鸚鵡をめぐる冒険/ジュリアン・バーンズの『フロベールの鸚鵡』を読んだ

フロベールの鸚鵡 /ジュリアン・バーンズ(著), 斎藤 昌三(翻訳)

フロベールの鸚鵡 (白水Uブックス 102 海外小説の誘惑)

 文豪フロベールの生涯をめぐる二羽の鸚鵡の謎。「僕」のフロベール探究の旅は、「僕」自身の過去に、妻の自殺に思いを馳せながら次第にその色合いを変えていく。一作ごとに新しい趣向で世界じゅうの読者を驚嘆させる英国の鬼才J・Bの出世作にして最高傑作。英・仏・伊の文学賞を独占。

フロベールの短篇「純な心」

フロベールといえば 世界文学の名作『ボヴァリー夫人』を著したことで知られる19世紀フランスを代表する作家だ。以前そのフロベールの短篇集『三つの物語』を読んだが、その中の「純な心」という短篇が妙に心に残ったのを覚えている。

「純な心」は19世紀フランスの田舎町でメイドとして生きるある女の物語だが、晩年彼女は飼った鸚鵡を非常に愛し、鸚鵡が死んだ後も剝製にして天使の生まれ変わりとして崇めていた。フロベールはそんな彼女の愚直さと孤独さを突き放したような文体で描き切り、読み終わった後酷く遣る瀬無い気持ちにさせられた。

ポストモダン作家ジュリアン・バーンズ

イギリス人作家ジュリアン・バーンズの小説『フロベールの鸚鵡』は、あるフロベール・マニアの男が、フロベールが「純な心」を書く際に参考として借り出した鸚鵡の剥製を探し出そうとフランスを訪れるところから始まる。しかし男が発見したのはそれぞれ別個の二羽の鸚鵡の剝製だった。こうして男のフロベール探求の旅、”鸚鵡をめぐる冒険”始まる。

ジュリアン・バーンズポストモダン文学の作家として知られており、オレ自身はこれまで『10 1/2章で書かれた世界の歴史』『人生の段階』の2冊の長編を読んだことがある。ポストモダンというと分かり難いかもしれないが、脱構築的、すなわち従来的(モダン)な文学の話法・物語構造の在り方を批判・批評・逸脱し、その構造自体が意識的・批評的である作品であると認識している。もっと平たく言うなら「ちょっと変わった構成の作品ですよ」ということだ。

そもそもこれは物語なのか?

フロベールの鸚鵡』はどのような物語なのか?と説明するのは難しい。そもそもこれは物語なのか?とすら思えてしまう。作品内においては作家フロベールに徹底的に肉薄する作業が行われ、その人間像を生々しく浮かび上がらせるが、ではこれはフロベールの評伝なのか?作家論なのか?というと全く違う。とてつもないフロベール研究によって成り立っているであろう文章であるにも関わらずだ。

作中ではフロベールに関する”3つの異なった年譜”が表され、新たに発見された書簡を見つけたという怪しげな男、元恋人の架空のインタビューが登場したかと思えば、小説内に登場する動物一覧、試験問題、フロベール紋切型辞典、奇行集・危言集、”フロベールと鉄道”などなど、フロベールの本質というよりはそこから一歩引いたような些末な事柄に終始した章が続き読者を煙に巻く。だがこういった細部の集積が逆にフロベールの輪郭を浮き上がらせることになる。あくまでもからめ手なのだ。

そしてこのフロベール探求者である主人公というのが作者自身ではなく創作上の架空の男、というのも曲者だ。つまりどれだけフロベールを論じようとそれは架空の男による評論であり、作者並びに関係者の責任の負うところではございません、という構造になっているのだ。いやあ、変なことやってるなあ!さすがイギリス人(褒め言葉)。

従来的な物語構造を裏切る構成

おまけに後半、”物語”を飛び越え、主人公による自殺した妻への切々とした心情が語られ始め、それがあまりにも唐突にあまりにも”私的”に心情吐露が成されるため、虚を突かれてしまう。だがあたかも作者の心情のように読めてしまうこの章は作者の体験では決してない(『フロベールの鸚鵡』は1984年の作品だが作者の妻は2008年に病死。そしてこの体験は『人生の段階』(2013)で語られる)。これはなんなのか?と考えるに、私的心情を一切排したフロベール文学に対し、私的心情を募らせた文章を対比させ、逆にフロベール文学の在り方を明らかにしようとしたものではないか。

こういった、”従来的な物語構造を裏切る構成”を徹底的に推し進め、それにより正攻法のフロベール評論では伝わらないフロベールその人の姿をヴィヴィッドに活写すること、それが『フロベールの鸚鵡』において作者が成し遂げようとした作業なのではないか。これを読むともっとフロベールの小説が読みたくなるし、併せてもっとバーンズの小説も読みたくなる、そんな蠱惑的な作品だった。