フランス文学探訪:その16/ロブ=グリエ『消しゴム』

消しゴム / アラン・ロブ=グリエ(著)、中条省平(訳)

殺人事件発生の報せを受けて運河の街にやってきた捜査官ヴァラス。しかし肝心の遺体も犯人も見当たらず、人々の曖昧な証言に右往左往する始末。だが関係者たちの思惑は図らずも「宿命的結末」を招いてしまうのだった。“ヌーヴォー・ロマン”の旗手、ロブ=グリエの代表作。

「フランス文学」をあれこれ斜め読みする企画を続けているが、いよいよ佳境を迎えたのが今回読んだロブ=グリエ作の『消しゴム』である。どのように佳境を迎えたのかというと、読んでいて何が面白いのかさっぱり分からなかったからである。

アラン・ロブ=グリエ(1922‐2008)は第2次世界大戦後のフランスで興った前衛的な文学運動「ヌーヴォー・ロマン」の代表的作家であり、映画『去年マリエンバートで』の脚本や『不滅の女』などの映画監督も務めた人物である。

ロブ=グリエの提唱した「ヌーヴォー・ロマン=新しい小説」とは何か。それは「アンチ・ロマン」という別称もあるように、「ロマン」を否定した文学である。「ロマン」というのは「ロマンティシズム」といった意味ではなく、それまでヨーロッパで一般的だった「ロマン主義」的な文学作品を指す。それは主観や感受性に重きを置いた運動であったが、それ自体が18世紀末まで主流だった、理性と合理主義を尊重する「古典主義」へのアンチテーゼであった。

その中で「ヌーヴォー・ロマン」が成し得ようとしたのは、「(ロマン主義的な)人間の主観に過ぎないものを客観的な制度のように装う文章の在り方を徹底的に批判すること」(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』)であり、「19世紀に完成されたリアリズム小説の約束事にことごとく根源的な疑問を突き付ける挑発的かつ実験的姿勢」であった(ここまで鍵括弧内は本書解説からの引用だが、書き写しながらオレ自身は意味がよく分かっていない)。

とはいえ、「主観を徹底的に排した文章」とはどのようなものなのだろう。そもそも「全てを客観的に描く」ことなど可能なのだろうか。それは科学でいう所の観察者効果と同様で、観察するという行為、客観的描写を成そうとする「恣意性」が観察される現象に影響を与えてしまう、即ち非客観的な描写となってしまうことに他ならないのではないか。その辺りがオレにはピンと来ない理由なのだ。

そこでロブ=グリエが『消しゴム』で成したのは「推理小説のパロディ」という形である。この作品では推理小説の体裁を取りながら推理小説的な構造をあえて解体させている。つまり主観を排して全ての事象をあからさまに客観視すると「推理小説」という文学形式が持つ構造(推理を主軸とする意図的な恣意性)が解体してしまうのである。その主観性の解体こそが「ヌーヴォー・ロマン」ということなのらしいが、一つの試みとして「興味深い」ものではあれ、《物語》として読もうとすると「あんまおもろない」ということになってしまう。というかそもそも全ての《物語》が「ヌーヴォー・ロマン」化したら、それはもう文学自体が存続しなくなるだろう。

といった部分で、「《物語》の在り方に一石を投じた」思想であっても、それ自体が「新しい《物語》の主流」には成りえない性質を持っているという点において、「ヌーヴォー・ロマン」とは一過性の思考実験だったのではないかな、と思えた。とはいえ、ロブ=グリエのこういった思想は、海外ではポール・オースター、日本では安部公房らに影響を与えているらしく、また筒井康隆にもその片鱗が見られるといった点で、それなりに意義と重要性はあった、ということは文学史的に覚えておくべきなんだろう。