JazzyなHip-Hopを聴きたくなりアルバム20枚ほど爆買いしてしまった

Jazz Liberatorz

突然ジャジーなヒップホップが聴きたくなったのである。Jazzy Hip-Hop、ジャズのサンプリング音源、並びにジャジーな演奏を活かし、「メロウでチル」な音を奏でるヒップホップである。とかなんとか知った事を書いているが、オレはヒップホップに関してはまるで門外漢だと言っていい。

実を言えばヒップホップ黎明期にその音源の幾つかに触れてはいた。グランドマスター・フラッシュはなんとなく聴いたし、アフリカン・バンバータの12インチを集めたりもしていた。当時はハウス・ミュージックの黎明期とも重なり(正確にはヒップホップのほうが早い)、ハウスとかヒップホップとか関係なく、最先端のダンス・ミュージック・ジャンルとして触れていた。ヒップ・ハウスなんてジャンルもあり、そこからヒップホップを派生的に聴いていたように思う。

ただ、ア・トライブ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルなどの音は素直に楽しめたが、ディープなヒップホップ・カルチャー、そのファッションやライフスタイルには特に興味がなく、またギャングスタに代表されるある種マッチョでシリアスな匂いのする音には拒否反応を感じ、ヒップホップへの関心は薄れてしまっていた(ただしパブリック・エナミーは別格だった)。

とはいえ、ヒップホップの持つブレイクビーツとしての側面、サンプリングを駆使して自在にビートとメロディを操るその手腕の鮮やかさはヒップホップの持つ最大の魅力であり特徴であり、ヒップホップを聴く楽しさである、という事は感じていた。単純に、音楽センスがいい、音楽として優れていると思うのだ。そこに高い音楽的インテリジェンスを感じるのだ。そしてそんなブレイクビーツの妙を、今回改めて聴きたくなってしまったということなのだ。

今回購入に関して参考にしたのは「【タワレコスタイル】オーガニック・ミュージック名盤最大20%オフセール~オーガニック・ヒップホップ編~」という記事だ。2012年という10年前の記事だが、別に最先端のヒップホップを聴くつもりはなかったのと、取り挙げられていたヒップホップ・アーチストに馴染みのある名前が多かったこと、さらに試聴してみるとどれもバッチリとイカしていたこと、これらから、この記事にあったアルバムを片っ端から購入してみた。古いヒップホップ・アルバムはものによっては中古で相当安く出回っており、購入しやすかった、ということもある。

ここに並べたアルバムは全て新たに購入したわけではなく、実は既に所有していたものも幾つかあるのだが、いわゆる「全体像」として全て並べてみることにした。また、この全てのアルバムが「Jazzy Hip-Hop」と呼ばれるジャンルに相当するものではないのだろうが、「Jazzy Hip-Hopとその派生で聴いたアルバム」程度のこととして受け取ってもらいたい。購入に際しても今回のブログを書く際にも、個々の詳しいアーチスト・プロフィールを調べたわけではなく、だからそれぞれのアルバムについて細かい知識も言及出来る事も無いのだが、どれも最高に楽しく聴くことができた、ということは付け加えておこうと思う。

 

Clin d'oeil / Jazz Liberatorz 

 

Evening With the Sound Providers / Sound Providers

 

Bullshit As Usual / Pase Rock

bullshit as usual

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Main Ingredient / Pete Rock & C.L. Smooth

Main Ingredient

Main Ingredient

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3 Years 5 Months & 2 Days in T / Arrested Development

 

Hoopla / Speech

Hoopla

Hoopla

  • アーティスト:Speech
  • Tvt (tee Vee Toons)
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Bizarre Ride II / Pharcyde

Bizarre Ride 2: The Pharcyde

Bizarre Ride 2: The Pharcyde

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Quality Control / Jurassic 5

 

Soon Come... / Asheru & Blue Black

 

Best of De La Soul / De La Soul

Best of De La Soul (Rmxs)

Best of De La Soul (Rmxs)

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The Anthology / A Tribe Called Quest

Anthology

Anthology

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Kamaal The Abstract / Q-Tip

KAMAAL THE ABSTRACT

KAMAAL THE ABSTRACT

  • アーティスト:Q-TIP
  • Jive
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Done By the Forces of Nature / Jungle Brothers

 

Enta Da Stage / Black Moon

 

'93 'Til Infinity / Souls Of Mischief

93 Til Infinity

93 Til Infinity

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Koolmotor / Five Deez

Koolmotor

Koolmotor

  • アーティスト:5 Deez
  • Counterflow
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Beatnuts / Beatnuts

Beatnuts

Beatnuts

  • アーティスト:Beatnuts
  • Relativity
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Resurrection / Common

Resurrection

Resurrection

  • アーティスト:Common
  • Relativity
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Do You Want More?!!!??! / The Roots

Do You Want More?!!!??!

