ミシェル・ウエルベックの『ウエルベック発言集』を読んだ

ウエルベック発言集/ミシェル・ウエルベック(著)、西山雄二(訳)、八木悠允(訳)、関大聡(訳)、安達孝信(訳)

ウエルベック発言集

詩人や文学者をはじめ、左翼知識人にフェミニスト、映画、音楽、建築、宗教……まがまがしくも目くるめく混乱した世界に「介入」するウエルベックの論舌は、鋭く、耳目を集める。 多種多様なジャンルを射程におさめた本書に通底するのは、「口撃」しようとする批判精神ではなく、人間性への関心だ。そこから浮かび上がってくるのは、書くことに愚直にむきあう人物の創作の秘密─「現実を観察し、未来を予測する小説家の哲学」である。冷笑よりも、素朴だが重要なメッセージが込められている。

「フランス文学界の問題児」ミシェル・ウエルベックによる『ウエルベック発言集』を読んだ。収録されているのは1992年から2020年にかけて発表されたエッセイや批評、社会時評、インタビューや対談、序文、芸術家との共作などとなる。発表媒体はフランスで発売されている様々な雑誌・新聞からで、これを発表順に並べて掲載している。

オレはウエルベック小説がたいそう好きで、評論も含め日本で訳出された書籍はほぼすべて読んだぐらいだ。だからこの『発言集』も読むのをとても楽しみにしていたが、実際読み始めるとこれがそうとうに手強い内容で、他の本と並行して読んでいたせいもあったが結局読み終わるのに1ヶ月ほどかかってしまった。

「手強い」というのはまずオレの読解力と知識レベルの問題なのだが、特に前半部において(オレにとっては)相当に難解な哲学論議をブチかましてくれており、読んでいたオレは白目を剥きながら「なにがなにやら」という状態であった。もうひとつは、この『発言集』においてウエルベックが取り上げ、または対談で語っている内容の幾つかが、非常にフランスのドメスティックな内容にかかわっており、扱われる人物にしてもほとんどが聞いたことのない人名ばかりで、これが取っつき難かったというのがあった。詩も掲載されていたがこれもまるで理解できなかった。

とはいえそれも前半の辺りまでで、後半に行くほどに「ウエルベック節」の炸裂するニマニマの止まらない内容になってくる。それは、ウエルベックの著作にリンクする形で読めるからであり、あの小説の背景にはこういった思考や思想が織り交ぜらていたのか、ということが透けて見えてくるのだ。先に触れたようにこの『発言集』は発表順、即ち年数を追って掲載されているので、「この発言はあの小説発表の前後のものだな」ということがだいたい分かってくるのである。そういった部分でウエルベック小説の解題として有用であると言えるだろう。

印象に残った「発言」を引用してみよう。

  • 私的な考察を一切排して人間を語るのだとする文学に、いったいどんな面白みがあるのか?(p158)」
  • 「自己について語るというのは面倒で嫌悪さえ催させる行為である。だが自己について書くというのは、文学においては唯一価値のあるもので、書物の価値は(中略)作家が自己をそのなかに持ち込む能力によって測られるのだ。(p158)」
  • 「世界を記述すること、現実という生き生きとして反駁の余地のない大きな塊を書き留めることで、私はこの塊を相対化する。(p162)」
  • 「私が独創性を発揮するチャンスは、(ボードレールの言葉を借りるなら)新しい紋切型を作り出すことにしかないのだから。(p211)」
  • 「地下鉄内の出会い系サイトの広告に冷やっとさせられたんだが、そこにはこうあった。「愛は偶然に訪れるものではない」とね。こう言いたくなったよ、「いやいや、せめて運命は取り上げないでくれよ」と。(p228)」
  • 「(人類をよりよくする)とはいっても限界がある。人間を適度に標準化するべきなんかじゃないんだ。なぜなら、善良でなければならないとしたら……君も僕も生きてはいないだろうからね!(笑)(p228)」
  • 「世界はあなたに何もできず、あなたは世界に何もできません。(p239)」
  • 「(パスカルについて)私はそれまで死と虚無の強力さについてそのように説明されるのを見たことがなく、そしてそれらの問いに対するパスカルの激烈さが文学において比肩するものがないままだと私には思われたからです。(p273)」
  • 「私はいかなる幸福にも宗教的本質があるという考えを曲げません。(p274)」
  • 細かいことでうんざりさせないでくれ、現実に関わって無駄にする時間なんかないんだ、どの道私は現実を誰よりもよく知っているんだから(p290)」
  • 「善は存在する、絶対に存在する、まさに悪と同等に。(p296)」
  • 「どう生きるべきかについて説明するよう作家たちに催促する権利を読者は絶対に持っている(p299)」
  • 生涯において少なくとも一人の人を幸福にすること、ただし、実際的に、つまり実効的におこなうこと、私はそれを教養あるすべての人への掟としたい。(p299)」
  • イスラムとの戦いはヨーロッパの長い歴史の一般的傾向の一つである。それが前面に戻ってきたというだけだ。(p303)」
  • アメリカ人はもはや地球の表面上に民主主義を広めようと試みない。そもそもどんな民主主義なのか。四年に一回、首長を選ぶために投票すること、それが民主主義なのか。(p305)」
  • ヨーロッパは人民の形成を望んでいないということだ。いずれにせよ、欧州連合(EU)が民主主義のために構想されたことなどなく、その目的はむしろ真逆であった。(p306)」
  • 「(新型コロナウィルスについて)なぜならこの感染症は、不安であると同時に退屈でもあるという快挙を成し遂げたのだから。(中略)要するに、特性の無いウィルスなのだ。この感染症がいかに毎日世界中で多数の死者をもたらしても、それでも出来事など起こらなかったという奇妙な印象を産んだ。(p337)」

ただ聞くところによるとウエルベックというのははぐらかし屋でその時々で「自分」を演じ、なかなか尻尾を見せない男なのらしい。そこがまた彼のシニシズムの発露であるという事なのか。だからこの『発言集』の「発言」なるものもどこまで鵜呑みにしていいのか判別できないのだが、彼なりの思考遊戯でありひとつの創作の形としての「発言」であるという受け取り方でいいのかも知れない。どちらにしろ思考の強度や知識の膨大さや教養の広範さや視点の鋭さに改めて感服させられ、読んでいて楽しめるし、やはりオレはこのオッサンが好きだな、としみじみ思わされた。

なによりウエルベックは第一に作家であり、その生み出すものは文学小説という作品である。そして文学とは人間の本質に迫ろうという意思であり、人間性への深い関心なのだ。この『発言集』を読んで感じるのは、彼の創作というものに対する非常に真摯な態度であり、それは透徹として純粋であるとすら思う。彼の描く作品の持つ時に過激なラジカルさ、筆禍だ舌禍だと喧しい評判のその裏側にあるのは、実は彼の文学に奉じるこの頑固とも言える態度から来ているのではないか。帯の惹句にあるウエルベックの「私が政治的に正しくなって、それで何が得られるのでしょう。」という言葉は、彼が小説を書く上での態度と決意を如実に示したものであると思えてならない。