三つの物語 / フローベール (著), 谷口 亜沙子 (翻訳)
無学な召使いの人生を、寄り添うように描いた「素朴なひと」、城主の息子で、血に飢えた狩りの名手ジュリアンの数奇な運命を綴った「聖ジュリアン伝」、サロメの伝説を下敷きに、ユダヤの王宮で繰り広げられる騒動を描く「ヘロディアス」。透徹した文体からイメージが湧き立つような短篇集。
フローベールといえば「世界文学十大小説」と呼ばれる『ボヴァリー夫人』を著した19世紀フランス人作家だが、そのフローベールによる晩年の短編集『三つの物語』は作者唯一の短編集であると同時に最後の作品となる。フローベールは「作品の中から作者の主観を排除し、客観的で精密な文体を通じて作中の人物に自己を同化させることを信条とする写実主義文学を確立した作家*1」として知られているが、その「写実主義文学」の本質をとことん堪能できる素晴らしい短編集となっている。フランスでは『ボヴァリー夫人』よりもこの『三つの物語』をフローベールの最高傑作として挙げているらしいが、それも頷ける面白さだった。
ではその「三つの物語」を紹介してみよう。
「素朴なひと」は19世紀当時と思われるフランスの田舎町を舞台とした、一人の純朴な女中の半生を描く物語だ。主人公フェリシテは愚直と言っていいほどに主人に忍従し、またそういった自分の仕事に幸福と満足を感じている、まさに女中の鑑のような女だ。フェリシテの性格はタイトルにある「素朴なひと」そのままに思いやり深く温厚で人当たりよく裏表もない。そんな彼女が名もなき市井の住人として健気に生きる姿には心温まるものを感じる。しかしそこはフローベール、そんなフェリシテの姿を『ボヴァリー夫人』と同じく突き放したような文章で語ることで、フェリシテその人が抱える孤独さを残酷に浮き上がらせてしまうのだ。特に後半、フェリシテと彼女の愛する鸚鵡のくだりから、彼女の人生の寂しさ切なさがじわりじわりと伝わってきてしまい、ひどく遣る瀬無い気持ちにさせられた。その中で一つの「救い」を描こうとしたラストには心震わされるものがあった。フローベールという作家の怖さと巧緻さが非常に伝わってくる物語だった。
「聖ジュリアン伝」は中世の聖人ジュリアンの数奇な運命を描いた寓話作品である。ジュリアンが領主の息子として生を受けた時、彼の両親はそれぞれに予言を託される。父は「ジュリアンは将来王族となる」という予言を、母は「ジュリアンは将来聖人となる」という予言を聞くのだ。しかし物心付き、狩りの面白さに憑りつかれ領内の動物を皆殺しにしたジュリアンは、呼び覚まされた精霊から「お前は自分の手で両親を殺す」と予言されてしまうのだ。この3つの予言が本当に的中するのか、という部分がもうなにしろ面白い。王族、聖人、親族殺人者というそれぞれに矛盾した予言の内容が、一つ一つカチリカチリと当たってゆく展開にはぞくぞくさせられた。文章は非常に幻想的であり表現は巧緻かつ仔細を極め、美しくもまた妖しいイメージが次々と立ち現れ、フローベールの文章力の凄まじさをまざまざと体験できる作品でもある。寓話であると同時に一級のファンタジー小説としても読め、まるで古さを感じさせない鮮烈さからはこれが現代作家が書いたものではないかと思わせたほどだ。
「ヘロディアス」はさらに時代が下り、古代イスラエルのエルサレムを舞台に、ユダヤ王ヘロデと王妃ヘロディヤが成したある陰惨な事件を描くものである(タイトルの「ヘロディアス」とは「ヘロディヤ」のフランス語読み)。それはヘロディヤの娘サロメが、踊りの褒美に城に監禁されていた洗礼者ヨハネの首が欲しいと懇願するという、聖書においても有名な物語である。洗礼者ヨハネはイエスに先立って人々に教えを説き、イエスに洗礼を施したという聖人だが、ヘロデ王の戒律を無視した結婚に反対したことにより牢に繋がれていたのだ。いわば聖書にまつわる物語ではあるが、ここでフローベールは聖書物語の陳腐な再話を物語ろうとしたのではなく、キリスト教の宗教性からあえて切り離された、紀元前一世紀の古代イスラエルの空気感を生々しく描き切ろうと試みているのだ。それはヨルダン川流域の荒涼とした大地であり、曙光の中に佇むエルサレムの町の寒々しい光景であり、ヘロデ王と王妃ヘロディヤの倦怠に満ちた会話であり、そのヘロディヤの冷酷な嗜虐性である。これらがフローベルの透徹した筆致により、あたかも目の前で起こっているものように迫真的に描かれてゆくのだ。この作品においてフローベルは、聖書物語から神話性を剥奪し、時間も空間も遠く離れた古代世界をごろりとした実存として描くことに成功しているのだ。そういった部分でこれもまたある意味凄まじい描写力で成り立つ物語であると思った。


