フランス文学探訪:その19/パスカル『パンセ』

パンセ / パスカル (著)、前田陽一 (訳)、由木康 (訳)

近代科学史に不滅の業績をあげた不世出の天才パスカルが、厳正で繊細な批判精神によって人間性にひそむ矛盾を鋭くえぐり、人間の真の幸福とは何かを追求した『パンセ』。時代を超えて現代人の生き方に迫る鮮烈な人間探求の記録。パスカル研究の最高権威による全訳。年譜、重要語句索引、人名索引付き。〈巻末エッセイ〉小林秀雄

あれこれとフランス文学を読む企画を続けているが、いよいよ終盤戦、今回と次回とで終わりとすることにしている。そしてその終盤の「ボスキャラ」の一つとして選んだ本はパスカルの『パンセ』である。「人間は考える葦である」、あるいは「クレオパトラの鼻がもし低かったら」という誰もが知るあの有名な言葉が記された著作だ。

ブレーズ・パスカル(1623-1662)。フランスの哲学者であり、同時に自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家など様々な顔を持つ天才肌の哲人である。「パスカルの定理」「パスカルの三角形」「パスカルの原理」といった言葉を聞いたことがある方も多いだろう。

そのパスカルが記した『パンセ』は、実は死後発見された順序不明の断片的なノートを、研究家の手によって編纂したものだ。もともとは当時のイエズス会を批判した『キリスト教護教論』という書物を完成させるための準備ノートであったらしいのだが、39歳という若すぎる死によって未完成のまま遺されたのだ。ちなみに「パンセ」とは「思索」の意味であり、その正式なタイトルは『死後、書類の中から発見された、宗教およびその他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(思索)』となる。

そしてその内容というのは、その鋭利な知性と卓越した批評眼によって記された、人間の生とその本質についての深淵なる考察であり、同時にパスカルキリスト教信仰に対する燃え盛る様な熱情と、その一片の曇りもない正しさとを詳らかにした文章によって構成されている。しかもオレの読んだ中央公論社文庫版700ページ余りのその4分の3ぐらいが、これらキリスト教信仰に関わる文章で成り立っているのだ。さらにそれが旧約・新約聖書を熟読し熟知していることが前提で書かれていることから、かの宗教への知識も信教もなく、もちろん聖書も読んだことのない自分には殆どの部分でチンプンカンプンだったということはここに告白しておく。

そういった意味で「『パンセ』を読んだ」というよりも「一応最後まで目を通した」程度のお話で大変恐縮ではあるのだが、「よく分からない」内容だったからこそ「なぜこんなことをこんな風に思いこんな風に書くのだろう?そしてこんな風に思いこんな風に書くパスカルという人はいったいどんな人だったんだろう?」ということをずっと考えながら読んでいた。そして「こんな風に思わせるキリスト教と言うのは当時どんなものだったのだろう?」とも思った。聖書は読んだことはないが、今回の『パンセ』における膨大な聖書引用を読むことで、今までの人生で最も聖書の内容に接してしまったとも言えるからだ。

なにしろ読んでいて、パスカルの、時として火を吐くかの如きキリスト教への熱い想いが、圧倒的なまでに胸に迫ってくる瞬間があるのだ。キリスト教信仰の無いオレですらここまで引き込まれたのだから、それは相当なものだと言っていい。それはただ敬虔な信仰を持っていたという事だけではなく、『パンセ』が書かれた17世紀の時代背景にも理由があったのらしい。

17世紀、それはパスカルと同時期に活躍したデカルトに代表されるように、科学合理主義の胎芽が芽生え、同時にイエズス会教義が弱体化し始めた時代でもあった。それによる無神論者と自由思想家の台頭に強烈な危機感を感じていたからこそ、パスカルの論調はあそこまで激しく、憂いに満ち溢れた崇高なまでの文章を書かせたのだろう。そしてそれはただ強烈な信仰心のみによるものではなく、パスカルという稀代の天才の、その持てる思考力と論理性でもって書き綴った文章であればこそだったのだろう。

特に断章793の「3つの秩序」の一節などはその最たるものだ。

あらゆる物体、すなわち大空、星、大地、その王国などは、精神の最も小さなものにもおよばない。なぜなら、精神はそれらすべてと自身とを認識するが、物体は何も認識しないからである。

あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらのすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。これは無限に高い秩序に属するものである。

あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。それは不可能であり、ほかの秩序に属するものである。あらゆる物体と精神から、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、ほかの超自然的な秩序に属するものである。

『パンセ』p599

これらは当然「キリストの愛(の持つ超自然性)」として書かれたものなのだろうが、しかしそこから離れて考えたときに、人間存在とその精神および思考の独自性、そしてその崇高さを導き出したものだとは受け取れないだろうか。

ちなみにあの有名な「考える葦」のある断章347はこのようなものとなる。これも長いが引用してみる。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すには十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない時間や空間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

『パンセ』p250~251

考えること、考え続けることで尊厳を導き出すこと、それが道徳であるということ。非常に鋭敏な一節であり、これらは単純なアフォリズムとしていくらでも引用することは可能だろう。だがこうも考えられないだろうか、若き頃より病弱で「自然の中で最も弱いもの」であったパスカルが、その限りなく死に近い宿命を「考える」ことで跳ね除け「尊厳」を持ち続けようとしたことから生まれた一節ではないかと。そして「自分が死ぬこと」の受け皿となるのは「キリストの愛」なのだ。パスカルの『パンセ』は、「考え続けること」を己の存在理由として課した天才パスカルの、その人生と宿命について書かれたものだとも言えないだろうか。

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最後に余談となるが、自分は高校生の頃、それほど頭の出来が良くなかったにもかかわらず、なぜか知的なものに興味を持つオコチャマだった。そして書店でたまたま手にした『パンセ』の一節に惹かれるものを感じて購入し、それをいつも持ち歩いていた。持ち歩いてはいたが、読んではいなかった。最初のページからまるで理解できなかったからである。ガキだったしな。持ち歩いていたのは単に「パスカルの『パンセ』を持ち歩く自分」という間抜けなナルシシズムを満足させたかったからだ。イタイ奴だったのである。そんなオレがあれから40年余り後、ブログ企画として実際に『パンセ』を読む(というか「一応最後まで目を通した」)ことになるとは思ってもみなかった。人生とは不思議なものである。

なお、今回は副読本としてNHK「100分de名著」ブックス「パスカル パンセ」を若干参考にさせてもらったが、どことなくサラリーマン処世訓的な内容で、重厚長大な『パンセ』の後に読むと書籍の薄さなりの内容に感じたのは無いものねだりだったろうか。