フランス文学探訪:その10/モンテーニュ『エセー 抄』

エセー 抄 / ミシェル・E・ド・モンテーニュ(著)、宮下志朗(編、訳)

「読者よ、これは誠実な書物なのだ……わたし自身が、わたしの本の題材なのだ」(モンテーニュ) モンテーニュは、自分をはじめて見つめた人、人間が生きるための元気を鼓舞してくれる人である。 「エッセイ」というジャンルの水源たる古典を、読みやすい新訳で。 全巻の掉尾をかざる「経験について」ほか11章。

モンテーニュは16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者である。特に主著となる『エセー』は、人間の生き方に対する優れた洞察力から思想・文学界に多大なる影響を与えたのらしい。そしてこの『エセー』、随筆/エッセイの先駆けとなる書物であるという。日本では岩波から全6巻、白水社から全7巻という長大な翻訳が出ているが、この長さはオレにはちと無理なので、編訳版となるみすず書房の『エセー 抄』(全1巻)を読むことにしてみた。

『エセー 抄』は長短合わせて11編の「随想」が収録されるが、まず驚かされたのはプラトンアリストテレスプルタルコスなど古典文献から徹底的な引用である。当時の貴族階級にとっての教養とは、いかに古典を読み知り尽くしているか、ということなのだそうだが、確かに次々と引用されるギリシャ・ローマ時代の文献の莫大な量には正直恐れ入ってしまった。なんでもモンテーニュ、幼少時はラテン語だけで会話していたという筋金入りの英才だったのだそうだ。 

といった限りなく知的なモンテーニュの『エセー』なのだが、これが、全体体にふわっとした、とりとめのない文章で書かれているのだ。一章に一つのテーマを徹底的に掘り下げるというのではなく、思い浮かんでは消えてゆく徒然の思考を、肩肘張らずに書いたものとなっているのだ。とはいえ、とりとめがないと言いつつ、一節一節に込められた蘊蓄はどれも深い見識に満ちていて抽象性も高く、気を抜くと置いていかれる。

だから読んでいて全て理解できたかというとそれは無いし、半分は理解したかというとそれも怪しい。すまん、オレには手強すぎた、と白状しておこう。ただ、本文でも「キレッキレの思考は実践に向かないから、もっと大雑把でいいんじゃない?だって人間なんだもん(意訳)」とモンテーニュ先生もおっしゃられているのだ。そもそもモンテーニュの文章自体、勿体ぶったアフォリスムに結晶化する直前にふわっとはぐらかして別の話題に移るのだが、それ自体がモンテーニュの人と社会をじっくり見続けてきた老獪さと言えるのはないか。

そんな哲人モンテーニュさんではあるが、本文では微妙にウ〇コチ〇コマ〇コ言っていて結構下品だったり、「尿道結石あってメッチャ痛えんだけど絶対医者になんか行かねえ!」とか謎の痩せ我慢ブッこいていたり、割と人間臭くもある。パスカルモンテーニュに心酔しつつも批判的でもあったが、それはモンテーニュの極めて理知的でありながら時として羽目を外したかのように見える自由闊達さが歯痒く思えたからなのだろうと思う。まあ、オレ的には「16世紀の知的フランス貴族にしては面白いおっさんだな」程度に思ってお茶を濁したが(読解力)。

ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(1533-1592)。16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者であったと同時に、モラリスト懐疑論者、人文主義者でもあった。