■オン・ザ・ミルキー・ロード (監督:エミール・クストリッツァ 2016年セルビア・イギリス・アメリカ映画)
《目次》
エミール・クストリッツァという傑出した映画監督
エミール・クストリッツァ。アレハンドロ・ホドロフスキーと並び、オレが世界で最も敬愛する映画監督の一人である。
クストリッツァは旧ユーゴスラビア、サラエヴォ出身の映画監督だ。デビュー間もなく『パパは、出張中!』(1985)、『ジプシーのとき』(1985)でその才能を絶賛され、カンヌ映画監督賞を受賞するまでになるが、その後彼は大きな悲劇に見舞われる。故国旧ユーゴを分断したユーゴスラビア紛争、そしてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争である。
当時クストリッツァはアメリカに移住していたが、故国で起こっているこの戦争を世界に伝えるために、大作『アンダーグラウンド』(1995)を製作する。そしてそれは単なる戦争映画ではなかった。戦争を逃れ地下に隠れ伸びた者たちにユーゴスラビア史そのものを重ね合わせ、現実と非現実が重なりあった圧倒的な描写の中に戦争を生み出してしまう人間の"業"そのものを浮かび上がらせていたのだ。それは怒りの物語であり、さらに悲劇の彼方に有り得る筈の無い"救済"を透かせ見せようとした祈りの物語でもあった。
しかし様々な民族の思惑が複雑怪奇に入り乱れて巻き起こったこの紛争を一視点から描いたこの物語には一部に強烈な反感を生んだのらしい。その反感からクストリッツァは一時監督引退を宣言したほどであったという。その後クストリッツァは戦争テーマから離れ、独自の狂騒的な味わいを活かした作品を生み出し続けた。
クストリッツァはそもそもその物語に狂騒的な世界を表出させてきた監督だ。そこではいつでもどこでも音楽がけたたましく鳴り響き、動物たちはワンニャンブヒブヒモーモーヒヒーンと鳴き続け、猥雑極まりないキャラクターを持った人々がマシンガンのように感情を叩き付け、それらが混沌となって煮え立つ物語は、現実の光景を軽やかに逸脱して非現実の世界へと足を踏み入れるのだ。マジック・リアリズム、クストリッツァの作品を一言で評するならこの言葉こそ似つかわしい。
クストリッツァの新作映画『オン・ザ・ミルキー・ロード』
そのクストリッツァの9年振りともなる新作映画『オン・ザ・ミルキー・ロード』が公開された。そのテーマはまたしても「戦火の中の人々」である。
隣国との戦争に明け暮れるヨーロッパのどこかの国。主人公コスタはその国の前線となる小さな村で牛乳配達をする男だ。そんな村にある日美しい女がやって来る。彼女は村の英雄の花嫁となるため連れてこられたのだ。コスタはそんな花嫁に惹かれるものを感じていた。時を同じくして休戦協定の成されたことが村を駆け巡る。喜びに沸く村人たちは早速結婚式の準備を始めるが、そこに突然黒ずくめの特殊部隊が急襲、村人を殺害し始める。それは花嫁に恨みのある英国将校の仕業だった。コスタは花嫁を助け出し、決死の逃避行を開始する。
クストリッツァが戦争をテーマに映画を製作したのは『アンダーグラウンド』の他には『ライフ・イズ・ミラクル』(2004)がある。戦争への怒りを描いた『アンダーグラウンド』、戦火の中の希望を描いた『ライフ・イズ・ミラクル』の後に、『オン・ザ・ミルキー・ロード』ではどのような世界を描こうとしたのかに興味があった。
物語前半はまさにクストリッツァ節全開といった流れになる。どことも知れぬ東欧の片田舎を舞台に猥雑な人々が入り乱れ、家畜たちが好き勝手に画面を往来し、けたたましい音楽がいつでもどこでも鳴り響き、思わぬところで非現実的な事件が起こる。とはいえ今作ではそれらが少々大人しめだ。いつもの脱線し過ぎの描写が鳴りを潜め、物語が主人公コスタと"花嫁"(劇中名前は明かされない)を中心に直線的に進んでゆくためだ。
