フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊 (監督:ウェス・アンダーソン 2021年アメリカ映画)
鬼才ウェス・アンダーソン監督の最新作
『グランド・ブダペスト・ホテル』『犬ヶ島』など、スタイリッシュかつ奇抜な映像の作品を制作し続けるウェス・アンダーソン監督の最新作です。物語は架空の雑誌に載る架空の事件・文化記事を映像化した、という体裁になっています。
【物語】1975年。アメリカ中西部の架空の新聞『ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン』は、世界中のジャーナリストがオリジナリティあふれる記事を寄稿する、架空の別冊雑誌を持つ。それが1925年創刊の『ザ・フレンチ・ディスパッチ』である。フランスの架空の街アンニュイ=シュール=ブラゼに編集部があり、世界50か国で50万人の読者をかかえている。創刊者で編集長のアーサー・ハウイッツァー・Jr.が急死したことで、彼の遺言どおりに雑誌を廃刊することが決まる。
新聞社・雑誌社というのはあくまで「大枠」で、映画では雑誌掲載されたとする3つのエピソードが描かれることになるんですね。いわばオムニバス映画なんですよ。
その内容に触れる前に、特記すべきことがあります。この作品、出演者が超豪華なんですね!掻い摘んで並べてみますと:
ベニチオ・デル・トロ、フランシス・マクドーマンド、ジェフリー・ライト、エイドリアン・ブロディ、ティルダ・スウィントン、ティモシー・シャラメ、レア・セドゥー、オーウェン・ウィルソン、シアーシャ・ローナン、リナ・クードリ、ビル・マーレイ、エドワード・ノートン、マチュー・アマルリック、ウィレム・デフォー 他
……という眺めてるだけでも鼻血が出そうになるメンツなんですな。これら俳優がそれぞれ主演となり助演となり、3つのエピソードに登場するという訳です。
3つのエピソード
さてこの作品、「アメリカの新聞社」が元受けになる「フランスの雑誌」に掲載されたエピソードを描いた作品、という妙にねじくれた作りになっています。この映画はこういったねじくれた部分が幾つかあります。とりあえずそれは置いといて、なにしろ物語の舞台はどれもフランスとなるんですね。
まずプロローグの「自転車レポート」。ここで物語の舞台となるフランスの架空の町アンニュイ=シュール=ブラゼが紹介されます。アンニュイでシュールって、随分ふざけた名前ですよね。ここで、この映画はナンセンスなんですよ、と宣言しているわけです。
そして第1話「確固たる(コンクリートの)名作」。ここでは殺人罪で服役している天才画家(ベニチオ・デル・トロ)と、看守であり裸婦モデルを務める女(レア・セドゥー)が登場し、刑務所内で大作絵画を制作する過程が描かれます。それにティルダ・スウィントンとエイドリアン・ブロディが胡散臭い役で絡んでくるんですから楽しさも2倍3倍ですね。
第2話「宣言書の改定」では学生運動のリーダー(ティモシー・シャラメ)とその会計係で気の強い女性(リナ・クードリ)とのツンデレな恋愛模様、そして学生運動の結末を描いてゆきます。ちょび髭を生やし髪の毛大爆発のティモシー・シャラメが愉快です。また、この作品でのシャラメの脱ぎっぷりも眼福ものです。
第3話「警察署長の食事室」は、美食家の警察署長(マチュー・アマルリック)の息子をギャングの運転手(エドワード・ノートン)が誘拐し、それにギャングの会計士(ウィレム・デフォー)やら情婦(シアーシャ・ローナン)が絡みドタバタを繰り広げるという物語です。途中でバンドデシネチックなアニメも挿入されるよ!
そして「エピローグ」では亡くなった『ザ・フレンチ・ディスパッチ』編集長(ビル・マーレイ)への哀悼がしめやかに執り行われるというわけです。
御家芸の映像表現と奇妙にねじくれた物語
今作でもウェス・アンダーソンの御家芸ともいえる奇抜な映像設計が縦横無尽に導入されています。それはポップでファンシーな色彩設定や、偏執的なまでのシンメトリーへの拘りや、書割りめいた舞台設定や、箱庭的な世界観です。短くナンセンスな物語で構成された今作では、それがさらに加速し、スタイルそれ自身に奉仕したかのような、スタイル中心の作品となっています。平たく言うと、良くも悪くもとてもシャレのめした作品だという事なんですね。
ですから、スタイルというものに興味も関心も無い人はこの映画を否定するでしょうが、極まったスタイルにとことん心酔したい人は、この映画を大絶賛するでしょう。オレはと言えば、以前はアンダーソン監督のそんな部分が鼻について、作品に否定的だったのですが、途中から根負けして肯定派に転身、今では根っからのファンだったみたいにベタ褒めしている有様です。そんなオレですから本作は今まで以上にお気に入りのアンダーソン作品となりました。
ところで、この作品には奇妙なねじれが存在します。前述した「アメリカの新聞社発行のフランスの雑誌」という部分だけでなく、フランスを舞台にしつつその会話ではフランス語と英語のちゃんぽんだったり、なぜか白黒とカラーの映像が混在していたり、と様々です。評論家的に掘り下げれば何か理由があるのかもしれませんが、オレ自身は「それはそれで楽しかったからいいんじゃない?」程度の感想です。
そもそも、アンダーソン監督はアメリカ人なのにも関わらず、その作風はたいていコスモポリタンな匂いがし、舞台も様々な国が選ばれていて、背景にあるはずのアメリカ文化を感じさせません(初期の頃はそうでもなさそうですが)。今作では、そんなアンダーソン監督のフランス的エスプリへの憧れ、ないしは「架空のフランス」を描く興味、そういったものがこの作品を作らせたのかもしれません。
どちらにしろ、あまりしかつめらしい理由など介在させず、いつも通りに綺麗で楽しくてちょっと変な映画を作っただけなのが正解な気もします。そしてそれで十分じゃないかと思うのです。スタイリッシュであり続ける事、それだって実は強烈で強固な意志が必要なはずだからです。