ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』を読んだ

ある島の可能性ミシェル・ウエルベック

ある島の可能性 (河出文庫)

物語は世界の終わりから始まる。喜びも、恐れも、快楽も失った人類は、ネオ・ヒューマンと呼ばれる永遠に生まれ変われる肉体を得た。過去への手がかりは祖先たちが残した人生記。ここに一人の男のそれがある。成功を手にしながら、老いに震え、女たちのなかに仔犬のように身をすくめ、愛を求めつづけたダニエル。その心の軌跡を、彼の末裔たちは辿り、夢見る。あらたな未来の到来を。命が解き放たれる日を。

2005年に刊行された『ある島の可能性』はミシェル・ウエルベックの第5長編となる。そしてそれは「SFテーマ作品」だ。

「SFテーマ作品」といえばウエルベックの『素粒子』のラストを思い出すが、実はこの『ある島の可能性』は”『素粒子』のラスト”を引き継いでいるかのような物語なのだ。それは人類を超越した新人類の物語だからである。物語は現代に生きる青年ダニエルの生涯を、2000年後の未来に生きる彼の24/25世代後のクローンが振り返る、という形で描かれる。

ダニエルは売れっ子コメディアンだ。彼は冷感症のガールフレンド・イザベルと別れ、今は売れない女優エステルと熱烈な交際の最中だ。そんな彼に新興宗教団体エロヒム教が接触する。エロヒム教は地球外生命エロヒムを信仰し、現世の欲望、特にセックスの充足を追求する。さらに「永遠の生命」を確立するため、秘密裏に人間のクローン「ネオ・ヒューマン」を創造しようとしていた。この「現代」の章ではダニエルのエステルに対する狂おしいばかりの執着と煩悶、エロヒム教が遂に世界を席巻し「ネオ・ヒューマン」創造に着手する様が描かれる。

「2000年後の未来」ではダニエルの24/25世代後のクローン「ネオ・ヒューマン」が「現代」で語られるダニエルの人生を振り返り、過去、「人間」なるものが何に希望を見出し、何に絶望に堕とされたのかを観察してゆく。未来人類「ネオ・ヒューマン」は遺伝子操作により食物を摂取する必要も生殖行為をする必要もなく、その心理は常に平穏の中にあり、いわば仏教的な「解脱」の状態にある「完璧な人類」であった。しかし、にもかかわらず彼らは「生の実感の乏しさ」に苛まれていた。

これまで読んだウエルベックの物語は常に二人の登場人物が対となって登場した。片方は強烈なルサンチマンに蝕まれ、もう片方はルサンチマンから遥か遠くに生きながらも「生の実感の乏しさ」に苛まれる。これは対立項のように見えて実は一つのものなのだろうと思う。一方に欲望にまみれた自身がおり、一方にそれを冷めた目で観察する自身がいる。相反する二つの感情がないまぜになり、アンビバレンツを引き起こした存在、それがウエルベックの提示するものであり、同時にウエルベック自身の心象なのではないか。

そしてまた、この『ある島の可能性』における「SFテーマ」は、人の持つ【性(せい/さが)】、大きく言うなら人類というものが持つ【性】への、【絶望】を描いたものである気がしてならない。畢竟、人は、人である限り、己の【性】からは逃れられない。【性】がある限り人は「存在する苦しみ」から決して逃れることはできない。物語はそこに「存在する苦しみ」から解放された「ネオ・ヒューマン」を持ち込むが、実のところそれは「人間」ではなく、さらに言えば「絵空事」に過ぎない。「存在する苦しみ」から解放された「人間ではない存在」という「絵空事」の物語、それは現存人類にはなーんにもカンケー無いことでしかない。それが【絶望】ということなのだ。

もうひとつ、この作品はエロヒム教を通し「宗教の持つ虚無」をも描き出す。西欧社会の経済的勃興は旧弊の宗教を完膚なきまでに放逐したが、しかしその空洞に代替されるべきものは存在せず、ただ「虚無」だけが残された。しかしエロヒム教は、「資本主義が重宝した若さと、それに伴う快楽の、永遠の持続を約束し」、それにより人類規模で受け入れられてしまう。だがエロヒム教の最終目的は「資本主義の消滅」と「人類の間引き」であり、それによる「人の苦しみから解放されたネオ・ヒューマン」の創造であった。つまり救われるのは「ネオ・ヒューマン」のみであり、それは即ち「人間/人類」は誰一人として救わない/救われないということなのだ。

「存在する苦しみ」から決して逃れられない人間存在と、そうして生きざるを得ない事への絶望、それを救うものさえない虚無。しかし、その懊悩に塗れた生の中に、決して「喜び」が無かったわけではない。その「喜び」は、容易く消え去ってしまう幻の如きものではあっても、それでも、人はその「喜び」にすがり、また出会えることを懇願してしまう。それが【可能性】ということである。ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』は、苦痛に満ちた生を描きながら、それでもなおその最後に、【可能性】の可否を追い求めようとする。それが発見できるのかどうかは分からない。しかし、それでも生は実存するのだ。