フランス文学探訪:その8/バルザック『ゴリオ爺さん』

ゴリオ爺さんバルザック (著)、中村 佳子 (訳)

出世の野心を抱いてパリで法学を学ぶ貧乏貴族の子弟ラスティニャックは、場末の下宿屋に身を寄せながら、親戚の伝を辿り、なんとか社交界に潜り込む。そこで目にした令夫人は、実は同じ下宿に住むみすぼらしいゴリオ爺さんの娘だというのだが……。

これまでフランス古典文学の名作と呼ばれる作品をあれこれと漁ってきたが、ここへきて遂に「うわああこれはまさに名作じゃないか!」と唸ってしまった作品に巡り合った。作者は巨匠バルザック、その彼が1830年代に連載小説として書いた長編『ゴリオ爺さん』がそれである。「爺さんが主人公の小説かあ?なんだか華が無いなあ」などと思うなかれ、この物語には「小説」と呼ばれるものの愉しみがみっちりぎっちりと詰め込まれているのだ。

舞台は19世紀初頭、王政復古時代のパリ、貴族と一般市民の生活には大きな格差が生まれ、街には貧困にあえぐ市民が溢れ返っていた。こんな社会で生き残るには社交界に潜り込み強力な貴族に取り入って成り上がるしかない。主人公である貧乏学生ラスティニャックもそう考えていた青年の一人だった。ある日彼は同じ下宿に住む貧相な爺さんゴリオに、二人の美しい令夫人がいることを知る。ラスティニャックはゴリオ爺さんに掛け合ってなんとか令夫人と知り合おうとするのだが、というのが大まかな粗筋。

しかしこういった物語そのものより、まず驚かされたのはその圧倒的な描写力だ。物語が始まりまず描かれるのは、貧乏人ばかりが住む貧相な通りに建つ小汚い下宿屋ヴォケール館、そしてそこに住むどうにも冴えない住人たちの嘆かわしい生活ぶり、それらがあたかも宙を舞うドローンで高細密度に撮影するかのごとくに微に入り細に穿ち克明に描写されてゆくのだ。とにかく描写、描写、描写の嵐、それはもはや「小説における描写とはかくあるべし」とさえ思わせるものだ。後で知ったところではバルザックはレアリスムの父と呼ばれる写実主義の作家であったというからむべなるかな、である。小説家を志す方は一度バルザックを読むべきだとすら思えたほどだ。

その凄まじい描写でもって描かれるのはまず主人公ラスティニャックの大いなる野心とその野心の目指す先にある腐りきった貴族社会への強力な嫌悪である。彼は青年らしい無垢で高潔な心を持ちながらも、同時に計算高く卑屈な態度で貴族に媚びを売ろうとする。こうして彼の心は常に葛藤し揺れ動き、そして引き裂かれてゆく。こうしたアンビバレンツにありながら一つの人格である部分に人間心理の複雑さが強烈に描かれているのだ。

もう一つは物語の鍵を握るゴリオ爺さんだ。彼は苦労に苦労を重ね手塩にかけた娘たちを貴族社会に送り込み、その娘たちの幸福だけをただただ祈って生きる父親だ。ゴリオはかつて一代を築いた自らの財力全てを娘たちに費やし、それだから彼自身は今貧困の中で生きているのだ。彼の子煩悩の様、その一途な献身の在り方は一つの人情噺として涙を誘う。だがそれは見ようによっては度を越しており、ある意味狂気すら感じさせる。そして実はそんなゴリオを娘たちは歯牙にもかけようとしない。人情と薄情、その激しいコントラストがこの物語に一種異様な感情の渦を生む。

そしてこうしたドラマが、小気味良いリズムに満ちた文章、生き生きとした表現、短く的確な比喩でもって描かれ、それが変転し変化し続ける人間関係、高きから低きへとジェットコースターのように移り変わる人間感情を活写し、これらが渾然一体となりうねる様な物語世界が展開してゆくのだ。サマセット・モームが「世界10大小説」の一つに挙げているのもうなずける名作、これぞ小説、と呼びたくなるような作品じゃないか。さらにこの物語はプルースト作品『失われた時を求めて』を遥かに超える分量となる小説大系『人間喜劇』の1篇であるという。

バルザックの人生を紐解くと彼はおそろしく精力的な人物であったらしく、様々な事業に手を出しては失敗した挙句に小説家に転身し膨大な量の傑作を物すこととなる。成功後も多彩な女性関係や恐るべき健啖家として知られたという。まさに人生を味わい人生を愉しみ人生に挑戦し続けた男なのである。そんな彼が描く人間模様も彼自身の人生のように芳醇でこってりと濃く色彩豊かなものとして仕上がっていたという事なのであろう。

バルザック、オノレ・ド、1799‐1850。