セロトニン / ミシェル・ウエルベック
巨大化企業モンサントを退社し、農業関係の仕事に携わる46歳のフロランは、恋人の日本人女性ユズの秘密をきっかけに“蒸発者”となる。ヒッチコックのヒロインのような女優クレール、図抜けて敏捷な知性の持ち主ケイト、パリ日本文化会館でアートの仕事をするユズ、褐色の目で優しくぼくを見つめたカミーユ…過去に愛した女性の記憶と呪詛を交えて描かれる、現代社会の矛盾と絶望。
【セロトニン】とは脳内の神経伝達物質のひとつである。生体リズム・神経内分泌・睡眠・体温調節などの生理機能と、気分障害・統合失調症・薬物依存などの病態に関与しているほか、ドーパミンやノルアドレナリンなどの感情的な情報をコントロールし、精神を安定させる働きがある。
2019年に刊行されたミシェル・ウエルベックの『セロトニン』は彼の8番目の長編小説であり、今のところの最新作である。
中年男フロランは交際中の女が性的に奔放過ぎることにうんざりし、さらに生きる事にもうんざりしていたので蒸発することにした。資産を十分に持ち食うに困ることのない彼はホテルで隠遁生活を始める。そんな中彼の胸に去来するのは、過去に愛し合った幾人かの女たちだった。彼は試みにその女たちに会おうとするが、手にするのは幻滅と辛い記憶だけだった。
最新長編『セロトニン』において、ウエルベックはこれまでのような過剰な性描写、性への渇望を描いていない。むしろ描かれるのは、過去に関係を持った女たちへのいじましいほどの未練であり、多分存在したのであろう愛の記憶であり、その愛を失ったことの惨めさである。今の人生が空っぽな人間が、幸福だった過去の記憶にすがり、その記憶を反芻することによってしか、生きることの苦痛から逃れられない。まあなんというか、憐れというか情けないというか、「終わってんなコイツ」というおっさんが主人公の物語である。
しかしウエルベック小説は、こうした個人的と思える懊悩を描きながら、それを社会と世界に投影させ、それ自体が時代性を映し出した心情として扱うことが上手い。この場合も、その懊悩が投影されるのは、繁栄の過去を持ちながら今まさに凋落してゆくヨーロッパの姿であり、そこに生きる者の心情である。例えばこの物語には、主人公の友人として元貴族階級の男が登場するが、彼は農民として活路を見出そうとしながら、政府の農業政策の失敗により絶望の淵に立たされている。彼のこういった立場や心情もまた、斜陽化したヨーロッパの姿が如実に反映されていると言えないか。
もう一つ、この『セロトニン』は「不能」についての物語でもある。それは肉体的な意味でもあり精神的な意味でもある。主人公は鬱病治療薬の副作用としてインポテンツを余儀なくされている。さらに彼は現実社会に対するコミットを全て放棄した男であり、それは社会的に「不能」であるということだ。ではその「不能」を描くことで導き出そうとしているのはなにか。それは「老いる」ということではないか。
「性的対象を奪取するための戦いとその不均衡」を描いた処女長編『闘争領域の拡大』を刊行した時、ウエルベックは30代半ばだった。まだまだスタミナに溢れホルモン分泌の盛んな30代白人男が己の性的欲求や性的ファンタジーと苦闘し怨嗟を上げるのは十分理解できる。「性的欲求との死闘」はウエルベックの一つのテーマですらあった。ところがこの『セロトニン』を執筆した時、彼は既に60代である。それはまあ、枯れてくるし、衰えてもくるだろう。それは「不能」に近いほどの減退かもしれない。もはや狩りをするように性的対象を求め歩く体力も気力もない。ただあるのは、愛に似た何かの記憶だけであり、それが今この手に残されていないことの寂しさと孤独である。
愛した者はすべて過去にしかおらず、今ここにあるのはただ老いてゆくだけの自己であり、未来に待つのは今と変わらぬ孤独と確実な死だ。そして自分は「不能」であり、喜びを得るためにできることは何一つない。こうしてウエルベックは、またもや寂寥たる生の荒野を描き出すのだ。