シークレット・スーパースター (監督:アドベイト・チャンダン 2017年インド映画)
インド映画『シークレット・スーパースター』はシンガーになる夢を持つ少女とその夢を阻む暴力的な父親との確執を描く人間ドラマだ。粗筋はこんな感じ:
インド最大の音楽賞のステージで歌うことを夢見る14歳の少女インシアだったが、厳格な父親から現実味のない夢だと大反対され、歌うことを禁じられてしまう。それでも歌をあきらめられないインシアは、顔を隠して歌った動画をこっそりと動画サイトにアップ。ネットを通じて彼女の歌声は大人気を博す。やがてインシアは、落ち目の音楽プロデューサー、シャクティ・クマールと出会うこととなるが……。(映画.com)
主演のインシアに『ダンガル きっと、つよくなる』のザイラー・ワシーム、怪しい音楽プロデューサーに『きっと、うまくいく』『PK』『ダンガル きっと、つよくなる』のアーミル・カーン。さらにインシアの母親ナズマを『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で主人公少女の母親役を演じたメヘル・ヴィジュ、父親役をアヌラーグ・カシャヴ監督の問題作『Black Friday』に出演したラージ・アルジュンが演じる。
この作品は幾つかの要素を含んでいる。それはまず「自分の夢を叶えたい」という少女の願いだ。もうひとつはそんな彼女の願いを「女のくせに」と一顧だにしない父親の無関心と無理解、その大元となる強烈な男尊女卑社会の在り方だ。そしてそんな中、娘の願いをなんとかして叶えてあげたいと祈る母親の愛だ。ここには現代的な価値観の中自分の未来をなんとしても掴み取ろうと奮戦する新しい世代と、旧弊な価値観に胡坐をかき己の男権的で強権的な支配の構造に疑問一つ抱かない古い世代との断絶がある。
インド映画に於いて一枚岩の様に頑固な父権社会と新しい考えを持つ若者との対立を描いた作品は幾つもある。それは『DDLJ』の如く結婚相手の父親の頑迷さであったり『家族の四季』のように強烈な父権支配の中における家族のドラマを描いた作品であったりする。しかし物語はたいてい父親と若者との和睦によって完結し、父権の否定やそれを乗り越える所には至らない。その中で例外的に『Udaan』(監督:ヴィクラマディティヤ・モトワーニー 2010年インド映画)のみ、徹底的に父親の否定を描くが、逆にこれ以外に父権の否定を描いたインド映画をオレは知らない(探せばあるんだろうが)。
とはいえこれらは(父親という)男と(息子という)男の、男と男の睨み合いを描いたものである。そしてその「息子という」男はいつか「父親という」男になるのだが、物語が和睦によって完結する以上批判は存在せず単なる現状維持の世代交代があるだけということになってしまう。男と男はなぜ和睦するのか。それは強固な家族制度を維持する為である。家族主義を基本とするインドでは解体した家族の孤独なぞ世界で最もおぞましいものであるのかもしれない。
しかしこれらの物語から零れ落ちているものがひとつある。それは「女」の存在である。
映画『シークレット・スーパースター』において、主人公少女インシアも、その母ナズマも、家長であるファルークによって、「女だから」というだけで全てを否定される。インシアは「女だから」自らの夢を追うことを許されず、長子として生まれなかったことを疎まれ、挙句に見知らぬ男と結婚させられそうになる。ナズマに至っては「女だから」どこまでもファルークへの従属を強いられ、ファルークの意思に反することをするなら徹底的な暴力が振るわれる。それは、「女だから」そのように扱っても構わない、という旧弊で頑迷な父権社会・男権社会の習わしだからだ。家父長制において女は男にかしずき隷属し常に男の意のままに生きなければならないからだ。
物語はこれら太古の恐竜の如く生き残る醜悪な父権制の中で否定され翻弄され続ける主人公が、どのように生きる希望を掴み取ってゆくのかが大きなテーマとなる。そしてその希望とは、シンガーになるという夢であり、その夢を叶えるための第一段階がYouTubeだった、というのがこの物語の面白いところだ。家族主義という「囲い込み」の中で不幸を背負った主人公が、インターネットという開いた世界で希望の切っ掛けを掴む。そこには自分を発見し認めてくれる者がいる、というだけではなく、家族主義というヒエラルキーから脱した、各々が等価な世界が広がっていたのだ。そこには新しい価値観があり、多くの出会いがある。そしてそのネット世界の中でインシアが出会ったのが、落ち目の音楽プロディーサー、シャクティ・クマールだったのである。
アーミル・カーン演じるシャクティ・クマールが登場し調子っぱずれの怪気炎を上げ始める所からこの映画は俄然ドライブが掛かり始める。「父権制の不条理」や「女性の虐待」といったシリアスな問題提起だけでは真摯でありつつもシビアな社会派ドラマで終わってしまったであろう部分を、アーミル・カーンの登場でいきなりファンタジックなエンターティメント作品に捻じ伏せてゆくのである。それだけアーミル演じるシャクティ・クマールは怪奇極まりない男なのだ。
実の所シャクティもまた傲岸不遜なマッチョ・キャラでしかない。トラブルメーカーである彼はある種の社会病理者であり社会不適合者であるとも言える。しかし音楽業界という魑魅魍魎の蠢く世界で、優れた才能と権勢を持って生きていたからこそ彼のイビツさは黙認されていたのだ。しかしあまり好き勝手やり過ぎて今や干される寸前だ。そんな彼が一発逆転を狙い発掘した才能がインシアだったのである。
シャクティのマッチョ・キャラはそれ自体が男権社会のカリカチュアでありパロディとも言える。しかしファルークが男権社会の負の部分を体現していたのに対し、シャクティは「下品だが頼りになるおっさん」という、しょーもないことはしょーもないが巧く活用すれば役に立つこともある「男の甲斐性」を見せてくれるのである。陰鬱なファルークの「父権制」に対して調子っぱずれなシャクティの「男の甲斐性」をぶつけることにより、「男権的なるもの」が「対消滅」を起こす、というのがこの物語の構造なのだ。
こうしてダメな男たちの物語は「対消滅」を起こして終わる。一方は唾棄すべきものとして、一方はかつて後見人であった素晴らしい人として。男たちの物語が終わった後に、女であるインシアの、人生という名の物語が始まる。それは一人の、何にも束縛されない個人の物語だ。かつて彼女は”秘密の”スーパースターだった。しかしこれからは、誰にも何にも臆することの無い、彼女自身の人生のスーパースターとして生きることだろう。
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