マノン・レスコー /プレヴォ(著)、野崎 歓 (訳)
将来を嘱望された良家の子弟デ・グリュは、街で出会った美少女マノンに心奪われ、駆け落ちを決意する。夫婦同然の新たな生活は愛に満ちていたが、マノンが他の男と通じていると知り…引き離されるたびに愛を確かめあいながらも、破滅の道を歩んでしまう二人を描いた不滅の恋愛悲劇。
良家に生まれた青年デ・グリュが類稀なる美貌の娼婦マノンに恋をし、破滅への道を突き進む様を描いた恋愛劇である。プッチーニの歌劇でも有名。それにしてもまた「至上なる愛の為に全てを捧げ尽くして自滅してゆく男」の物語か、フランス文学こういうの好きだよなあ、と思ったのである。なにしろ物語展開が凄い。これがもう不幸不幸不幸の連続、主人公が人生から徹底的にダメ出しされ続ける展開はあまりにもあまりのドツボ状態で、これは笑ったらいいのか呆れたらいいのか判断に苦しむほど。
主人公デ・グリュはマノンに尽くすため家を捨て駆け落ちするが、金に困って賭博や詐欺に手を出し、父親や友人から無心を繰り返し、挙句に殺人まで犯すのだ。その度に収監されるが脱獄し、マノンと逃避行を重ねるのである。あまりにデタラメで無茶苦茶な生き方だが本人は「愛は全てに優先する!愛こそが全て!」と反省のハの字も無い。この目先の事だけに囚われた「考えなし」の生き方は実のところ「単なるガキがイキッてるだけ」の話だ。要するに稚拙なだけであり、それを「愛」で言い訳しているのだ。
一方マノンはというと、これが「天然」「ナチュラル・ボーン」としか言いようのない娼婦で、あっけらかんとした無垢さと動物的な快楽原則に条件付けられていて、お金に困ったら私がパトロン見つけるから!と明るく行動に移す(そしてデ・グリュは「ウキー!」と嫉妬する)。「男を破滅させる魔性の女」といった部分ではファム・ファタールではあるにせよ、考えや行動に計算高さや悪気が無い分「悪女」でもなく、ある意味デ・グリュが勝手に破滅したとも言えるのだ。きっとマノンはデ・グリュと出会わなくとも楽しく娼婦を続け、適当に老いて野垂れ死んだだろうが、それはそれで生き方だろう。
とはいえ火曜サスペンスでも見せられているかのように波乱続きの物語は読んでいて飽きなかった。ちょっとうんざりもしたが。プレヴォ,アントワーヌ・フランソワ(1697-1763)はこの作品によりロマン主義文学の始まりともされる作家である。
恐るべき子供たち/ジャン・コクトー (著)、佐藤朔 (訳)
享楽的で退廃的なムードが漂う第一次大戦後のパリ。エリザベートとポールの姉弟は、社会から隔絶されたような「部屋」で、ふたり一緒に暮らしていた。そこへポールの級友ジェラールが入りこみ、さらにエリザベートの親友アガートも同居をはじめる。強い絆で結ばれながら、傷つけあうことしかできない4人。同性愛、近親愛、男女の愛…さまざまな感情が交錯し、やがて悲劇的な結末を迎えるまでの日々を描いた小説詩。
主人公となるエリザベートとポールの姉弟に両親はいなかったが、その遺産により生活には何一つ困らなかった。そして持ち家に閉じこもったまま空想に満ちた「子供たちだけの世界」が展開するのがこの物語である(子供たち、とは言っても10代半ばだが)。それは同時に「大人によるくびきの無い世界」であり、「社会からの強制や条件付けが介在しない世界」でもある。その中で主人公たちは野蛮で残酷な子供である事を謳歌するが、それはどこまでも危うく、最後には壊れてしまうのだ。無限のモラトリアムの中で子供が際限なく自由気ままに子供であり続けると、精神的に未成熟であり未分化であるがゆえに最後に破綻を起こしてゆく、という事なのだろう。ある意味ゴールディングの『蠅の王』をもっとソフトにし、パリにある孤絶した家で展開した作品とも言える。とはいえその筆致は非常に詩的であり幻想的であり、退廃に溺れタナトスに取り憑かれた子供たちが破滅してゆく描写は実に蠱惑的だ。子供の持つイタさを徹底的に肯定しそれを舐めるように描いたのがこの物語であり、永遠に子供でいたい者にとっての逃避文学としても読める。コクトー、ジャン・モリス・ウジェーヌ・クレマン(1889-1963)は詩人としても知られている。