服従/ミシェル・ウエルベック
二〇二二年仏大統領選。極右・国民戦線マリーヌ・ル・ペンと、穏健イスラーム政党党首が決選に挑む。しかし各地の投票所でテロが発生。国全体に報道管制が敷かれ、パリ第三大学教員のぼくは、若く美しい恋人と別れてパリを後にする。テロと移民にあえぐ国家を舞台に個人と自由の果てを描き、世界の激動を予言する傑作長篇。
フランスにイスラーム政権が誕生した近未来
2015年に発表された『服従』はミシェル・ウエルベックの6番目の長編作品となる。そしてその物語は「フランスにイスラーム政権が誕生した近未来」を描くある種SF的なものだ。さらに刊行当日シャルリー・エブド襲撃事件が起き、かねてからイスラーム教に批判的だったウエルベックは警察の保護下に入ったといういわく付きの物語でもある。また、同年11月13日に発生したパリ同時多発テロ事件の背景を理解する上で貴重な視点を提供する作品と称されることとなった(以上Wikipedia記事から切り貼り)。
幾つかの点で非常に面白い作品だった。まずこの作品が素直に近未来SFとして読めること。ウエルベックはこれまで『素粒子』や『ある島の可能性』といった作品の中で「遠未来」「新人類」といったSFモチーフを持ち込んでおり、それ自体は珍しくはないのだが、厳密に見るなら「SFモチーフを持ち込むことで発生する寓話としての機能」を利用しているだけに思えたのだ。やはり基本は文学なのである。
ところがこの『服従』は歴史に「IF」を導入しそこで思考実験する実にSF作品らしい体裁を持っている。それは例えば第2次世界大戦において枢軸国が連合国を破った世界を描くP・K・ディックの『高い城の男』や、「宗教団体を母体に持つとある政党」が政権を握った近未来日本を描く筒井康隆の『堕地獄仏法』の問題提起の在り方とよく似ている。というか、『服従』はまさにフランスの『堕地獄仏法』ではないか。
フランスにおける「世俗性」という概念
そういったSF的思考実験が根本にあるにせよ、ではなぜフランスにイスラーム政権なのか、という部分を考えるとこれがまた面白い。ヨーロッパ各国におけるイスラーム教徒問題は大なり小なりあるのだろうが、ことフランスにおいてはさきのシャルリー・エブド襲撃事件に見られるように深刻化している。それはフランス憲章にも書かれる「ライシテ」、即ち「世俗性」が、フランス国家の強烈なアイデンティティーとなっているからだ。「世俗性」とは「いかなる宗教からも独立的であるとする概念」だが、それは現在のフランスの民主主義の在り方と深く関わっているのだ。
フランスは絶対王政の間、カトリックが強い権力を持っていて、民衆が革命を通じて国民主権とともに信教の自由も勝ち取ってきた。それだけにいかなる宗教からも独立的であること、つまりライシテが重視されているのだ。
フランス国家の理念は「宗教からの独立」であり、そのためにはあらゆる闘争も辞さない。それゆえにイスラームによる分離主義(フランスに居住しながらフランスの政府や法律ではなく外部の考え方に従おうとする立場*1)と真っ向から対立する。そういった政治的背景がある中で「フランスにイスラーム政権が誕生した近未来」というのはあまりにあり得ないことであり、同時に途方もないことなのだ。この物語では、その「途方もない事」が大統領選における「(急進的な)ファシスト政権」と「(穏健な)イスラーム政権」の2択という究極の選択によって成立してしまうのである。このあたりのアクロバティックな「現実の捻じ伏せ方」はまさにSF話法に相応しい。
ヨーロッパの凋落
ではこの物語は「あり得ない、途方もない」ことのみを描くことが目的だったのか。そうではなく、このような国是とそれを生み出した歴史性を持ちながらも、それでもイスラーム政権誕生を可能にしてしまう、フランスという国家の弱体化、ひいては「ヨーロッパ世界の零落」そのものを描こうとしたのがこの物語ではないのか。
物語の主人公はユイスマンス研究に没頭する大学教授だが、知的ではあるが付和雷同型のノンポリであり、イスラーム政権誕生による大学のイスラーム化も多少厄介に感じながら一歩引いた眼で眺めている。ここでは例えばナチスドイツ誕生を許したヨーロッパ知識階級の弱体化を揶揄したものとも取れるし、またユイスマンスという19世紀末のデカダンなキリスト教作家について言及することにより、ヨーロッパにおけるキリスト教宗教の弱体化・陳腐化をも臭わすのだ。こういった重層的な構成により、ウエルベックはまたしても「ヨーロッパの凋落」を描き出すのである。