F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んだ。

グレート・ギャツビーF・スコット・フィッツジェラルド

グレート・ギャツビー

ニューヨーク郊外の豪壮な邸宅で夜毎開かれる絢爛たるパーティ。シャンパンの泡がきらめき、楽団の演奏に合わせて、着飾った紳士淑女が歌い踊る。主催者のギャツビーは経歴も謎の大富豪で、その心底には失った恋人への焦がれるような思いがあった…。第一次大戦後の繁栄と喧騒の20年代を、時代の寵児として駆け抜けたフィッツジェラルドが、美しくも破滅的な青春を流麗な文体で描いた代表作。

グレート・ギャツビー』、あるいは『華麗なるギャツビー』については随分前からタイトルだけは知っていた。それは小説としてではなく1974年に公開された監督:ジャック・クレイトン、主演:ロバート・レッドフォードによる映画『華麗なるギャツビー』からである。映画自体は観なかったが、その頃は「貴族趣味な上流階級が主人公の、オレには関係のない世界の話」だと思い込んでいた。しかしその後バズ・ラーマン監督作である映画『華麗なるギャツビー』(2013)を観てそのあまりの素晴らしさにオレは呆然とした。これは是非原作小説を読まなければ……と思いつつ幾年月、最近やっと小説を手にした。そしてこれがまた、やはりひたすら素晴らしい作品であり、オレは陶然としながら読み終わった。

グレート・ギャツビー』には様々な翻訳が出ているが、今回オレが手にしたのは新潮社から出ている野崎孝訳の文庫である。ちなみに上の書影とは違う表紙絵で、こちらはギャツビーのものと思われる豪邸を背景にイエローのクラシックカーが大きく描かれたものとなる。

グレート・ギャツビー』は第一次大戦後の好景気に沸く爛熟のアメリカ、そのニューヨーク郊外が舞台となる。最近ここに越してきた青年ニックの隣には謎の大富豪ギャツビーの邸宅があった。夜毎派手なパーティーが行われるこの大邸宅でニックは若々しい青年ギャツビーと出会い、友情が芽生える。そしてニックはギャツビーが、ニックのいとこであり既に富豪の人妻となって暮らす女ディズィに、一途な恋情を抱いていることを知らされるのだ。

優れた文学小説というものはどれもそうだが、『グレート・ギャツビー』の物語も表層から深部に至る様々なレイヤーで形作られており、それを読み解くならば単純な見てくれを持ちながら複雑な含意が込められた物語であることが分かってくる。

まずその単純な表層となるのはこれがラブロマンスの物語であり、その悲恋を扱ったものであり、またアメリカ上流階級の煌びやかな生活を描いたものだという事である。ギャツビーは人妻に横恋慕しており、その人妻ディズィもまたギャツビーを愛するようになる。これも卑俗に言うならば不倫物語であり、ハーレクイン小説となんら変わらないものに思えてしまうが、もちろんそれだけの物語ではない。実はギャツビーは数年前ディズィと出会い恋をするが、ギャツビーは戦地へ出征することになり、結局ディズィはトム・ブキャナンという富豪と結婚してしまう。ギャツビーはこのブランクを取り戻すためにあらゆる努力を払い富豪に上り詰め、ディズィを再び手に入れるため全ての準備を整えていたのだ。

ここに第一次世界大戦とそれに出征し、故国に再び戻って来た者たちが出遭う空白と空虚の物語が明らかになる。さらに大戦がもたらしたアメリカ史上最大の好景気とその好景気の中で莫大な富を得、浮かれ騒ぐ人々の喧騒と頽廃が重ね合わされる。ギャツビーがディズィを失ったのは戦争のせいであり、またギャツビーが富を手に入れたのも戦争の賜物であった。ギャツビーが富を得たのは後ろ暗い仕事によってであったが、それは上り調子の経済の中にあっては不道徳が見過ごされることがままあるからだ。アメリ20年代ロスト・ジェネレーションと呼ばれる世代がここで浮かび上がってくる。さらに好景気に沸くアメリカの陰に存在する野放図な商売とそれに関わる人々とがあからさまになる。その野蛮さと強欲さは、そのままアメリカ社会の一面であったことをうかがわせる。

もう一つ、この物語の語り手であるニックはアメリカ中西部の出身であり、そしてギャツビーもまたもともと中西部出身であることが後に分かってくる。いわば二人は田舎者だったのだ。彼ら二人が居を移したアメリカ東部は大都市ニューヨークに代表され煌びやかな都会であり、そこに住まう人々も経済的に豊かであると同時に功利的で冷淡な住民性を持っており、そういった華やかな土地で暮らすことの愉悦を得るのと同時に薄情な人間関係にもまたさらされることになる。

もともと無一文な兵卒でしかなかったギャツビーがなぜディズィに恋をしたのか。それはディズィが上流階級の子女であり、その輝きを一身にまとった女だったからであった。貧乏人の田舎者が羨望し心蕩した女ディズィ。ギャツビーにどこか「恋に恋する」ような勘違いを感じるのは、ギャツビーが愛し固執したのがディズィの持つ上流階級という属性であったからなのかもしれない。そして自らも上流階級となったギャツビーは、晴れてディズィに相応しい男になった筈だったのだ。

ここに貧富による格差と、それを乗り越えようとする成り上り者の意志を見て取ることができる。そしてギャツビーはまさにそれを遣り遂げた男だ。アメリカン・ドリーム、大きな夢さえ持っていれば必ず叶える事が出来る、そんなアメリカ社会と、どこまでも機関車の様に邁進するアメリカ人の覇気を体現した者がギャツビーなのだ。そしてそれと対比するように、「灰の谷」に代表される、決して浮かびあがることの出来ない経済的敗残者の姿もこの物語では描かれる。

さらに、中西部出身者がアメリカ東部に感じる違和感、居心地の悪さ、その冷淡さへの嫌悪もまたこの物語では描かれる。それはギャツビーとニックが出逢う様々な人々の様子から見て取ることが出来る。結局、ディズィも、その夫であるトムも、金持ちであることを除けば単なる凡俗であり限りなく保守的な利己主義者でしかない。『グレート・ギャツビー』における悲劇の根源は、この「金を持っているだけの凡俗」たちの自己保身と無関心によって引き起こされた、と見る事もできる。しかし、凡俗であることは決してそれだけで責められるものではない。そういう人々であり、そういう社会だった、という他にない。ただ、それら凡俗の中で、ギャツビーだけが、常に前のめりになり、遮二無二自己実現を成そうとし、己の愛に対して真摯であろうとした。そのひたむきさが、ギャツビーが「グレート」であった証だったのだ。

物語後半、ニックがギャツビーにこう語り掛けるシーンがある。

「あいつらはくだらんやつですよ」芝生越しにぼくは叫んだ。「あんたには、あいつらみんなをいっしょにしただけの値打ちがある」(p254)

剣呑な凡俗たちの中でただ一人、「値打ち」のあった男ギャツビー。あふれんばかりの輝きと、その輝きの裏に深い闇と悲しみを持った男ギャツビー。全てを手に入れ、全てを失った男ギャツビー。小説『グレート・ギャツビー』は、狂乱のアメリ20年代に生きた一人の男のさまよえる魂を詠いあげた挽歌であり、その後待ち受ける1930年代の大恐慌へと続くアメリカ経済そのものの挽歌であったのかもしれないと思うのだ。『グレート・ギャツビー』、それはアメリカの偉大さと、その偉大さが潰えてしまう光景を描いた物語だったのではないだろうか。

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