ミシェル・ウエルベックの最新長編『滅ぼす』を読んだ

滅ぼす(上)(下) / ミシェル・ウエルベック(著)、野崎歓(訳)、齋藤可津子(訳)、木内尭(訳) 

滅ぼす 上 滅ぼす 下

謎の国際テロが多発するなか、2027年フランス大統領選が行われ、経済大臣ブリュノと秘書官ポールはテレビタレントを擁立する。社会の分断と家族の再生。絶望的な世界で生きる個人の自由の果てを描く作家による現代の愛の物語。フランス発の大ベストセラー。

フランス文学界の風雲児であり問題児でもあるミシェル・ウエルベックの最新長編小説である。タイトルは『滅ぼす』、なにやら不穏であり不安にさせるタイトルであり、いったい何が何を”滅ぼす”のか、最後まで意識して読まされることになる。そして今作はウエルベック小説最長の作品となり(日本刊行版は上下2分冊)、さらにウエルベック小説らしからぬ淡々として平易な展開に冒頭から驚かされ続けることになる。この『滅ぼす』で描かれるもの、それは言うなれば「家族の肖像」だからだ。

主人公ポールは政府秘書官であり、その生活はウエルベック小説の殆どの主人公と同じようにブルジョアのもので、さらにウエルベック小説らしく結婚生活は冷め切っている。そのポールの父親が脳梗塞で倒れ、それによりポールの弟妹とその家族、父親の再婚女性が病院へと集まり、ここで家族間の様々な来歴や問題がひとつのドラマとして描かれることになる。そこには新たなる衝突も描かれるが、基本的には「家族の再生」が基調となっている。それにしても「家族の再生」などといったドラマはある意味平凡であり、さらに今までのウエルベック小説では登場もしなかったし、おおよそウエルベック小説では考えられなかった展開ではないか。そのドラマ自体は決して飽きさせずに読むことはできるにせよ、いったいウエルベックは何を描こうとしているのか?という興味で虎視眈々と物語を読み進めることになる。

粗筋にある「謎の国際テロ」は確かに描かれるが、それは「西欧先進国社会の常に不安と不穏に満ちた生活」の象徴的なものとして扱われ、最終的に物語とどう関わってくるのか、読み進んでみてもはっきりとは分からない。政界の内幕や選挙戦の熾烈さも描かれるが、これもフランス社会のハイソサエティが担う仕事のひとつであるといった背景の如き設定で、これもまた物語内容にどう寄与するのかはっきりとは分からない。さらに主人公が見る夢が何度も描かれることになるが、これも何かの象徴なのか何の意味も無いのか、やはりよく分からない。今回の『滅ぼす』では、こういった奇妙に漠然として曖昧な「仕掛け」が多々用意されており、その描写が何度も繰り返されることで「これはいったい何なんだ?」と常に微妙な違和感を感じさせることになるのだ。

さらに「神と信仰および宗教」がはっきりと描かれることにも驚かされる。それも否定的でも批判的なものではなく、かといって肯定的であるということではないにせよ、「人は信仰を持ち宗教と神の存在を必要とするものでもある」といった描かれ方だ。たとえばポールの妹は敬虔なカトリック信徒であり、それにより人生に前向きで、(ウエルベック小説によく登場する)腑抜け白人男の主人公を叱咤する場面さえある。さらにポールの妻もニューエイジ的な新興宗教を信仰しており、ポール自身はそれをまるで嫌うことなく受け入れ、あまつさえ興味まで持つ。こういった描写がまたウエルベック小説では破格な事であり、さらにヨーロッパでも著しく信仰率の低いフランスでは奇妙とも感じる描写である。

通奏低音のように描かれる「西欧先進国社会の常に不安と不穏に満ちた生活」、その背景の上に物語られる「家族の再生」と「神と信仰および宗教」。それは何なのか。それは「最期の、なけなしの希望」という事に他ならないのではないか。

ウエルベックはその処女作から常に一貫して西欧先進国社会で生きることのニヒリズムシニシズムを巧みに描いてきた。その中心となるのは愛と性の不均衡でありそれが経済行為となっていることへの怨嗟だった。愛と性は人が人として生きるための根幹だが、高度に発達した経済社会はその生きる根幹を貨幣の如く取り扱い、愛は経済戦争と化してしまった。そういったことへの憤怒と苛立ちがウエルベック小説だった。

だがそのルサンチマンは前作『セロトニン』において虚無の孔の中に吸い込まれてしまう。『セロトニン』で描かれたのは肉体と精神のインポテンツであり、その不能は「老い」によって導き出されたものだった。それは同時に60歳を過ぎた作者ウエルベック自身の「老い」に対する心情吐露でもあった。あれほど狂おしく燃え盛った愛も性も既に費え去り、全てが不能と化してただ老いていくだけの虚無。それは愛と性の無き後に人生には何も残っておらず、ただ「死」が待ち構えているだけという虚無だ。

そして『セロトニン』の後に描かれたこの『滅ぼす』において、もう一つ、そして最も重要なテーマとなるのは、この「死」なのである。それこそが『滅ぼす』というタイトルと呼応するのである。デビュー時より「愛と生の無常」を描き、『セロトニン』で「老いの無常」を描いたウエルベックは、この『滅ぼす』で遂に「死の無常」へと辿り着くのである。

しかしここでウエルベックは、「死」が待ち構えるだけの「老い」の中に、「なけなしの希望」を見出そうとする。それは「家族」の存在であり、その家族をもう一度愛する事であり、不確かで不条理な生に「神と信仰」による救いもまた必要なのだという達観である。「西欧先進国社会の常に不安と不穏に満ちた生活」を描き続けてきたウエルベックが今、現在進行形で導き出したもの、それはたとえ虚無の中に在ろうと、最期に「死」のみが待ち構えていようと、それでも愛し希望し続けるのだ、ということだったのだ。

ウエルベックの最新作となるこの『滅ぼす』は、自らの生と死の在り様に正面から向き合った、一人の文学者として非常に真摯な態度でもって描かれた作品だと思えてならない。ウエルベックは進化し続ける。