Do You Want More?!!!??!

  • アーティスト:Roots
  • Geffen
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Breaking Atoms / Main Source

 

 

フランス文学探訪:その19/パスカル『パンセ』

パンセ / パスカル (著)、前田陽一 (訳)、由木康 (訳)

近代科学史に不滅の業績をあげた不世出の天才パスカルが、厳正で繊細な批判精神によって人間性にひそむ矛盾を鋭くえぐり、人間の真の幸福とは何かを追求した『パンセ』。時代を超えて現代人の生き方に迫る鮮烈な人間探求の記録。パスカル研究の最高権威による全訳。年譜、重要語句索引、人名索引付き。〈巻末エッセイ〉小林秀雄

あれこれとフランス文学を読む企画を続けているが、いよいよ終盤戦、今回と次回とで終わりとすることにしている。そしてその終盤の「ボスキャラ」の一つとして選んだ本はパスカルの『パンセ』である。「人間は考える葦である」、あるいは「クレオパトラの鼻がもし低かったら」という誰もが知るあの有名な言葉が記された著作だ。

ブレーズ・パスカル(1623-1662)。フランスの哲学者であり、同時に自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家など様々な顔を持つ天才肌の哲人である。「パスカルの定理」「パスカルの三角形」「パスカルの原理」といった言葉を聞いたことがある方も多いだろう。

そのパスカルが記した『パンセ』は、実は死後発見された順序不明の断片的なノートを、研究家の手によって編纂したものだ。もともとは当時のイエズス会を批判した『キリスト教護教論』という書物を完成させるための準備ノートであったらしいのだが、39歳という若すぎる死によって未完成のまま遺されたのだ。ちなみに「パンセ」とは「思索」の意味であり、その正式なタイトルは『死後、書類の中から発見された、宗教およびその他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(思索)』となる。

そしてその内容というのは、その鋭利な知性と卓越した批評眼によって記された、人間の生とその本質についての深淵なる考察であり、同時にパスカルキリスト教信仰に対する燃え盛る様な熱情と、その一片の曇りもない正しさとを詳らかにした文章によって構成されている。しかもオレの読んだ中央公論社文庫版700ページ余りのその4分の3ぐらいが、これらキリスト教信仰に関わる文章で成り立っているのだ。さらにそれが旧約・新約聖書を熟読し熟知していることが前提で書かれていることから、かの宗教への知識も信教もなく、もちろん聖書も読んだことのない自分には殆どの部分でチンプンカンプンだったということはここに告白しておく。

そういった意味で「『パンセ』を読んだ」というよりも「一応最後まで目を通した」程度のお話で大変恐縮ではあるのだが、「よく分からない」内容だったからこそ「なぜこんなことをこんな風に思いこんな風に書くのだろう?そしてこんな風に思いこんな風に書くパスカルという人はいったいどんな人だったんだろう?」ということをずっと考えながら読んでいた。そして「こんな風に思わせるキリスト教と言うのは当時どんなものだったのだろう?」とも思った。聖書は読んだことはないが、今回の『パンセ』における膨大な聖書引用を読むことで、今までの人生で最も聖書の内容に接してしまったとも言えるからだ。

なにしろ読んでいて、パスカルの、時として火を吐くかの如きキリスト教への熱い想いが、圧倒的なまでに胸に迫ってくる瞬間があるのだ。キリスト教信仰の無いオレですらここまで引き込まれたのだから、それは相当なものだと言っていい。それはただ敬虔な信仰を持っていたという事だけではなく、『パンセ』が書かれた17世紀の時代背景にも理由があったのらしい。

17世紀、それはパスカルと同時期に活躍したデカルトに代表されるように、科学合理主義の胎芽が芽生え、同時にイエズス会教義が弱体化し始めた時代でもあった。それによる無神論者と自由思想家の台頭に強烈な危機感を感じていたからこそ、パスカルの論調はあそこまで激しく、憂いに満ち溢れた崇高なまでの文章を書かせたのだろう。そしてそれはただ強烈な信仰心のみによるものではなく、パスカルという稀代の天才の、その持てる思考力と論理性でもって書き綴った文章であればこそだったのだろう。

