ミシェル・ウエルベックの『プラットフォーム』を読んだ

プラットフォーム / ミシェル・ウエルベック

プラットフォーム (河出文庫)

男ミシェル、41歳独身。父が殺された。けれど不思議と悲しみが湧かない。女ヴァレリー、28歳。旅行会社のエリート社員。思春期に他人への関心を失ったまま成長した。南国タイで、二人は出逢う―何気ない運命のように。原始的な性の息づく彼の地での洗練された愛撫は二人を感動させる。なにかが変わる。パリに戻り、二人は再会する。与え合う性と補い合う生の出逢いは、枯れ果てた人類にもささやかな幸せをもたらすかに見えた。おそらく人生初めての安らぎが、二人に訪れようとしていた…。

『プラットフォーム』は2001年に刊行されたミシェル・ウエルベックの第4小説である。物語の大枠となるのはセックス・ツーリズムだ。主人公であるフランス人男女はタイ旅行で出会い愛し合うが、同時にこの国が安価なセックスの宝庫であることに目をつけ、ヨーロッパ人相手の一大セックス・アミューズメントを築こうとする。

とはいえこの物語の本質にあるのはセックス・ツーリズムを露悪的に開陳するのではなく、またそれを批判的に糾弾するものでもない。いつものウエルベック小説らしくねっとりと粘膜質な性描写がこれでもかと描写はされるが、言うまでもなくウエルベック小説はポルノの扇情を目的としたものではない。では何かといえばこの物語は第1長編『闘争領域の拡大』から連綿と続く「性交渉の不均衡」とそれを生み出した「爛熟した西欧自由主義経済の果て」を描いたものとなるのだ。

自国内において性交渉の不均衡があるなら、じゃあ第3世界に行けばいいじゃないか!金さえあれば貧しい第3世界の女たちのXXXは食い放題だ!西欧自由主義経済万歳!……といった西欧人の傲慢がまず物語の底辺にある。だがしかしウエルベックが真に描こうとするのはその慢心ではなく、経済的な頂点に立ち近代文明の覇者となりつつも、結局は満たされることを知らず常に飢餓感に喘ぎ孤独に苛まれざるを得ない西欧人の限界とその虚無に満ちた生の在り方なのだ。

とはいえ今作において、主人公男性はいつものウエルベック小説の主人公の如く生々しい飢餓とルサンチマンを抱えた存在として登場しない。逆に、愛すべき心と肉体を持った恋人と充足しきった性生活を繰り返す、いかにも「覇者としての西欧人」として登場する。彼は己の満たされ切った立場を無自覚に謳歌し満喫するが、ある恐るべき事件が彼をどん底に落とすことになる。そしてここで彼は己の西欧人としてのアイデンティティの脆弱さを突き付けられることになるのだ。

この激しいコントラストを描き出すことによって物語は突然主題を露わにする。主人公は「覇者としての西欧人」ではあるが、同時に「社会に馴染めない自己」を抱えた男でもある。そしてその「馴染めなさ」とは、高度資本主義社会が個人にもたらしたマルクス的な自己疎外の形でもある。彼はその「馴染めなさ」を一人の女の愛によって克服したかに見えたが、最終的には同じ陥穽に落とされ、恐るべき辛苦に喘ぐことになるのだ。こうしてウエルベックは、またもや西欧人として生きることの懊悩を炙り出し、その悲哀に満ちた世界を提示することになるのである。