バビロンに帰る: ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2 / スコット・フィッツジェラルド(作)、村上春樹(翻訳)
僕らはこの不躾なくらいに気前よく才能をまき散らす作家に脱帽しないわけにはいかない……ビター・スイートな五短編と訳者のアッシュヴィル訪問記。マルカム・カウリーの名エッセイ新収録。
村上春樹翻訳版スコット・フィッツジェラルド短篇集『バビロンに帰る: ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2』は、前作『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』が村上のフィッツジェラルド愛の炸裂するガイドブック的な構成になっていたのと比べるなら、より多くのフィッツジェラルド短篇が収録されており、”短篇集らしい”書籍となっている。具体的には短篇が5篇、村上によるフィッツジェラルド評論が1篇、アメリカで刊行された「スコット・フィッツジェラルド作品集」序文の翻訳が1篇といった形で収録される。
村上はこの翻訳ライブラリーにおけるフィッツジェラルド短篇のセレクトを意図的に玉石混交にしているが、それは一般的に代表作と呼称される短篇以外にも”旨味のある”フィッツジェラルド短篇が多数あることを広く知らしめたいからなのだろう。なんとなればフィッツジェラルド短篇の傑作”だけ”を読みたければ中公文庫から村上訳で刊行されている『フィッツジェラルド短篇10』を読めば事足りるかもしれないが、それだけでは片手落ちなのだと村上は感じているのだろう。そして実際この翻訳ライブラリーを通して読んでみると、村上のその考えは正しいことが分かる。では収録作をざっくり紹介。
「ジェリービーン」は南部の田舎町に住む”ジェリービーン=のらくら男”がかつての憧れの少女と再会しある出来事に巻き込まれるといったものだが、フィッツジェラルド作品では珍しい朴訥な性格の主人公が恋愛感情に振り回されることなく達観した人生を歩む部分が妙に新鮮だ。ツイストの掛かったストーリー後半の展開も心憎い傑作。「カットグラスの鉢」はカットグラスにまつわるどこか因縁話めいた、ある種のホラーとしてさえ読める物語で、これもフィッツジェラルドの多彩さを感じることができる。「結婚パーティー」では大恐慌を背景に、”金と結婚”という現実的であると同時に生臭い問題をシニカルに描く。フィッツジェラルドが”金と結婚”をどう捉えていたのかをうかがわせる1作だろう。「新緑」では”類稀なる美形のアル中男”の悲劇が描かれるが、どことなく「ジキルとハイド」のような異様さを併せ持ち、同時にアル中男の惨憺たる労苦が切なさを際立たせる作品だった。村上は失敗作扱いではあるがオレとしては好きな作品だ。
そして「バビロンに帰る」だ。”アメリカ金ピカ時代”は大恐慌によってつわものどもが夢の跡と化し、多くの友人たちが尾羽うち枯らして消え去っていく中でなんとか生き延びた男が、親権を巡って血を吐くような苦渋の中に捨て置かれるといった物語だ。かつての栄華が幻のように消え去ってしまうことの無常、もはや目の前にあるのは荒漠とした現実だけという惨めさ、その中でたった一つだけ残された希望にすがろうとする悲哀、こうした綯い交ぜとなった感情を、美しい文体でひとつの静物画のようにぴたりと描写する筆力、確かに村上の言う通りA+の傑作であることは間違いないだろう。
「スコット・フィッツジェラルドの幻影 ――アッシュヴィル、1935」は村上によるフィッツジェラルド評論。1935年、アッシュビルに滞在していたフィッツジェラルドの私生活と、その地を巡礼する村上の心情とが重ね合わされる。村上によるフィッツジェラルド評論は村上の他の文章と比べても段違いに深い集中力と陶酔性を感じる。「スコット・フィッツジェラルド作品集のための序文」 は1951年に刊行された「スコット・フィッツジェラルド作品集」のマルカム・カウリーによる序文を翻訳したものだが、今読んでも堂々として解像度の高いフィッツジェラルド評論だと思えた。
