描かれるがそこはヘミングウェイ、削ぎ落した描写が逆に寒々しい。というか、実はこれがヘミングウェイ初体験。

「ハーレムの書」ゾラ・ニール・ハーストン、「何度も歩いた道」ユードラ・ウェルティは黒人たちの生活を生き生きとしたユーモアで描くが、「広場でのパーティ」ラルフ・エリスンでは陰惨極まりない黒人差別が噴出する。この「広場でのパーティ」の地獄図は相当に凄まじい。「ローマ熱」イーディス・ウォートン、「失われた十年F・スコット・フィッツジェラルド、「三時」コーネル・ウールリッチは都市化の影響で空疎になってゆく人間関係を描く。この3作はどれも好きだが、ミステリ作家のウールリッチが選出されているのには驚いた。

一方、「心が高地にある男」ウィリアム・サローヤン「納屋を焼く」ウィリアム・フォークナーアメリカ農村地帯の貧困を方や諧謔的に、方や熾烈に描いたコインの裏表のような作品だ。とはいえフォークナー苦手なんだよなオレ。「分署長は悪い夢を見る」ネルソン・オルグレンでは犯罪化する都市を黒い笑いで活写する。その中で「夢の中で責任が始まる」デルモア・シュウォーツは、「この時代にアメリカで生きる事」を切なく描いた逸品だった。

全体的に格調高く、アメリカ文学がまさに花開こうとしたときを濃縮した短編集だったと思う。その分ちょっと取っつき難さもあったが……。

【収録作品】「グロテスクなものたちの書」シャーウッド・アンダーソン/「インディアン村」アーネスト・ヘミングウェイ/「ハーレムの書」ゾラ・ニール・ハーストン/「ローマ熱」イーディス・ウォートン/「心が高地にある男」ウィリアム・サローヤン/「夢の中で責任が始まる」デルモア・シュウォーツ/「三時」コーネル・ウールリッチ/「納屋を焼く」ウィリアム・フォークナー/「失われた十年F・スコット・フィッツジェラルド/「広場でのパーティ」ラルフ・エリスン/「何度も歩いた道」ユードラ・ウェルティ/「分署長は悪い夢を見る」ネルソン・オルグレン