ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』を読んだ

終わりの感覚 /ジュリアン・バーンズ (著), 土屋 政雄 (翻訳)

歴史とは、不完全な記憶と文書の不備から生まれる確信である――。二十代で自殺した親友の日記が、老年を迎えた男の手に突然託される。それは、別れた恋人の母親の遺言だった。男は二十代の記憶を懸命に探りつつ、かつての恋人を探しあてるが……。記憶の嘘が存在にゆすぶりをかけるさまをスリリングに描くバーンズの新境地。

ジュリアン・バーンズというとポストモダン作家という印象があるのだが、この『終わりの感覚』は非常にストレートな筆致で描かれた文学長編である。その物語は、学生時代に自殺した友人が残した日記が発見され、老境にある主人公の人生に大きな波紋を投げかけるといったものだ。

主人公の名はトニー。物語はトニーの学生時代から始まる。トニーの学友の一人にエイドリアンという名の青年がいたが、ある日トニーの恋人ベロニカがエイドリアンに鞍替えしてしまうのだ。だがその後エイドリアンは謎の自殺を遂げる。それから数十年後、離婚歴を持つ中年男性となったトニーのもとに手紙が届く。それはベロニカの死去した母親が、トニーに対しエイドリアンの日記を遺贈する意思のあったことを告げるものだった。なぜ数十年も経ってからエイドリアンの日記がトニーに贈られるのか?そしてそれがなぜベロニカの母からのものなのか?トニーは真実を知ろうとベロニカに連絡を取ろうとするが、ベロニカは頑として会おうとしない。それはいったいなぜなのか?

こうして、一つの死を巡り、その死の真相と、その真相が数十年を経た後でなければ明かされなかった理由が、錯綜した物語となって描かれてゆく。そのテーマとなるものは、若かりし頃に犯してしまった過ちは、決して一生拭いきれないものなのか?ということだ。学生時代のトニーは自らのもとを去ったベロニカと、その原因となったエイドリアンに小さな復讐心を抱いたが、それは老境となったトニーにとっては、既に大昔の、忘れ去ってしまうような出来事だった。その”忘れ去ってしまうような出来事”が今トニーを糾弾し彼の心を苛むのだ。

そしてこれは”曖昧な記憶”についての物語でもある。”忘れ去ってしまうような出来事”は、本当に忘れ去られていたのか?忘れたのではなく、それは都合よく記憶を改竄していたのではないか?そうして何事もなかったかのように自己保身を遂げていたのではないのか?こうして、自らの過去を再び掘り下げ始めたトニーは、それらが青年期の時と老年期の今とではまるで解釈が違ってくることに思い至る。記憶とは主観的なものであり、それはどうとでも自分に都合よく解釈できる。そして本当の事実に突き当たったトニーは、衝撃的な真実を知ることになる。

バーンズがその小説においてテーマとするものの一つに「記憶の不確かさ」がある。それは「歴史記述の(恣意的な)曖昧さ」という形となって『フロベールの鸚鵡』『10 1/2章で書かれた世界の歴史』に現れ、『イングランドイングランド』では冒頭から主人公の「記憶の不確かさ」が記述される。この『終わりの感覚』でも、ある一節で「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」と記され、物語では「記憶の不確かさ」が主人公を苦しめることになる。

このテーマは何を言い表そうとしているのか。記憶とはどこまでも主観的なものであり、決して客観的な現実を映し出すものではない。そして己の記憶が信用できないものである以上、その記憶を根幹として成り立つ己の現実もまた信用できないということであり、そんな不安定さの上にかろうじて立っている人間存在そのものの危うさを提示しようとしているのではないか。

自分の身に引き寄せてみるならば、自分自身の若かりし頃に、語るのを憚るような浅ましい行動をとったことがないとは言えない。法を犯すような類のものではないが、人を傷つけたり、欺いたり、人として正しくないような事柄だ。それを老年となった今、どう思うべきかと問われるなら、それはもはやどうしようもないとしか言いようがない。懺悔し続けなければならないのか、許しを請い続けなければならないのか。しかしそれはもう、もはや遅きに逸したこととして自分を納得させるしかないではないか。それこそが欺瞞であろうとも、都合よく編纂された記憶であろうとも。ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は、そんな、自分の心の深い部分に、小さな棘のような痛痒感を残した作品だった。