現実と地続きになった無意識の光景〜映画『ジプシーのとき』

■ジプシーのとき (監督:エミール・クストリッツァ 1989年イギリス/イタリア/ユーゴスラビア映画)


数ある映画監督の中でもユーゴスラビア人映画監督エミール・クストリッツァはオレの中で別格の存在だ。特に作品『アンダーグラウンド』(1995)は衝撃的な名作だった(レヴュー)。エミール・クストリッツァは狂騒の映画監督だ。彼の作品の多くはブガチャカブガチャカとブラスバンドの演奏がけたたましく鳴り渡り、わんわんにゃあにゃあがーがーと動物たちがあちこちをそぞろ歩き、登場人物たちはいつもドタバタと右往左往し、物語は聖と俗、美と醜、悲劇と喜劇、幸福と不幸の間を目まぐるしく往復する。パワフルで、猥雑で、破天荒で、素っ頓狂で、ハチャメチャだ。そんなクストリッツァの映画祭が現在恵比寿ガーデンシネマにて「ウンザ!ウンザ!クストリッツァ!」というタイトルで行われている(2/12まで)。そのラインナップの中でまだ観たことの無かった作品のひとつ、『ジプシーのとき』を今回観に行くことにしたのだ。

主人公の名はペルハン(ダヴォール・ドゥイモヴィッチ)。彼はユーゴスラビアのジプシー村で、肝っ玉の座った祖母と足の悪い妹ダニラ、放蕩者の叔父と共に貧乏暮らしをしていた。ベルハンは村の娘アズラと恋に落ち結婚を考えるが、彼女の親は決してそれを許さなかった。そんなある日金持ちのギャング、アーメドが村に帰ってきて、イタリアの病院でダニラの足を治療させると約束する。ペルハンは妹に付き添って一緒にイタリアへと行くが、そこでアーメドに無理矢理手下にされ、次第に悪事へと手を染めてゆく。いっぱしのマフィアとなって金を稼いだペルハンは意気揚々と村に帰るが、再会したアズラは誰とも知れぬ子を妊娠していた。怒り狂うペルハンは生まれた子を売り飛ばす約束でアズラと結婚式を挙げるが…。

戦後の定住化政策の結果なのだろう、この作品におけるジプシーたちは村を築きその中で暮らしているが、その住居はあばら家の如きもので、生活は貧苦にまみれ、男たちはまともな仕事に就いているようにも見えない。そんなジプシー村で、家族の絆だけを頼りに生きてきたひとりの青年が都会へ出て、そこで悪事を覚える。最初こそ良心の呵責を覚えつつ、あぶく銭を身に付けるようになってからはすっかりマフィア気取りだ。物語はこうして、ジプシーの貧困、犯罪問題を通し、ひとつの犯罪ドラマであり負の成長物語であり、悲痛な家族ドラマであるものを一見描き出しているようにも見える。確かにそういう物語ではあるが、しかしそれは単なる表層に過ぎない。

実はこの物語の背後にあるのは強烈な幻想性であり超現実性だ。物語中盤で描写される水上のジプシー祭りはその幻想性の高さにおいて作品のハイライトとなるだろう。ジプシーにこんな祭りがあったのか、と驚かされるのと同時に、えもいわれぬエキゾチックな情景と音楽が心をざわつかせる。後半にペルハンが見る悪夢も暗示的であると同時に不条理さを醸し出し、これも実に幻想的な描写となっている。そして物語の超現実性は、なんとペルハンが小さなものを動かす超能力を持っているという設定だ。空き缶やスプーン程度の物ならペルハンは念動力で動かせるのだ。また「空を飛ぶ花嫁のヴェール」に代表される「見える筈の無いものが現れる」というシーンもあり、ここでは正直鳥肌が立った。こうして物語は奇妙な不可思議さに包み込まれてゆくのだ。

これらの幻想と超現実性は、多くのクストリッツァ作品にみられるもので、それは【マジック・リアリズム】と評されることが多い。便利な言葉なので自分もつい使ってしまうのだが、ではなぜ【マジック・リアリズム】なのだろう。クストリッツァは幻想と超現実性の中に何を現そうしているのだろう。それは貧困と犯罪にまみれた暗くやるせない現実の光景に風穴を開け、その向こう側にある、この世界のもう一つの意味と構造を垣間見せようとしているからなのではないか。その向こう側とは、主人公の、あるいはジプシーという民族の、無意識に存在する"何か"だ。

例えばジプシーたちの祭りからは、彼らの秘められた歴史と、その歴史に培われてきた魂の片鱗とが垣間見える。そして「見える筈の無いもの」は、彼らの識域下の光景であり、そして超能力とは、普段決して表に出ない情念なのだろう。空を飛ぶ花嫁のヴェールといったイメージは、ペルハンの死んだ母と結婚した妻という二つの存在が重ね合わされ、それは愛の夢とその喪失を顕すのだろう。画面に登場する七面鳥やガチョウといった鳥の姿にすら象徴が顕れる。それらが画面に登場し、あるいは消失するとき、常に主人公の運命が変転するのだ。これら鳥の姿は、ペルハンの魂の象徴なのだろう。こうした現実と地続きになった無意識の光景、それがクストリッツァ作品の幻想と超現実性であり、この『ジプシーのとき』でも、それが顕著に描かれているのではないか。