素粒子/ミシェル・ウエルベック
人類の孤独の極北に揺曳する絶望的な“愛”を描いて重層的なスケールで圧倒的な感銘をよぶ、衝撃の作家ウエルベックの最高傑作。文学青年くずれの国語教師ブリュノ、ノーベル賞クラスの分子生物学者ミシェル―捨てられた異父兄弟の二つの人生をたどり、希薄で怠惰な現代世界の一面を透明なタッチで描き上げる。充溢する官能、悲哀と絶望の果てのペーソスが胸を刺す近年最大の話題作。
以前読んだ『短篇コレクション 2 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)』の収録作であるミシェル・ウエルベックの短編『ランサローテ』は、この短編コレクションの中でも群を抜いて面白かった。その乾いたシニシズムはヨーロッパ人として生きることの倦怠と限界を巧みに描き出していた。そんなウエルベックの長編を読んでみようと思い、最高傑作とか問題作とか謳われているこの『素粒子』を手にしてみたのだ。
物語の主人公は二人の異父兄弟だ。一人は非モテをこじらせ己の荒ぶる性欲を常に爆発寸前にしている教師ブリュノ。もう一人は天才的な分子生物学者でありながら生の実感に乏しく傍観者然として生きる男ミシェル。二人に共通するのは惨めで孤独な少年時代と決して成就する事の無かった初恋の痛み。この兄弟の数奇な運命を通して描かれるのは、文化も経済も爛熟し停滞を運命付けられた20世紀ヨーロッパ社会とその文明が迎える終焉の姿なのだ。
物語中盤までで徹底的に語られるのはブリュノのひたすら肥大し尽くした性への妄想と渇望、フリーセックスが目的で設えられたキャンプ施設でのあさましく奔放な行きずりの性だ。執拗に描かれるこれら性描写にはしかし、単なる「器官と器官の接合」を無機的に描くのみであり、そこに扇情もエロティシズムも当然愛もなく、ただ暗黒の淵の如きブリュノの孤独と空虚と遣り切れなさばかりを浮き彫りにしてゆくのだ。
だが作品はこれをブリュノ個人のみの性向として捉えない。20世紀後半、大量消費社会となったヨーロッパは性的開放を含むあらゆる欲望の充足を肯定したが、同時にそれは旧弊な宗教倫理と共同体を破壊し、それにより個々の人間はただ蕩尽することを生きる目的として課せられた存在と化してしまった。異性の肉体をどれほど貪ろうとも決して満足することのできないブリュノの飢餓感と虚無は即ち、この大量消費社会の陥穽を暗喩したものなのだ。
一方ミシェルはあまりに知的過ぎるがゆえにこのような社会から一歩身を引き、純粋なる理論と合理性にのみ心を許す男だ。そのような男だからこそ逆に人として生きることの微妙な機微が分からない。ロマンスが生まれることもあるがそれも決して上手くいきはしない。ブリュノがこの世に愛など存在しないかの如く生きているのとは別の形で、ミシェルには理論でも合理でもない愛というものが理解できず、それゆえに苦悩する。
ブリュノやミシェルだけではなく、この物語に登場する多くの者たちが、欲望と孤独の狭間で翻弄され、何一つ充足を得られぬまま、己の失敗した人生をヒリヒリと意識しつつ生き続けている。そうしてただ歳を重ね、衰えてゆく肉体と精神に絶望と恐怖を感じながら、どうしようもなく途方に暮れている。輝かしくもまた芳しかった青春は遥か彼方へと潰え去り、今ここに残っているのはただただ死への恐怖とその理不尽な運命への呪詛のみだ。そこには望みもなく救いもない。陰鬱である。これはとてつもなく陰鬱な物語である。そしてこの陰鬱さは遍く行き渡った自由と豊かさの結果でもある。
しかし物語はただ陰鬱のみに沈んで終わろうとはしない。なんと物語はクライマックスにおいて突如SF的な乱調を迎えるのだ。だがこれはSFというよりもスリップストリーム文学的な飛躍と言えるだろう。ここでなぜ主人公ミシェルが分子生物学者であり、タイトルが『素粒子』なのかに関わることとなる。物語にある種の救いをもたらすこの展開は、なんとエヴァンゲリオン的な人類補完計画の別称だ。しかし「取って付けたよう」にも思えるこの結末は、フランス作家らしい諧謔かあるいは醒めきったペーソスなのかもしれない。
ミシェル・ウエルベックの『素粒子』は、現代に生きる人間存在の惨めさを徹底的に活写し、その背景にある資本主義社会に唾を吐き掛け、西欧文明の終焉を宣言し、最期に実存主義的人類補完計画を発動させる。実にアクロバティックで十分に知的であると同時に、生々しい悲哀に満ちた文学作品であった。