星の王子さま /サン=テグジュペリ (著)、河野 万里子 (訳)
砂漠に飛行機で不時着した「僕」が出会った男の子。それは、小さな小さな自分の星を後にして、いくつもの星をめぐってから七番目の星・地球にたどり着いた王子さまだった。
誰もが知るであろう有名ファンタジー『星の王子さま』、実は今回初めて読んだ。読み始めて、これは砂漠に不時着した主人公の孤独と不安が生んだ妄想の物語なのかな、と思ったのだが、実はそれほど単純な物語ではないことが分かってきた。むしろこれは飛行機乗りでもあった作者が、大空を飛びながら黙想し自らと向き合う中で生まれた物語なのだろうと思えた。夜空を覆い輝き渡る数多の星々、眼下に広がる見果てぬ大地、そこには多くの世界があり多くの人々がいて、様々なことを考え様々な暮らしを営んでいる、その茫漠さと、その中に一滴の魂として宙を漂う自らの存在の根源とを夢想したものがこの作品なのだな、と思った。世界を知り、自らと向き合う。これがこの物語のテーマだったのではないかな。(サン=テグジュペリ,アントワーヌ・ド 1900‐1944)
異邦人 / カミュ (著)、窪田啓作 (訳)
母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。
世界文学の傑作として名高いカミュの『異邦人』、これも今回初めて読んだ。とかく「不条理小説」という言われ方をしている作品ではあるが、それよりも、主人公ムルソーが奇妙に世界と乖離している部分に「この主人公はいったいなんなのだろう?」と考えながら読んでしまった。
ムルソーは友人も恋人もおり、特別孤独な男というわけでもなく、ごく普通に社会生活を営んでいるが、どこか現実の物事に無関心であり無感動だ。この乖離の在り方がムルソーを「異邦人」たらしめているということなのだろうが、その乖離の本質にあるものはなんなのだろう。そしてそれはクライマックスにおける彼の長口上によって明らかになる。
ムルソーは過去と未来とから断絶し刹那だけを生きる男だ。刹那を生きる事、それは「刹那的」というのとは少し違う。「生きることの実感」をまさに「今」に見出すということなのだ。それは動物的とも言えるかもしれないが、実は「生の本質」とはそこにあるのではないのか。
刹那に生きることにより「生の本質」を知る彼にとって過去のしがらみも未来に待つ死も無意味であり無関心だ。彼には刹那の愉悦だけが重要であると同時に、その愉悦を妨げるものにうんざりしながら不快感を表してゆく。眩しすぎる太陽も鬱陶しいアラブ人も彼の刹那の愉悦を邪魔する不快なものとして同等だ。だから彼は太陽を殺すようにアラブ人を殺したのだ。
そしてそれは「国家や社会の権威を否定し個人の権利と自由を尊重する立場」という意味において確固たる個人主義の表れではないのか。表層においてある種悲劇的な結末なのにもかかわらず、この物語は強烈なる「個人賛歌」として終わる部分に凄まじいアレゴリーを感じた。カミュはフランス実存主義文学に位置付けられる(本人は否定している)。(カミュ,アルベール 1913‐1960)