ドン・ジュアン/モリエール (著)、鈴木 力衛 (訳)
女たらしの不信心者が、さんざん悪いことをしたあげく、最後には神の怒りにふれて、雷に打たれて死ぬ……このドン・ジュアン伝説を下敷きにして、徹底した快楽の追求者、無神論者、偽善者としての新しい性格を盛り込んで作り上げられ、大当たりをとったモリエールの快作。
17世紀ブルボン朝時代の劇作家モリエールの戯曲。短いので今回『ドン・ジュアン』『人間ぎらい』の2作を読んでみた。
さてこの『ドン・ジュアン』、女たらしの代名詞である「ドン・ファン」を戯曲化したものとなる(ドン・ファンのフランス読みがドン・ジュアン)。ドン・ファンはもともと17世紀スペイン戯曲の登場人物だったが様々な国で作品化され、モーツアルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』、バイロンの詩『ドン・ジュアン』、シュトラウスの管弦楽『ドン・ファン』と枚挙に暇がない。それだけ女たらしの物語というのは人類の(というか殿方の)永遠のテーマなのだろうか。というか己の女好きの性分をドン・ファンの性癖に当てはめて正当化したい!という心の叫びなのような気もする。
繰り返すがモリエールの『ドン・ジュアン』は戯曲であり、そして喜劇である。主人公ドン・ジュアンの女好きの様は男であるオレですら読んでいて「こいつ大丈夫か」と思ってしまうほどだ。気に入った女性を見つけたならすかさず口説き間髪入れずに「結婚しよう!結婚しよう!」と連呼する。そしてその舌の根が乾かぬうちに次の女性を口説く始末。限りなくシモの欲望に忠実な無節操極まりない男なのだ。
そんなドン・ジュアンは当然ながら重婚の現行犯であり、様々な女性の恨みを買い、この物語でも怒り心頭に達した近親者が命を狙ってやってくる。ドン・ジュアンに嫌々ながら付き従い心にもないお追従を繰り返す従僕・スガナレルの終始うんざりした調子がまた可笑しい。こうしてドン・ジュアンの物語は大いなるドタバタの中で物語られるわけだが、アンモラルであるとはいえその破天荒さが魅力となる物語なのだろう。ちょいと設定を弄れば現代でも十分通用する普遍的なしょうもなさがある。
モリエール(1622-1673)は筆名であり本名はジャン=バティスト・ポクラン。
人間ぎらい /モリエール (著)、鈴木豊 (訳)
潔癖で、世の不正を憎み、いっさいの妥協を許さない青年アルセストが、美しい浮気女の未亡人セリメーヌにほれてしまう。友人のフィラントの忠告もどこへやら、「理性は恋を支配するものではない」と、にべもなく、それをはねつける。だが、結局、この恋はみのらない……モリエールの代表喜劇のひとつ。
潔癖な性格の主人公アルセストが惚れた女セリメーヌの八方美人振りや周囲の人間の俗物ぶりにうんざりし続けてゆく、という物語である。とはいえアルセスト、潔癖なのはいいが馬鹿真面目で真っ正直で、見方を変えるなら融通の利かない朴念仁だということもできる。
セリメーヌは八方美人ではあるがそれはサロンの中で己の立場を固辞するための処世術でもあったであろうし、さらに言うなら単純なアルセストより数段頭の回転が速く状況をよく見極める女性で、食えない人間ではあるがある意味「大人」なのだ。サロンの俗物たちとて褒められた人間たちではないが、そんなものは放っておいて己の求めるものを探求すればいいではないか。
にもかかわらず潔癖ぶりばかり振り回すアルセスト自身が実は滑稽で、ドン臭く思えるのがこの物語であった。こうしてアルセストは「人間ぎらい」ならぬ「人間不信」に至ってしまうわけだが、何事も度を越した「潔癖さ」や「正しさ」は己の首を絞める諸刃の剣ではあるという意味において、昨今のSNS界隈の言説の在り方を思い浮かばせたりもした。