映画『ミッキー17』:格差社会批判とファーストコンタクトテーマが複雑に絡み合う優れたSF作品

ミッキー17 (監督:ポン・ジュノ 2025年アメリカ映画)

映画『ミッキー17』は人類が他の惑星に植民する未来における、クローン人間の悲哀をコミカルかつシリアスに描いたSF作品だ。主演は『TENET テネット』『THE BATMAN-ザ・バットマン-』のロバート・パティンソン。『パラサイト 半地下の家族』『グエムル 漢江の怪物』のポン・ジュノ監督がメガホンをとっている。

【STORY】人類が地球を離れ、極寒の惑星「ニフルハイム」を植民しようとしている未来。ミッキー17(ロバート・パティンソン)は、“エクスペンダブル”と呼ばれる使い捨て要員。危険な任務で死んでも、記憶を転送された新しいクローン体として再生される。ある任務で行方不明になったミッキー17が帰還すると、すでに次のコピー“ミッキー18”が稼働していた。同一人物が二人存在することは規定により死を意味する。二人のミッキーは互いの存在理由を問い、支配的な植民地政府と、その搾取構造に反旗を翻していく。

率直に言って、映画『ミッキー17』には当初、あまり観る気が起きなかった。その最大の理由は、原作小説『ミッキー7』が、設定の穴、プロットの貧弱さ、紋切型の登場人物、そして陳腐で古臭いSFアイデアと、あらゆる面で魅力を欠いていたからだ。

こうした使い捨ての人間(エクスペンダブル)を題材にした物語は、根源的な格差社会のテーマを含んでおり、こういったテーマを好むポン・ジュノ監督が映画化するのは案の定と思えた。しかし、彼の作品に見られるアレゴリー(寓意)が時として明示的過ぎる点が個人的に肌に合わず、劇場公開時にはあえて敬遠していた。だが、後にサブスクリプションサービスで配信されたのを機に、興味本位で鑑賞してみることにした。

結果は驚くべきものだった。本作は非常に面白かっただけでなく、私にとってポン・ジュノ監督の作品の中で最も好意的に受け入れられた一本となったのだ。

ポン・ジュノ監督は、新キャラクターの追加などで原作の貧弱なプロットを大胆に補強し、ロバート・パティンソンをはじめとする魅力的な俳優陣を配することで、登場人物に深みを与えている。さらに、異星生物との「対話」というSFアイデアを新たに持ち込むことで、物語のテーマをより複雑に深化させた。これは、第一級の映画監督であるポン・ジュノの技巧が光る、まさに原作超えの作品と評する他ない。同じ原作に触れた者として、それをこれほど素晴らしい作品へと昇華させた監督の想像力と力量に、深く感嘆させられた。

確かに、原作が持っていた「不確かなアイデンティティ」というテーマは、ポン・ジュノ監督の十八番である格差社会批判や資本主義批判へと主軸がシフトしている。しかし、その象徴である資本家(マーク・ラファロ)を、グロテスクかつコミカルに戯画化することで、批判を嫌味なくソフトに表現している点が巧みだ。また、ミッキー17と16に微妙に異なるパーソナリティを与えるという設定も、ミッキーという存在自体に深みをもたらす重要な改変である。

最も評価すべきは、惑星の現地生物であるクリーパーの扱いだ。彼らを共生不能な敵性生物ではなく、対話可能な知的生命体として描くことで、本作を卓越したファーストコンタクトSF作品として成功させている。これらの原作への修正が、多様なテーマが複雑に絡み合う重層的な物語として、映画を格段に深化させているのである。

そして、SF映画としての「画(え)」の魅力も特筆すべきだろう。特に感心したのはクリーパーの造形だ。一見すると不気味な巨大芋虫だが、物語が進むにつれて段々と愛嬌が生まれ、のそのそと動く様子はタヌキやカピバラを思わせる。クライマックスにおけるクリーパーの大集結シーンの迫力は、SF的なスペクタクルに満ちていた。

映画『ミッキー17』は、ポン・ジュノ監督が、凡庸な原作を格差社会批判と知的なファーストコンタクトのテーマが複雑に絡み合う、最も魅力的で愛すべきSF傑作へと昇華させた、技巧と想像力に満ちた一本であった。