村上春樹 著訳『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』を読んだ

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック村上春樹 著訳

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (村上春樹翻訳ライブラリー f- 3)

それは『グレート・ギャツビー』翻訳への長い旅の始まりでもあった―生地セント・ポールから魂の眠るロックヴィルまで、ゆかりの各地を訪ねる紀行のほか、類い稀なヴァイタリティーでスコットを翻弄した妻ゼルダの伝記など全八篇のエッセイと、村上訳の二短篇、ライブラリー版のための新訳エッセイも収録。

村上春樹翻訳によるスコット・フィッツジェラルド本をあれこれと読んでいるのだが、この『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』はフィッツジェラルド短篇が2作収録されている以外は村上氏によるフィッツジェラルド愛と作品考察とが綴られた変則的な書籍になっている。

具体的には村上氏が訪れたフィッツジェラルドゆかりの地への紀行文が5つ、フィッツジェラルド長編『夜はやさし』が2バージョン存在することへの考察、フィッツジェラルドの妻ゼルダフィッツジェラルドの短い伝記、映画『華麗なるギャツビー』(1974年版)についてのコメント、フィッツジェラルドの二つの短篇「自立する娘」「リッチ・ボーイ(金持の青年)」の村上翻訳版、最後に1966年にエスクァイア誌に掲載されたフィッツジェラルドヘミングウェイに関する記事の翻訳となる。

こういった構成なので、基本的にはフィッツジェラルドをある程度読み込んだ読者向けであり、フィッツジェラルド未経験者・初心者向けでは決してないのだが、村上氏によるフィッツジェラルド愛が大いに炸裂するといった点において、「フィッツジェラルドは読んだことはないが村上春樹の原点となるものを知ってみたい」と思っている村上ファンなら、割と刺さるものがあるのではないかと思えた。

というのは、ここに書かれている数多のフィッツジェラルド・エピソードにしても、フィッツジェラルドの二つの短篇や最後のエスクァイア誌記事のチョイスにしても、村上氏がいかにフィッツジェラルドに心酔し、その波乱含みの人生に魂をシンクロナイズドさせているのかが如実に伝わってくるのだ。それはある意味”憑依”に近い共感の在り方であり、この深い共感こそが村上春樹村上春樹たらしめているものではないかと思わせるのだ。

2つの翻訳短篇で面白いのは、まず「自立する娘」が、「原稿料欲しさに書き飛ばしたそれほど出来の良くない作品」であることを明言しながら、「それでも光るものがある」として掲載されている点であり、読むと村上のその着目点がはっきりと伝わってくることだ。確かにストーリーテリングは弱いのだが、描写の端々に唯一無二ともいえる瑞々しさを感じさせるのだ。

対して”フィッツジェラルド短篇のベスト3に入る作品”として紹介された「リッチ・ボーイ(金持の青年)」は、自己中心的で思い遣りに欠けた”金持ち青年”の半生を突き放したような筆致で描き、その人生の陥穽を砂を嚙むような索漠としたトーンで提示するのである。この哀感ともアイロニーとも違う、宙にぽっかりと空いたような無味無臭の虚無、こんなテイストはフィッツジェラルドでしか出せないものなのではないだろうか。