特に断章793の「3つの秩序」の一節などはその最たるものだ。

あらゆる物体、すなわち大空、星、大地、その王国などは、精神の最も小さなものにもおよばない。なぜなら、精神はそれらすべてと自身とを認識するが、物体は何も認識しないからである。

あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらのすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。これは無限に高い秩序に属するものである。

あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。それは不可能であり、ほかの秩序に属するものである。あらゆる物体と精神から、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、ほかの超自然的な秩序に属するものである。

『パンセ』p599

これらは当然「キリストの愛(の持つ超自然性)」として書かれたものなのだろうが、しかしそこから離れて考えたときに、人間存在とその精神および思考の独自性、そしてその崇高さを導き出したものだとは受け取れないだろうか。

ちなみにあの有名な「考える葦」のある断章347はこのようなものとなる。これも長いが引用してみる。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すには十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない時間や空間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

『パンセ』p250~251

考えること、考え続けることで尊厳を導き出すこと、それが道徳であるということ。非常に鋭敏な一節であり、これらは単純なアフォリズムとしていくらでも引用することは可能だろう。だがこうも考えられないだろうか、若き頃より病弱で「自然の中で最も弱いもの」であったパスカルが、その限りなく死に近い宿命を「考える」ことで跳ね除け「尊厳」を持ち続けようとしたことから生まれた一節ではないかと。そして「自分が死ぬこと」の受け皿となるのは「キリストの愛」なのだ。パスカルの『パンセ』は、「考え続けること」を己の存在理由として課した天才パスカルの、その人生と宿命について書かれたものだとも言えないだろうか。

*****

最後に余談となるが、自分は高校生の頃、それほど頭の出来が良くなかったにもかかわらず、なぜか知的なものに興味を持つオコチャマだった。そして書店でたまたま手にした『パンセ』の一節に惹かれるものを感じて購入し、それをいつも持ち歩いていた。持ち歩いてはいたが、読んではいなかった。最初のページからまるで理解できなかったからである。ガキだったしな。持ち歩いていたのは単に「パスカルの『パンセ』を持ち歩く自分」という間抜けなナルシシズムを満足させたかったからだ。イタイ奴だったのである。そんなオレがあれから40年余り後、ブログ企画として実際に『パンセ』を読む(というか「一応最後まで目を通した」)ことになるとは思ってもみなかった。人生とは不思議なものである。

なお、今回は副読本としてNHK「100分de名著」ブックス「パスカル パンセ」を若干参考にさせてもらったが、どことなくサラリーマン処世訓的な内容で、重厚長大な『パンセ』の後に読むと書籍の薄さなりの内容に感じたのは無いものねだりだったろうか。

 

クロエ・グレース・モレッツがモンスターとバトルを繰り広げる映画『シャドウ・イン・クラウド』

シャドウ・イン・クラウド (監督:ロザンヌ・リャン 2021年ニュージーランドアメリカ作品)

第2次世界大戦のさなか、極秘任務を帯びて爆撃機に乗り込んだ女性大尉がこの世にあらざるものを目にしてしまう、というサスペンスアクション映画です。なんといっても『キック・アス』『モールス』のクロエ・グレース・モレッツが主演を務めてるのが見所でしょう。

《物語》1943年。ニュージーランドからサモアへ最高機密を運ぶ密命を受けた連合国空軍の女性大尉モード・ギャレットは、B-17爆撃機フールズ・エランド号に乗って空へ飛び立つ。モードは男性乗組員たちから心無い言葉を浴びせられながらも、ひたむきに任務を遂行しようとする。やがて彼女は高度2500メートルの上空で、自機の右翼にまとわりつく謎の生物を目撃する。次から次へと想像を絶する試練に見舞われる中、大切な荷物を守りながら決死の戦いを繰り広げるモードだったが……。

シャドウ・イン・クラウド : 作品情報 - 映画.com

最初に「この世にあらざるもの」なんて勿体付けて書きましたが、クロエ扮する主人公ギャレットが目にしたもの、それはグレムリンなんですね。グレムリンというとジョー・ダンテ監督の作品『グレムリン』(84)で名前を知っている方が多いと思いますが、どちらかというと「飛行機に悪さをする妖精」のことを指し、これはホラーオムニバス映画『トワイライトゾーン/超次元の体験』(83)の第4話 「2万フィートの戦慄」に出てきた不気味な小鬼がイメージとして近いでしょう。この『シャドウ・イン・ザ・クラウド』でも、闇から現れたグレムリンが主人公たちの乗る爆撃機を破壊し、乗員たちに襲い掛かってくるんですね。

