カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』がとても退屈だった

わたしを離さないで / カズオ・イシグロ(著)、土屋政雄 (翻訳)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設へールシャムの親友トミーやルースも「提供者」だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく

先ごろノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作。物語はとある”施設”で生まれ育った少年少女たちの残酷な運命を描くものだ。最初に書くと相当退屈な読み物だった。実は物語の”核心”となる物事をネタバレで知ってしまっていたので、その”核心”について特に衝撃は感じなかったが、知らなかったとしてもやはり退屈していただろう。で、ここからはオレもネタバレ込みで書くの要注意。

この物語の”核心”となるのは特殊施設の少年少女たちが他者への臓器提供者/ドナーとしてのみ生き永らえさせられている”クローン人間”だという事だ。そして主人公たちもそれを知っている。そのような運命を知りながら、どう自分の”生”を生きていくのか、というがこの物語だ。この設定はSF的なものを想起させるが、登場人物たちの心の襞を巧みに繊細に描くことで、実に「文学作品」らしい作品となっている。だがオレにはどうにも中途半端なものに感じてしまった。おまけにエモーショナル過ぎる部分に辟易した。

このような設定に似たSF作品はとっくに存在するし、それにより「”人間”であることの意味」を探ることもとっくに為されている。一番分かり易い例はP・K・ディックのSF小説アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を原作とした映画『ブレードランナー』だろう。ここに登場する”レプリカント=人造人間”たちは、人間と何も変わらない存在なのにもかかわらず「作り物」であるという理由で「人間ではないもの」として軽んじられている。ではここで「人間的であるとはどういうことなのか?」という問いを物語は突き付ける。小説『わたしを離さないで』のテーマはそれと何も変わらない。”レプリカント”を”クローン人間”に言い換えているだけだ。違うのは、レプリカントたちは運命に抗おうとし、クローンたちは運命を(遅らせようとすることはあるが結局は)受け入れてしまうということだ。

そもそも『わたしを離さないで』の舞台となる社会はなんなのか。クローン人間を「非人間」として扱い、臓器提供による死を迎えてもそれに冷淡な社会は非倫理的としか言いようがないだろう。しかし物語はこの社会の非倫理性をクローズアップすることなく、そういった社会に圧殺されるクローン人間の悲哀にのみ注視する。つまりクローン人間の心理を中心とした物語ではあるが、そのクローンである主人公やその恋人は最終的にそのような世界と運命を受けれてしまっているのだ。

オレはここに違和感を感じるのだ。なぜ戦わないのか。なぜ抗わないのか。自分の悲惨な運命をただ受け入れるだけの物語のどこが面白いのか。これをして「この主人公たちは現実の我々のメタファー」と語る事ほど馬鹿馬鹿しいことはない。問題提起の在り方はSF的であり、そしてこれまでSFが散々やってきたことだが、それをSFを読まないような層に文学のオブラートで包み、分かり易く受け入れられ易く書かれた「ソフトSF」、それがこの小説だろう。ただそのソフトさがどうにも煮え切らない内容にさせてしまったのだろうと思う。