フランス文学探訪:その15/サルトル『嘔吐』

嘔吐 / J‐P・サルトル (著)、鈴木 道彦 (訳)

港町ブーヴィル。ロカンタンを突然襲う吐き気の意味とは…。一冊の日記に綴られた孤独な男のモノローグ。60年ぶり待望の新訳。存在の真実を探る冒険譚。

『嘔吐』はフランスの哲学者、小説家、劇作家であるジャン=ポール・サルトル(1905-1980)が1938年に著した小説である。そしてこの著作は実存主義聖典の一つとして認識されているのらしい。実存主義現代思想用語である。あまりきちんと理解していないのでWikipediaをコピペすると「人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想」ということになっている*1。ううむよく分からない。いったいどういうことなのだろうか、自分なりに考えてみる。

一般にこの著書は「サルトル実存主義の書」とされているが、確かに実存主義を説明するが如き記述はあるにせよ、決してそれのみを記した書ではない。そもそも「サルトル実存主義の書」という事であれば、同じくサルトルの『存在と無』あたりでも読めばいいのではないか(知らんけど)。というのは、この書は「サルトル実存主義の書」という以前にまず小説であり物語であるからだ。そして実際、この『嘔吐』はサルトル実存主義構築以前に書かれた著作であるのらしい。だから思想として整理されているものではないのだ。

そしてその物語というのは、一人のうらぶれたインテリ中年男性の無為なる日々であり、その孤独であり、成就し得なかった愛の記憶であり、それによる悲哀と寂寞感であり、そのような自らの人生への呪詛に他ならない。このヒリヒリとした危機的な生の実感から、あるいはその実相から、主人公=恐らくはサルトル自身は、現実認識というものに対する局所的な破断を起こす。その破断の肉体的発露が「吐き気」であり、その実感となるものが実存あるいは実存主義であったという事なのではないのか。

『嘔吐』が出版されたのは1938年、それは1939年に勃発した第2次世界大戦の前夜であり、同時に両大戦の狭間の時期であるということができる。「両大戦間期」と呼ばれるこの時期、フランスでは第1次大戦後の労働力不足を補うための外国人労働者流入が逆に排外主義を勃興させ、さらに1929年のNY株式暴落がフランス経済に波及し、社会情勢は不安定化していた。1936年には左翼内閣が成立したが、反体制派としての極右勢力も力を持ち始め、フランスは社会的にも政治的にも分裂の危機にあった。そして隣国ドイツではナチ政権が領土拡張に邁進し始めていたのである。

こういった中で近代的自我の危機を迎えたフランスの精神性が、それまでの先験的な「人間性の在り方/人間と世界の関係性の在り方」にもはや与する事ができなくなってしまった、というのが『嘔吐』執筆の背景にあったのではないか。そしてそのような「危機的な生の実感」にさらされる事で生成された、「新たなよすがとするべき自己認識の在り方」が実存主義として構築されていったのではないか……などと浅学ながらちょっと考えてみたのであった。

まあ、小説として読むとそれほど面白いものでもないのだが、少なくとも一人の強力なインテリが一つの思想を生み出す切っ掛けを掴むまでを描いた物語として読むなら、その予想に反して明るいラストも含めて、意義深い作品ではあったと思う(ちょっと偉そうに)。とは言いつつ、実存主義についてははもやっとした印象のみで、結局把握しきれなかったですスイマセン。