フランス文学探訪:その17/アラン『幸福論』

幸福論/アラン(著)、神谷幹夫(訳)

ルーアンの新聞に「日曜語録」として連載されたのを皮切りに,総計5000に上るアランのプロポ(哲学断章)。「哲学を文学に,文学を哲学に」変えようとするこの独特の文章は,「フランス散文の傑作」と評価されている.幸福に関する93のプロポを収めた本書は,日本でも早くから親しまれてきたもの.折にふれゆっくりと味わいたい。

アラン(1868 - 1951)はフランスの哲学者、評論家、モラリストである。彼が1925年に著した『幸福論』は93篇の「プロポ」と呼ばれる短文(2,3ページ程度)で構成されているが、「論」とは言いつつどれも肩肘の張らない、平易で読者に語り掛けるかの如き文章で書かれている。それはどこか親しい友人の、あるいは信頼できる年長者の言葉を聞かされているかのようだ。

ところで、一言に「幸福」と言っても、それはいったいどんな状態を指すのだろう?「幸福」の定義ってなんなのだろう?単に幸福感を得ることだろうか。心が満ち足りているということだろうか。しかしそれが分かっていたからと言って幸福になれるわけではない。ではどうしたら幸福になれるのか。当たり前すぎるぐらいに単純な話だが、それは不幸にならないことだ。アランはこう言う。「不幸になるのは何もむずかしくない。ほんとうにむずかしいのは、幸福になることだ。(p182)」アランは「いつも上機嫌でいよう」と言う。だがあなたは「そんなに簡単に上機嫌になれるなら何も苦労しない」と思うだろう。だがそれが「むずかしい」ということなのだ。

概して人は簡単に不幸になる。それはいつも厭な気分を抱えていたりとか、不機嫌であったりとか、くよくよとしていたりとか、怒っていたりとか、そういったことだ。そうして人は泣き言を言い、あるいは不平不満を漏らす。それらはアランによれば、「情念」と呼ばれるものだ。アランは、人の心を簡単に乗っ取ってしまうそれら情念の棘を、ひとつひとつ丹念に、そして根気よく取り除くことをうながす。だがその行為は、言葉で言うほど簡単ではない。情念に憑りつかれた人間は、その状態をあまりにも「普通の」状態だとみなしてしまうからだ。

『幸福論』におけるアランの言説は、繰り返しが多い。幾つものプロポにまたがって、同工異曲めいたことを、趣向を変えながら何度も言い続ける。それはもう、少々くどいのではないかと思うほどだ。しかしこれは、くどいほどにいう事によって強調したいということ、1度だけ言って済まされほど「幸福の方法」は簡単ではないこと、そしてこの頑固なまでの拘り方、即ち「幸福」への強固な意志の在り方こそが、幸福への道標であると確信しているからこそなのだろう。そう、「幸福」は、遮二無二幸福になろうと願わなければ成されないものであることは間違いないのだ。

そういえば、以前オレの相方が、「幸福」について、ちょっとふざけてこんなことを言っていた。「幸福は歩いてこない、前髪掴んで引き摺り倒せ」と。これはいささか乱暴な言い方かもしれない。しかし、ぼんやり口を開けて待っていても幸福になれるわけではない。いつも自分の不幸と慣れ合ってそこから抜け出す気がないならなおさらのことだ。格闘してでも「幸福」になろうとする意志、これこそが大切なのだ。

アランの本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ。アランが1925年に著した『幸福論』は、ヒルティの『幸福論』(1891年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)と並んで「三大幸福論」と呼ばれているのらしい。