物語はこういったホラーテイストのアクションと並行して、予告なく爆撃機に乗り込んできたギャレット大尉と乗員たちとの軋轢が描かれることになります。女性であるギャレットに対し、男性ばかりの乗員たちが性的な侮蔑や嘲笑を浴びせかけてくるのです。しかしギャレットは孤立無援の中、毅然としてこれに立ち向かい、あまつさえ敵襲を制圧し、さらにはグレムリンとまで戦いを繰り広げてゆくのです。こういった「パワフルな女主人公」の物語である、というのが一つのポイントになるでしょう。

しかし若干疑問に感じたのは、ギャレットのような「婦人補助空軍」という立場の女性が、男性の軍人からこの物語のようなあからさまな性的嫌がらせを受けたのだろうか、ということです。仮にもギャレットには大尉という階級があり、さらには軍上層部から密命を受けたとされる親書を携帯しているのです。軍隊というのは階級社会であるというのがオレの認識なのですが、この物語ではあまりにもそれを無視しすぎているように感じました。とはいえ、実際にも当時はやはりこんな具合だったのでしょうかね?

もう一つ疑問に感じたのは、ギャレットの携帯する「機密とされた小箱」の真相です。詳しい内容には触れませんが、真相が明らかにされたときに、ギャレットの正体も併せ、「ちょっとソレいろいろ無理があるんじゃない?」と思ってしまったなあ。

映画の作りはある意味B級作品です。それなりにVFXも使っていますが、基本は狭い爆撃機の機内だけで物語が展開し、それ自体が貧相なものに見えてしまっています。グレムリンの造形にしても単にバカでかいコウモリといった感じで、あまりバケモノとしての禍々しさを感じません。ギャレットと乗員たちのドラマも「気丈な女v.s.下品な男/その中で理解を示す男」という図式的な構図以上のものがありません。アクションでは「あわやギャレット墜落!?」のシーンのくだりがなかなかに荒唐無稽で見所がありました。そしてやはりクロエ・グレース・モレッツの存在感でしょう。あれこれ苦言を呈したい作品ではありますが、やはり彼女の存在が作品すべてを牽引していたといっても間違いないでしょう。

アーティゾン美術館『生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎 展』を観に行った

アーティゾン美術館に行ってきた

先日は京橋にあるアーティゾン美術館に『生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎 展』を観に行きました。

アーティゾン美術館は東京駅を降りて10分ほど歩いた場所にあるのですが、以前はブリヂストン美術館と呼ばれていたものを、ビル改築に伴って2020年にリニューアル・オープンしたんですね。ブリヂストン美術館はずいぶん昔に行ったことがあるのですが、リニューアル後は初めてなんですよ。といったわけで、今回は展覧会それ自体とリニューアル後の美術館を観たくて足を運んでみました。

この美術展で作品が展示される青木繁(1882-1911)と坂本繁二郎(1882-1969)はともに現在の福岡県久留米市に生まれ、同じ高等小学校で学び、同じ洋画塾で画家を志した、ということなんですね。実はそれほど詳しく知らなかったんですが、青木繁は代表作『海の幸』を観たら「ああこの人か!」とすぐ分かりました。一方、坂本繁二郎も不勉強ながらやはりよく知らない画家で、いわば今回初体験となります。今回の美術展は二人の画家の生誕140周年を記念し、250点余りの作品で構成されています。

青木繁

青木は東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に画壇にデビューし、美術と文学において浪漫主義的風潮が高まる時代のなか、《海の幸》(1904 年)で注目を集め、若くして評価されます。しかし、華々しいデビューとは対照的に、晩年は九州各地を放浪し、中央画壇への復帰も叶わず短い生涯を終えました。《公式サイト》より

青木繁と言えばやはり《海の幸》、《わだつみのいろこの宮》でしょう。どちらも重要文化財に指定されています。美術の教科書にもよく載っているのでご存じの方も多いんじゃないかな。青木は日本の神話を題材に幻想的でドラマティックな作品を得意としていたようです。筆致は力強くどこかプリミティブで、色彩は当時の「日本の洋画家」の典型だったのでしょうか、脂色に暗く、光を感じさせません。肺炎により39歳の若さで夭折した伝説の画家という事ができるでしょう。