象徴と抽象
もうひとつ気になったのはクストリッツァ独特の象徴性が今作では妙に分かり難いということだ。クストリッツァが描く非現実はファンタジーなのではなく、現実における事象の何がしかの象徴であるのだが、これはオレの理解力の足りなさもあるのだろうが、今作ではそれが直観的に伝わってこないのだ。これは象徴性に託すべき、現実から零れ落ちるほどの情念が今作では希薄だったからなのではないか。
ただし物語後半における主人公の逃走劇において、動物たちが八面六臂の活躍を見せ主人公たちを助けてゆくという描写には、世界中の民話伝承に残る「呪的逃走」を模したものになっていて興味をそそられた。「呪的逃走」とは「呪術アイテムを投げながら追手の追跡を妨げる」物語形式で、例えば古事記においてイザナギがヨモツシコメから逃れるため髪飾りや葡萄の味や櫛の歯などを投げ、それらが変化することで追跡を妨げたという物語がある。これらは古代エジプト、コーカサス、イタリアなどに同工の伝説が遺されているのだ。
とはいえこの「呪的逃走」であるべき根拠も見え難いことも確かだ。これに限らず今作ではあらゆるものが抽象化されているように思える。まずヒロインは"花嫁"と呼ばれるだけで名前が無い。また、そもそもの舞台が「どこかの国」であり、その戦争も「どこかの国」と行われ、なんらかの具体性に言及するのを意図的に止めているのだ。逆にそれは、具体性ではなく普遍性にクストリッツァが目を向けようとしたからなのかもしれない。自らの祖国が体験した戦争ではなく、数多の国で起こりえる戦争についての物語という事だ。だがこの抽象性がパッションを薄め、今作の物語を弱くした原因だったのかもしれない。
"乳の道"はどこへ至るのか
さて、その象徴性の中心となる、主人公が牛乳配達人(ただしロバで配る)であり、タイトルが『オン・ザ・ミルキー・ロード』であることについて自分なりに考えてみた。
ミルクは生命を育むものであり、そして酪農を通して人を潤わせ、さらに自然との繋がりを持つものだ。そして劇中花嫁がミルク塗れになる描写は精液のメタファーであり、それは生命を生み出すものだ。即ちミルクは生命そのものであるということなのだ。そして牛乳配達人の主人公は花嫁と共に命を懸けた逃避行を続ける。タイトル『オン・ザ・ミルキー・ロード』はそういった生命へと続く道のことを言い表してるのではないか。
同時にこの物語は、ラストまで観終った時に「これは《戦後》についての物語だったのではないか」と思わされた。戦争の悲惨に怒りをぶつけた『アンダーグラウンド』、悲惨の中にあって希望とは何かを描いた『ライフ・イズ・ミラクル』と続いてきたクストリッツァ戦争映画の中で、『オン・ザ・ミルキー・ロード』はそれら戦争が終わり生き延びた人々が、その未来に何を負って生きるのか、を描こうとしたのではないか。
戦争が終わり平和が訪れても、生き延びた人々が喪ってしまったものは決して還ることはない。その平和は、安寧なのではなく、喪われたものの記憶と過ごさざるを得ない、終わることの無い喪の時間であると言うこともできるのだ。しかし、人は過去にのみ生きることはできない。何がしかの未来へと自らを繋げなければならない。そしてそれは、生命の溢れる"ミルキー・ロード"へと至る道でなければならないのだ。あのラストには、そういった意味が込められていたのではないかとオレなどは思うのだ。
予告編
エミール・クストリッツァ監督最新作!『オン・ザ・ミルキー・ロード』予告
参考記事
今回取り上げたクストリッツァ作品のソフト
廃盤・売り切れになっているものが多く、一刻も早く復活させてほしい。