バレエ「白鳥の湖」を観に行った

マシュー・ボーンの「白鳥の湖

バレエである。「白鳥の湖」である。なにをトチ狂ったのかこのオレがバレエ「白鳥の湖」を観に行ったのである。とは言ってもクラシックのそれではなく、コンテンポラリー・ダンスと呼ばれる、いわゆるバレエの現代的解釈版というやつだ(多分)。演出・振付はマシュー・ボーンという方。この『マシュー・ボーンの「白鳥の湖」』は、1995年に初演された演目であるらしい。この日は東急シアターオーブへ相方さんと二人で観に行った。
バレエのバの字も知らないオレが、この舞台を観に行くきっかけとなったのは相方さんが興味を示していたからであった。「なんじゃいな」と思って調べたところ、この『マシュー・ボーンの「白鳥の湖」』、男性が白鳥となって踊っているのである。「ほう」とオレは思った。この段階で英国の匂いがぷんぷんする。英国流の批評と皮肉、そして同性愛的な性向が見え隠れする。あにはからんやマシュー・ボーン氏は英国人だという。それと併せ、オレはデヴィッド・ボウイやペット・ショップ・ボーイズら英国産ロック・パフォーマーの、シアトリカルなステージ構成を楽しんだ覚えがあるので、その原点ともなるイギリスのダンス・パフォーマンスを観てみたいという興味が沸いたのだ。
そして実際に観た『マシュー・ボーンの「白鳥の湖」』は、バレエには門外漢のオレが観ても素直に面白く、そして素晴らしいと思えるものだった。実はオリジナルの物語すら知らなかったし、チャイコフスキーの『白鳥の湖』だってあの有名な一節しか知らなかったオレではあるが。公演時間は休憩時間20分も含む2時間20分、この間たっぷりと楽しんだ。美しく力強く、そして十分芸術的だ。しかも決して堅苦しかったり難解だったりという敷居の高さが無く、むしろ時としてユーモラスであり、当初想像していた通り批評と皮肉がスパイスされ、さらに官能的であるのだ。
「現代的解釈」ということから、物語の舞台は中・近世のヨーロッパの王室ではなく、現代を思わせるものになっている。王室の中こそ古めかしいものであるけれども、そこでは今風のセレブやパパラッチが登場し、車があり携帯電話があり、怪しげなナイトクラブではヒップな客たちがさんざめいていたりする。しかし演じられるのは確かに『白鳥の湖』なのだ。こういった部分がまず新奇で面白い。そしてバレエのことを知らないオレでも入り込みやすい。
物語は、幼い頃から母親である女王の愛に飢えつつもそれを満たしてもらえない王子の孤独を描くものだ。その孤独から死を選ぶ王子だったが、そこで雄々しく舞う白鳥の美しさに心癒され、生きる気力を得る事になる。そんなある日、舞踏会に現れた謎の男にあのときの雄々しい白鳥の面影を見出し、王子は近づく。だが男に拒絶され、さらにその男に愛する母まで奪われ、王子は狂乱したまま悲劇へとひた走ってゆくのだ。

マシュー・ボーンの「白鳥の湖」を解題してみる

この物語構成は、実のところ奇妙である。この舞台では、白鳥たちを上半身裸の細マッチョな男性ダンサーたちが演じ、それに王子が魅入られ惹き付けられるという部分に同性愛的なモチーフがあり、かの謎の男へと擦り寄る王子の態度も同性愛的である。だからこの演目も、英国流の同性愛的なイメージに満ちたもの、と簡単に片付けてしまってもいいのだけれども、そもそも白鳥は人間ではないし、それに思慕を覚えたところで同性愛へとは至らない。では白鳥とはなんだったのか、そして謎の男とはなんだったのか、というのがこの「現代版・白鳥の湖」の核心ではないのか。
母の愛を得られず苦悩する王子はいわゆるマザー・コンプレックスであるということもできるが、それと同時に、父親の不在は、「予め不発に終わることが運命付けられたエディプス・コンプレックス」ということができないだろうか。即ち王子には、乗り越えるべき父が存在せず、そして父を乗り越えることで獲得できる「男性性」、つまり男として生きるためのロールモデルが無かった、ということなのである。
この舞台で演じられる白鳥たちは優雅で美しくあると同時に、男性が演じることにより、野生の猛々しさと逞しさを備えた生き物として登場するのだ。その中で王子が思慕を覚えるのは白鳥たちのリーダーである。将来王室のリーダーとして期待される王子は、その中に自らの「男性性」のあるべき姿を見出したということができないか。白鳥のリーダー、ザ・スワンの腕の中に抱かれる王子は、別に同性愛に目覚めたのではなく、そこで自分自身のあるべき姿に抱きしめられたのだ。
そして舞踏会に現れた謎の男もまた、王子の理想する「男性性」の権化なのだ。謎の男は自信たっぷりに振る舞い、色気たっぷりに宮殿の女たちを誘惑する。つまり白鳥に見出した「男性性」と同様の「男性性」をそこに見出したからこそ、王子は謎の男に近づいたのだ。これもまた、同性愛の具現なのではなく、自分自身のあるべき姿に抱かれたい、という願望だったのだ。しかし、その男に母を奪われ王子は狂乱する。なぜなら、その母から溢れんばかりの寵愛を受ける筈なのは自分だったからである。つまり、自分がまだそこに至らない、自分自身の分身に、母親を奪われたからの狂乱だったのである。
こうして見ると、ファンタジックで素朴なエロスの物語であったオリジナルの『白鳥の湖』とこの『マシュー・ボーンの「白鳥の湖」』では、そのテーマとするところが180度違うことが判ってくる。このマシュー・ボーン演出は、同性愛も含めエロスの物語ではなく、「男が男であろうとすることの苦悩と悲劇」、これに尽きる。こういった、同じ演目を換骨奪胎することによりまるで違う物語にしてしまう批評性、こういった部分でも、この舞台は楽しめるものだった。

※カーテンコールは撮影してよいということだったので自分も調子に乗って撮影しちゃいました。この日は今公演で最も注目を浴びていたマルセロ・ゴメスという方の出演日だったのでラッキーだったのかも。