《海の幸》1904年

《わだつみのいろこの宮》1907年 

《大穴牟知命》1905年

天平時代》 1904年
坂本繁二郎

坂本は青木に触発されて上京し、数年遅れてデビューします。パリ留学後は、福岡へ戻り、87歳で亡くなるまで長きにわたって、馬、静物、月などを題材にこつこつと制作に励み、静謐な世界観を築きました。《公式サイト》より

一方、坂本の作品は年代ごとに様々にテーマとするところが移り変わってゆきます。初期の頃は当時の日本の日常風景を切り取ったある意味牧歌的なものですが、渡仏後は蒼褪めた色合いに統一された、空気のように「もやっ」とした作風に変化してゆきます。中期は牛や馬の動物、能面などの静物画を描き、晩年には月をテーマにした作品を描いています。なにかどれも涅槃の向こうの光景のような、静謐で非現実的な作品が並びます。

《夏野》1898年

《貼り物》 1910年

《熟稲》 1927年

《放牧三馬》1932年
石橋財団コレクション展

常設展も充実していました。基本的に1フロアのみの展示でしたが、その時によって展示を変えているのでしょう。ピカソポロック、モネやクレーなどの作品、デュシャンやフォンタナなどの現代美術とは別に、エジプトやギリシャの古代遺物が展示されていたのが非常に印象的でした。それと、今回は特集コーナーとして「田園・家族・都市」をテーマにした作品が展示されていましたが、その中の細微を極めたエッチング作品には目を見張りました。

アーティゾン美術館はアプリを利用した音声ガイドを行っており、また過去の美術展に容易にアクセスできる端末を用意しているなど、画期的な試みが成されている部分が面白かったですね。新築の美術館という事で美術空間としてもなかなかに新鮮でした。

《女の顔》パブロ・ピカソ 1923年

《ディエゴの胸像》アルベルト・ジャコメッティ 1954-55年

ヘラクレスケロベロス図》ギリシア・紀元前520-510年頃

《神牛》エジプト・紀元前1279-1213年頃

《雪の発電所岡鹿之助 1956年

《クイリナーレ広場のディオスクーリ像》ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ

勝利の女神》クリスチャン・ダニエル・ラウホ

フランス文学探訪:その18/デカルト『方法序説』

方法序説デカルト (著)、谷川 多佳子(訳)

すべての人が真理を見いだすための方法を求めて,思索を重ねたデカルト(1596-1650).「われ思う,ゆえにわれあり」は,その彼がいっさいの外的権威を否定して達した,思想の独立宣言である.本書で示される新しい哲学の根本原理と方法,自然の探求の展望などは,近代の礎を築くものとしてわたしたちの学問の基本的な枠組みをなしている.[新訳]

方法序説』は近世哲学の祖としても知られる17世紀フランスの哲学者・数学者ルネ・デカルト(1596-1650)が1637年に刊行した著作である。

いかなる「方法」の「序説」なのかというと、『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』という500ページを超える書物の、「序説」部分に当たるのだ。とはいえこの『方法序説』のみでもデカルトの「思考するための指針・方法」そのものが詳らかにされており、しかもそれが整理され尽くした論理的かつ核心的な内容となっているため、この「序説」単体で読まれることになったのだという。

方法序説』は6部に章立てされ、デカルトがどのような方法で彼の言う「真理」を追求していったのかが順序立てて説明されることになる。それは以下のような形になる。

第1部 - 学問に関する様々な考察

第2部 - 探求した方法の主たる規則の発見

第3部 -この方法から引き出した道徳上の規則

第4部 - 「神」と「人間の魂」の存在を証明する論拠、自身の形而上学の基礎

第5部 - デカルトが探求した自然学の諸問題の秩序、特に心臓の運動や医学に属する他のいくつかの難問の解決と、「人間の魂」と「動物の魂」の差異

第6部 - 自然の探求においてさらに先に進むために何が必要だと考えるか、また本書執筆の経緯

方法序説』で面白かったのは科学の方法論で哲学を成そうとしていたという部分で、これはデカルトが哲学者であると同時に数学者でもあったからだが、つまり数学の数式の如く理路整然と論理的に明快に整理された形として哲学が展開できるはずだと考えていたようなのだ。デカルトの時代において、科学と哲学は同じものだったのだ。そして科学の自明さのように哲学の自明さを探求したものがこの『方法序説』だった。だからこそ、こんなに丁寧に、きちんと順序だてて、理路整然と、論理的に、「真理」を探求しようとしたわけだ。そこが近代哲学の要であったのと同時に、近代哲学の限界でもあり、これ以降の現代思想によって批判・検証されてゆくのだが、それはまた別の話となる。

