63歳になった

本日9月9日で63歳になったオレである。

まあなんというか、62歳になった時には「おいマジかよ62ってどういうことだよ信じらんねーよ」などと果てしなく気が遠くなったものだが、63ともなると「いいよもうどうだって勝手にしろよ」という気分である。既にすっかり老人のつもりでいるので何歳になろうが好きにしてくれといった感じなのである。

行政上の高齢者は65歳以上ということらしいが、もはや年寄りのつもりでいたほうが自分はまだまだ若いなどと悪あがきするよりもずっと楽なのだ。街を歩いていても電車に乗っても職場で仕事していても、「いやあもうワタクシすっかりジジイですから」とひたすら腰を低く低くして生きているほどである。「あ、あ、ごめんなさいねえ、すぐどきますから、お邪魔してスイマセン」といったていである。

実際毎日通勤電車でネクタイ姿のサラリーマン男性の群れを見ていると、「ちょっと待てこいつら多分ほとんどオレの年下なんじゃないのか」と電撃のような啓示を受け、オレはしばし戦慄したのだ。また、オレよりも年齢の高そうな方を電車で見ると、「まだ働いてんのかよオレにはちょっと無理だわ」などと自分に置き換えて暗澹としてしまうのだ。

何が言いたいかというと、「もう働きたくねえなあ」、これにつきるのである。正直、精神的肉体的にキッツイんである。体はもうあちこちガタがきてるし、ちょっとしたストレスでも泣きが入るし、暑さ寒さは年々体にこたえるようになってきたし、朝起きるのが以前よりも辛くなってきているのだ。この夏なんかあまりにも暑くてセミの鳴き声を聞いただけで生命力にヤスリをかけられているような気分だった。

そんなわけなので、65歳ぐらいで仕事をリタイアすることを考えつつ、今はなんとかヘエコラ生きている最中である。この間病院で血液検査を受けたが、健康のほうは例によって「老人の健康状態」である。危険な兆候はないのだが、あちこち万遍なく弱ってきていている。頭のほうは、こんな文章書いていても思うのだが、頭回っとらんわとしょっちゅう感じている。

これが若い頃ならもっと頑張ろうなどと思えるのだが、年寄りというのはバッテリーの最大容量が出荷時の60%以下しかない古いスマホみたいなもので、ほとんどチャージが効かないのである。そしてすぐバッテリー切れになり、肉体という機種が古いので新しいアプリはまるで作動せず、更新にも対応していないから悪辣なウィルスに感染しやすいのである。

まあいい。いや、全然よくはないのだが、年寄りというのはそういうものなのだ。そういうものなのだと受け止めて、老いさらばえ衰えてゆく一方の心と体に、まあしゃあねえな、と納得してゆくしかないのだ。そういうこともあって「いいよもうどうだって勝手にしろよ」と思ったというわけである。それは諦観と受容である。なんかカッコいい言い方だな。

実のところ生活は安定していて、将来的にもそれほど不安はない。相方さんとの毎日は楽しいし、また、楽しんで生きようと思っている。ガタガタ言ってる割には体はまだ動けるし、それだけでもめっけもんではないか。欲張りは言わず、今ある状態に満足しながら、日々なにがしかに喜びを見つけられていられればそれでいいではないか。そんなことを考えた63歳の誕生日である。

例によってしょーもないことをグダグダと書いたが、誕生日記事というのは毎年本当に暗澹としたことばかりを書き連ねるのが通例なので許してほしい。こんな記事を最後まで読んでくれた方々に感謝。さらにいつもこんなブログに付き合ってくれている皆さんに感謝。そしてこんなオレと諦めずに付き合ってくれている相方さんに最も大きな感謝を込めて、この文章は終わることにする。でわでわ。