映画『ブライトバーン/恐怖の拡散者』はアメリカと父権制の衰退を描いた物語かもしれない

■ブライトバーン/恐怖の拡散者 (監督:ジェームズ・ガン 2019年アメリカ映画)

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■「逆スーパーマン」映画『ブライトバーン/恐怖の拡散者』

巷で「逆スーパーマン」と評判の『ブライトバーン/恐怖の拡散者』を観てきました。

知らない方のためにどういう風に「逆スーパーマン」なのか説明するとですね。まず舞台はカンザス州のブライトバーン。この土地の農場に子宝に恵まれない夫婦がおったわけなんですね。二人はある夜、轟音と共に森に何かが落ちてきたのを発見、行ってみると、墜落した宇宙船があり、そこに人間そっくりの赤ん坊が乗っていて、二人はその子を我が子として育て始めるわけです。ブランドンと名付けられたその子供はすくすくと成長しますが、12歳になったある日、自分が強力な身体と特殊な能力があることに気付くんです。

ここまではスーパーマン・ストーリーを踏襲しているのですが、この『ブライトバーン』において主人公ブランドンは、自分の意に介さないものを排除するするため、その特殊能力を殺戮と破壊に利用し恐怖を撒き散らし始める、というわけなんですよ。単なる子供の癇癪が超絶的な暴力と化してしまうんですね。映画ジャンルとしてはホラー作品で、ダークな雰囲気とエゲツナイ肉体破壊描写、胸糞悪い物語展開を迎えてゆくというわけです。そんななのでR12の視聴年齢制限があったりします。

監督は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのジェームズ・ガン。彼は以前MCU映画を擁するディズニーとの解雇騒動が巻き起こったことがあり、その経緯からこのような「裏スーパーヒーローモノ」を製作したのか、という邪推も出来ますが、ガンはもともとトロマ映画に参加していたり、そもそもが「裏スーパーヒーローモノ」である『スーパー!』(これもなかなかエゲツなかった)の監督をしていたりする人なので、もともとの資質としてこういったシニシズムに満ちた映画を撮るのが好きな監督ではないかとも思えますね。

■スーパーマンアメリ

とまあそんな映画なんですが、「逆スーパーマン」という構成以上でも以下でもない、単に「そのまんま」でしかない作品とも言えちゃうんですね。だから物語それ自体に驚きがある訳ではないし、こういった「逆スーパーヒーロー」の物語は先の『スーパー!』や『クロニクル』、TVドラマ『ザ・ボーイズ』あたりでやられていて、特に斬新なテーマと言うわけでもありません。じゃあつまらないのか?というと、ちょっと視点を変えて観てみると、面白い発見と示唆を見つけることができるんですよ。

まず「逆スーパーマン」とはいいますが、ではそもそも「スーパーマン」とはなんなのでしょう?表層的に見るならスーパーマンは宇宙からやってきて地球を救う超常的なパワーを持つスーパーヒーローということになりますが、実はこれは「アメリカという国家」について描かれたものじゃないかと思うんです。アメリカは移民の国です。そしてアメリカは、本人が望むなら移民として心広く人々を迎え入れます。それがスーパーマンのような異星人であってもです。そしてひとたびアメリカ国民となった者は、その持てる力を振り絞ってアメリカのために尽くさねばならない。それがスーパーマンの物語の根底にあるものではないか。

しかしそれはスーパーマンが生み出された古き善き時代のお話です。今のアメリカは心広く移民を受け入れるわけではなく、アメリカのことをなんとも思わない異分子が侵入してきて、事あればアメリカを攻撃するかもしれないと疑心暗鬼に至っている。『ブライトバーン』の主人公ブランドンがまさにそれなんです。これら現在のアメリカの状況に照らし合わせるならば、『ブライトバーン』の物語は、現代アメリカの、かつての理想と乖離してしまったジレンマが描かれてると見ることもできる。

父権制の衰退

もうひとつは「父権制」の在り方です。ここからは1978年公開の映画『スーパーマン』を元にして書くので実際のコミックとは違うかもしれないのですが、まずスーパーマン/カル=エルは、滅び行く惑星クリプトンから父親のジョー=エルの手により救われることになる(父親からの庇護)。地球で育ったカル=エル/クラーク・ケントが己の使命を意識するのは養父の死がきっかけである(父親の喪失感)。その後彼は北極の要塞において実父ジョーの幻影から己の正しい道を悟ることになる(父親の指導)。つまり『スーパーマン』の物語は(少なくとも映画では)強力な父権制の影響の中で主人公が育ち大人になることが描かれるんです。

一方『ブライトバーン』はどうでしょう。映画を注意深く観ていくと分かりますが、主人公ブランドンの養父は自らが父親であることに最初から及び腰です。ブランドンに「(彼を授かって)最初どうしていいのか判らなかった」みたいなことを平気で語っちゃいます。だからブランドンと養父の関係は親子と言うよりどこか友人関係止まりのようにすら見えます。事件が起こるようになってからブランドンを疑いはしますが愛情を持って庇護しようとしません。そして真実が判明した後ブランドンを導こうとはせず排除しようとしたのも養父です。つまり養父には強力な父権、息子を庇護し導く父親/男としての矜持が最初から欠けているのです。そして何があっても徹底的に息子を信じ愛情を注ぐのは養母だけなんです。

父権制はそれ自体に否定的な要素を抱えており、この物語においても「強力な父親であればそれでよかったのか」ということにはなりません。また、父権制そのものが衰退しつつあることも否めません。この作品における状況もまさにそれなんです。では、父権制が衰退し崩壊した後、いったいどうしたらいいのか。間違った道に行こうとするブランドンをどうすればよかったのか。もっと愛情を注ぎ理解するべきだったのか。この映画ではそれは描かれず、強烈な父権制のしがらみから離れ、暴走するだけのブランドンが描かれることになります。それはどこかで現在ある親と子の状況と繋がるものがあるのかもしれない。映画『ブライトバーン』にはそういった部分での暗喩が含まれているように感じました。

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