我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉は、この『方法序説』の第4部において用いられた言葉だ。「自分が何かを思えるのは自分が存在しているからに他ならないんだからそれがどうしたというのだ」とも言えるが、そういう事ではない。デカルトは『方法序説』の第1部から第3部にかけて、「真理」の探究の為にそれまで自明とされてきたありとあらゆることに疑問を投げかけ続けてきた、という事を書いている。全てを検証するために全てに対して徹底的に懐疑的に接したわけなのだ。そして続く第4部でもって、「その検証する主体である”私”は確固として存在する」という「真理」に行きつくのだ。

ではデカルトはなぜ「真理」のために「あらゆることに疑問を投げかけ続けた」のだろう。そして「”私”が確固として存在する」という「真理」はいったい何を導き出そうとしたものなのだろう。

デカルトが疑問を投げかけたものは(デカルト自身も学んだ)当時のスコラ学派的な学問の在り方なのだろう。大まかにいうならスコラ学派は、論証の根拠をキリスト教古代ギリシャ哲学に求める、いわば権威主義的な学問だった。それをデカルトは疑い、自らの「真理」に辿り着こうとしたが、その「真理」とは第4部表題に書かれているようにキリスト教的な「神」と「魂」の概念だった。ここでデカルトは、あくまで自明とされてきた「神の存在」、「魂の概念」を、自らの論理でもって改めて検証し証明しようとした。そしてそれを成すのが「確固として存在する”私”」という主体性において、ということだった。逆に言うなら、それまでの学問は権威ありきであり、「私という主体」が存在しなかったと言うことなのだ。

ただここには矛盾があって、「あらゆることに疑問を投げかけ続けた」デカルトだが、「神の存在」それ自体は、証明するべきものではあっても疑問を投げかける対象では決してなかった、ということなのだ。それが17世紀ヨーロッパの限界ということもできるが、しかしあれだけ鋭敏な合理性を持っていたデカルトが、一片たりとも「神の存在」を疑わなかっただろうか、とも思えるのだ。というのは『方法序説』第6部ではローマ・カトリック教会によるガリレオ・ガリレイの異端審問と地動説の否定が、自らの物理学的意見の公表を躊躇わせた、ということが書かれていて、この『方法序説』自体も当初異端視されることを恐れ匿名で出版されていたのだ。デカルト自身は敬虔なカトリック教徒だったが、実はその教義の在り方と自らの合理的精神との矛盾をどこかで感じていたではないか。

しかし「疑問を投げかけてはいけないもの=神」に「疑問を投げかけてしまう」のは当時では恐ろしい禍根を生む事になる。だから「神の存在」は最初から「ある」の前提で検証せねばならなかった。ただしそれをスコラ学的な無批判な自明さによるものではなく、「自らの論理」でもってどうにかしてでも「ある」ものにせねばならなかった。そのためにはまず「自らの論理」の寄って立つ「自ら」を規定しなければならない。それが「”私”が確固として存在する」という事であり、そこを起点として「神の存在」を帰納的に論証しようとした。だが実のところデカルトの展開するその論証は、自己言及的な苦しいちぐはぐさに満ちている。なぜならそれは、実証主義的な見地により「神の存在」を論証しようとしているにもかかわらず、「神」それ自体はあくまで自明なものとして取り扱っているからだ。だが神を自明なものとして扱うことによる齟齬をデカルトは分かっていたんじゃないだろうか。

もう一つ、デカルトと同時代に生きた哲学者であり神学者でもあったパスカルが痛烈なデカルト批判をしていたことも挙げられる。パスカルは『パンセ』の中で「私はデカルトを許せない。彼は全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう(断章77)」と歯に衣を着せぬ口調で書いている。同時に「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである(断章4)」などと皮肉めいたことを書いているが、これもデカルトの事なんじゃないかと勘繰ってしまう。「神の存在」を論証しようとさえしたデカルトを、なぜ同じく神を信奉するパスカルがここまで批判するのか。そこにはデカルトの持つ合理性と理性主義が、実は「神の存在」と相容れないものであることを敏感に嗅ぎ取っていたからなんじゃないのか、とちょっと思ってしまった。