スコット・フィッツジェラルド自選短篇集『若者はみな悲しい』を読んだ

若者はみな悲しい / スコット・フィッツジェラルド (著), 小川 高義 (翻訳)

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

理想の女性を追いつづける男の哀しみを描く「冬の夢」。わがままな妻が大人へと成長する「調停人」。親たちの見栄と自尊心が交錯する「子どもパーティ」など、本邦初訳4篇を含む9篇を収録。アメリカが最も輝いていた1920年代を代表する作家フィッツジェラルドが、若者と、かつて若者だった大人たちを鮮やかに描きだした珠玉の自選短編集。

村上春樹訳と小川高義訳、フィッツジェラルド短篇集を読み比べて

村上春樹が翻訳したスコット・フィッツジェラルドの短篇集を5冊立て続けに読んだ後、その締めくくりとして村上春樹訳ではないフィッツジェラルドの短篇集を1冊手に取った。選んだのは、小川高義氏が訳された『若者はみな悲しい』となる。

この短篇集がフィッツジェラルド自身による「自選短篇集」であるという点に、まず興味を惹かれた。彼が自身の作品をまとめる際に、どのような短篇を選ぶのかを知りたいと思ったのだ。また、村上氏以外の翻訳者を通して、フィッツジェラルド作品の雰囲気がどのように変化するのかという点にも関心があった。

収録作品と翻訳の比較

本書に収録されているのは全9篇。そのうち、すでに村上訳の叢書で読んでいたのは4篇(「お坊ちゃん」「冬の夢」「子どもパーティ」「赦免」)。残りの5篇(「ラッグズ・マーティン=ジョーンズとイギ○スの皇○子」「調停人」「温血と冷血」「『常識』」「グレッチェンのひと眠り」)は、この短篇集で初めて読む作品となる。

オレ自身、英語には疎いため、翻訳の正誤や出来の良し悪しを判断することはできないし、そのつもりもない。しかし、村上訳と小川訳を読み比べてみて、漠然と感じたのは、「作家が訳した訳文」と「翻訳者が訳した訳文」の違いではないだろうか。

もちろん、お二人とも正確な翻訳を心がけていることに疑いはないだろう。ただ、村上訳からは「より文学的で重厚な言い回し」を感じたのに対し、小川訳からは「より正確で分かりやすい訳文」を目指したのだろうということが伝わってきた。これは、小川訳が光文社古典新訳文庫の一冊であることとも関係しているのかもしれない。同文庫は、古典小説を現代的かつ分かりやすく訳すことをコンセプトにしたものだからだ。

それぞれの翻訳がもたらす読書体験

そういった意味で言えば、村上訳のフィッツジェラルド作品は、その背後に村上春樹の小説世界がうっすらと透けて見えるという楽しみ方ができる。同時に、村上作品的なバイアスの影響下にある、と見ることもできる。対して小川訳は、よりニュートラルで読みやすい訳文だが、村上訳と同等の「味わい」を求めると、やや物足りなさを感じるかもしれない。

もしオレ個人の好みを言うならば、憂愁を帯びた作品であれば村上訳を、より日常的な題材の作品であれば小川訳を選ぶというのも一つの手かもしれない。とはいえ、これはあくまで個人の好みの問題に過ぎないのだが。

「自選短篇集」の意図

さて、「自選短篇集」という点についてはどうだろう。当時、フィッツジェラルドの短篇集は長編小説の出版に合わせて刊行されることが多かったようである。そうした背景を考えると、この「自選短篇集」は、長編とはまた異なる、よりバラエティ豊かな短篇をセレクトすることで、フィッツジェラルド自身が多岐にわたる表現力を持っていることを示す狙いがあったのではないかと推測できる。つまり、彼が自身の「手駒の多さ」を披露する形での「自選短篇集」だったのではないだろうか。

その点で、村上訳でも読める4篇がいかにもフィッツジェラルド作品らしい陰影に富んだものであるのに対し、残りの5篇は、一般的な市民の日常的な出来事をコミカルに扱ったものが多いように思えた。これは、当時フィッツジェラルドが作品を寄稿していた大衆紙の編集方針に則り、より軽妙さや軽快さが求められた結果、生まれた作品だからなのではないかと想像するのだが、どうだろう。

【収録作品】お坊ちゃん/冬の夢/子どもパーティ/赦免/ラッグズ・マーティン=ジョーンズとイギ○スの皇○子/調停人/温血と冷血/「常識」/グレッチェンのひと眠り