映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』:ドタバタと狂気が交錯するネオ・アメリカン・ノワールの傑作

ワン・バトル・アフター・アナザー (監督:ポール・トーマス・アンダーソン 2025年アメリカ映画)

生きて娘を奪還できるのか?

レオナルド・ディカプリオ主演、ポール・トーマス・アンダーソン監督による映画『ワン・バトル・アフター・アナザー(以下:OBAA)』、予備知識一切無しで観に行ったのだが、観終わってみると思いもよらぬ興奮に満ちた傑作映画で大満足だった。

『OBAA』の物語を一言で言い表すのは難しい。大まかに言うなら「さらわれた娘を父親が取り返しに行く物語」なのだが、この作品の面白さは、その背景にあるものや、それにまつわる膨大な枝葉の部分、つまり「説明するとややこしくなる分」にあるからだ。

【STORY】主人公ボブ(レオナルド・ディカプリオ)はかつては名を馳せたアナーキストだったが、今は酒と薬に溺れたぼんくら親父。彼には数年前革命の獅子と恐れられた女ペルフィデア(テヤナ・テイラー)ともうけた娘ウィラ(チェイス・インフィニティ)がいるが、ペルフィデアは組織を裏切った上に失踪してしまい、ボブは男一人でウィラを育てていた。そんなある日、執拗にアナーキスト狩りを続ける軍人・ロックジョー大佐(ショーン・ペン)がウィラをさらい、ボブの身にも危険が迫る。ロックジョー大佐がウィラをさらったのはなぜか?大量に投入された軍隊を相手にボブは生きて娘を奪還できるのか?

アメリカ社会の歪みと分断

物語で描かれるのはアメリカ社会の対立構造だ。ひとつは強硬的な移民排除を遂行する政府機関と、その背後に存在する白人至上主義者たちの秘密結社。もうひとつはそれに抵抗しゲリラ的に妨害活動を展開するアナーキスト集団と、その行動を支援する有色人種市民たち。この対立構造は、過去から連綿として存在し、そして現在さらに苛烈化しているアメリカ社会の歪みと分断が表層化したものだ。

こういった物語構造から、昨年公開されて話題をさらったアメリカ内戦映画『シビル・ウォー』を想起する部分もあるが、『OBAA』はイデオロギッシュな問題提起を背景としながらも、物語られるのは個人と権力との闘争であり、同時にそこからの逃走であり、そこで展開する暴力的映像のカタルシスであり、そしてそれを「親子の絆」に落とし込むことでエモーショナルな高揚を生み出した作品なのだ。

ドタバタなデカプと狂気のショーン・ペン

しかし、こういったポリティカル・サスペンスの体裁をとった内容であるにもかかわらず、物語は全編に奇妙なドタバタ感、ズッコケ感が漂っている。音楽がまた妙な外し方だ。シリアスさとは真逆のコミカル展開を一気に引き受けるのは、なんといってもディカプリオ演じるボブが徹底的に情けない男だからだ。そしてこの映画の魅力を最大に引き出しているのは、ズッコケ男ボブを演じるデカプのスラップスティックな演技にあると言っていいだろう。

一方、物語の暴力性を一気に引き受けるのがショーン・ペン演じるロックジョー大佐だ。白人であることの傲慢さと容易く暴力を操れる狂気に満ち、革命家ペルフィディアに邪な情欲を燃やすロックジョー大佐は、脳が筋肉と性器と銃弾でできたような男だ。彼が白人至上主義結社の手先となり、さらに私情を交えて軍隊を意のままに動かすさまは恐怖でしかない。こんな最凶最悪キャラを演じるショーン・ペンの演技の凄味がこの作品を牽引するもう一つの要素だ。

ネオ・アメリカン・ノワールの傑作

正直なところ、個人的に強く興味を惹かれたのは、ボブの心熱くさせる追跡劇よりも、ロックジョー大佐が体現するアメリカの狂気、その暗鬱さだった。ボブの存在が「救い」としてのファンタジーであるならば、ロックジョー大佐は「解決できないアメリカのリアル」そのものだ。

映画が美しいラストを迎えた後もなお、心に奇妙な澱のようなものが残るのは、この対立と分断が現在もなお続いているという、冷徹な現実があからさまに示されているからだろう。ロックジョー大佐の存在感は、映画『シビル・ウォー』においてジェシー・プレモンスが演じた、「どの種類のアメリカ人だ?」と呟く得体のしれない男と同等の禍々しさを兼ね備えている。

『OBAA』は、アメリカの今を浮き彫りにする問題作であると同時に、親子愛の物語であり、そして最高にパワフルでエキサイトできるエンターテイメント作品だ。P.T.A.が描くドタバタと狂気が交錯するネオ・アメリカン・ノワールの傑作を、ぜひ体感してほしい。